もう大丈夫だ。何も怖くない

 身体がコマのように回転した。ダンスのステップみたいに引き寄せられ、のけぞって、深く抱かれる。

 まるで深海に放り出されたかのようだった。肺の中の空気が全部、泡になってのぼっていく。まぶたの裏がちかちかと眩んだ。


「ニコル。しっかりしろ。無事か」

 うわずった声が近づいた。息急き切った吐息が肌に降りかかる。


 目元にかぶさる金のほつれ毛。過ぎ去った黄金の日々にも似て、どうしようもなく遠く、もどかしく、まぶしい――

 覗き込んでくる顔の半分が悪魔の仮面に覆われていても、声だけは、あのころと同じ。

 まっすぐ、胸の奥深くまで一気に突き抜けてくる。


 ニコルは、むさぼるように深呼吸した。こらえていた息を吐き出す。

「チェシーさん」

 声が、震える。

「チェシーさん……!」


 口にしてはいけない。信じてはいけない。ずっと秘めていた想いがとめどない涙声となってあふれる。


「もう大丈夫だ。何も怖くない」

 小さな子どもに含み聞かせるような、穏やかで落ち着いた声。


 ニコルは震える手で、漆黒の軍衣をくしゃくしゃになるまで握りしめた。顔をうずめる。感情が奔流となって吹き出す。

「《虚無ウィルド》が……」

「落ち着け。あとは任せろ」

 もう一度、今度こそしっかりと強く抱き寄せられる。


 チェシーは悪魔の面を毟り取った。背後に投げやる。

 仮面の下から怒気にゆらめく金泥の邪眼が表れた。イェレミアスを睨みすえる。

「これは何の真似だ、イェレミアス。聖女ソロールニコラは、女王の名において敵国の迫害から救い出され我が帝国の庇護を受ける身である。それと知っての狼藉か。恥を知れ」


 憎悪と軽侮の視線がぶつかり合う。


 イェレミアスは緑の眼を凶暴にぎらつかせ、怒鳴った。

「その女の正体は、人質に身をやつし敵国ティセニアと通謀する国家擾乱の妖術使いだ! なればこそ帝国法に基づいて尋問する必要がある。その手管、貴様にも身に覚えがあるだろう。そこを退け、僭公せんこう


 チェシーは挑発を無視した。冷静に応じる。


「濡れ衣も良いところだ。彼女に何ができる。庇護下とは名ばかり、大法官の許可なくば外に出ることも、会うことも許されぬ幽閉の身で。かくいう貴様も、真っ当な方略を用いてこの場にいるのではなかろう。逃げた侍女はブランウェンの配下のものが連れて行ったぞ。何か口を割る前に退散したらどうだ」

 追求の言葉に、イェレミアスは鼻をゆがめた。傷ついた手首を押さえ、舌打ちする。

「覚えていろ、サリスヴァール。いつか貴様の欺瞞を暴き出してやる」

「好きにするがいい。それが貴様の信じるゾディアックの正義であるならば」

 チェシーは、にべもなくいなす。


「ふん。退け。邪魔だ」

 捨て台詞を残すなり、イェレミアスは肩をそびやかせた。

 わざとチェシーにぶつかって肘で押しのけ、足音も荒く螺旋階段を降りてゆく。軍人の一団が後に続いた。


 不穏な黒い鉄薔薇の影が、炙られた影絵のように裏返ってちぢんだ。闇にまぎれる。


「すみません」

 ニコルは熱を帯びた吐息をついた。

 チェシーが改めて支え直し、頬に手を触れる。

「熱があるな。とにかく部屋へ戻ろう。歩けるか」

 ニコルはぐらぐらする頭を横に振った。

 チェシーは躊躇わなかった。

「失礼」

 腕を伸ばし、膝下に回し入れて、片腕で赤ん坊のように抱き上げる。ニコルの長くなった髪が揺れる。

 チェシーは足早に階段を上がった。房室に戻る。

 しんとして寒々しい部屋には火の気もなく、灰色の月光だけが床に落ちていた。

 床に血だまりが広がっている。チェシーは声を押し殺した。

「怪我をしたのか」

 ニコルはかぶりを振る。あれはイェレミアスの血だ。

 チェシーは血の跡を見つめ、あえて眼をそらした。

 それ以上は問わず、大股でベッドに近づき、小鳥の雛を巣へ返すかのようにそっとニコルを下ろす。

 ベッドは古ぼけた軋みを立て、たわんだ。

 足首の鎖が耳障りに鳴る。


 なよやかに白く透けるネグリジェの裾が乱れ、似つかわしくない鉄枷があらわになった。チェシーは暗い表情をさらに硬くした。

「すまない」

 異形の手をかざし、赤く腫れた足首を傷つけぬよう細心の注意を払いながら鎖を引きちぎる。

 ニコルは熱に火照った頬をそむけた。イェレミアスに無理やりねじり上げられた手首が、じりじりと熱を発していた。赤黒く変色した跡が残っている。荊棘イバラの刺青にも似た、まがまがしい形。

 そのあざが、動いていた。ちろ、ちろ、と舌を出して獲物に狙いをつける蛇のように、ひどくゆっくりと。だが、確かに。

 動いている。


「だめ、僕に触らないで」

 喉が焼けつくようだった。なのに身体の奥が氷のように冷たい。


「落ち着け」

 チェシーは鎖輪の残骸を床へ投げ捨てた。撒き散らされる音が床に硬く響く。

「大丈夫だ。すぐに医師を呼ぶ」

「だめ……」

 ニコルは呻いた。鉄枷の残骸に打たれ、あやうい微光を帯びた何かの影がぬるりとのたうって闇へと逃げ込んでゆく。

「ニコル」

 押し殺した声が覆い被さった。

「ニコル」


 ニコルは反射的にかぶりを振った。我知らず涙がにじむ。髪がみだれ、宵波のように広がった。

「……近づいちゃ、だめ……」

 チェシーが声を無くす。

 ニコルは重いまぶたを開いた。苦しい息を押してチェシーの面影を見上げる。

 思い詰めたまなざしが、か細い漁火のように揺れていた。

 黒く染まった金瞳の重眼に、おののく表情が写り込んでいる。

 虚無の幻影に囚われた、血と薔薇の瞳が。

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