分かっている。すべては私の咎だ。君を

 ニコルは息をすすり込んだ。魂にまとわりついた深紅の残映を振り落とそうとする。

 チェシーが肩を押さえつけた。

「暴れるんじゃない。どうした、何が」

「だめ。本当に、離して。さもないと……!」


 ニコルは病的に声を裏返らせ、チェシーの手を払いのけた。転がるようにしてベッドから降り、窓際へと伝い逃れる。

「ニコル」

「来ないで」

 拒絶の指先が、ベッド横のテーブルの角に強く当たった。

 けたたましい音を立てて、銀の水差しが倒れた。床に落ち、回転して中身を撒き散らす。


 影となった部屋の隅から、ふいに黒い刺めいた何かがしなり伸びた。チェシーの首を狙っている。


 古びた姿見の鏡に、有り得べからざるものが映り込んでいた。

 ゆらめく灯火と影の中で、青白い息を吐いて立ちすくむニコル。悪魔めいた仕草のチェシー。その背後に。

 ねじれのたうつ鉄条の黒い薔薇の蔓が、無数に。


 鉄の荊棘が振り落ろされる。チェシーは幻影の蔓を肩越しに掴み取った。棘が突き刺さるのも構わず、力任せに引きちぎる。

 黒い鉄の薔薇は、鎖環のようにばらばらとほどけ、青黒い微光を放って散らばった。


「何だ、今の」

 チェシーは周囲を見渡した。愕然とした表情が月影に照らし出される。開いた掌から仄暗い煙が立ち昇った。


 チェシーは我に返ってニコルを見下ろした。

「しっかりしろ。本当にどうしたんだ。何なんだ、これは一体」

 床に落ちた水差しから、赤黒い水がこぼれ出していた。

 血と見まごうほどの生々しい色が、チェシーの足元に広がっている。

 薔薇の凄艶な香りがまとわりついた。

 影が、くろぐろとうねり伸びて。悪魔の翼を広げる。


「来ないで。どうせ、どうせ、また……!」

 ニコルは両手で耳を押さえ、強くかぶりを振った。喉の奥の声が乾いて、ざらついて。かすれる。


 これは幻影だ。恐怖が見せる失錯の幻覚。

 助けに来てくれたように思えたのも。

 こころぼそさのあまり、つい、気をゆるしてしまいそうになったのも。

 足下が今にも壊れそうな吊り橋のようにぐらぐらと傾くのも。


 何もかもが心の迷いだ。まやかしの嘘だ。またいつもの、仕組まれた罠だ。


 忘れてはいけない。

 思い出せ。

 この男だけは、決して信じてはいけない。


 どんなに信じても想っても、どうせまた裏切る。

 味方の振りをして内側からすべてを壊す。

 息をするように嘘をついて、つめたく笑って、掌を返して。だから、もう、絶対に――


 ふいにチェシーが顔をゆがめ、ニコルの手首を掴んだ。壁に押しつける。

「落ち着いてくれ、頼む」

 張りつめた吐息が降りかかる。ニコルは囚われた猫のようにもがき、チェシーの手首に爪を立てようとした。

「ニコル」

 声が迫った。

 視界が金獅子色の乱れ髪に遮られる。


 気後れしているように見えても男の力だ。いったん抑え込まれてしまえば、抗うことなどできようはずもない。

 苦しい息づかいが、不意にくぐもった小さな悲鳴へと変わる。

 影が、重なる。

 優しすぎるほどに残酷な、もどかしい、不器用な口づけが覆いかぶさった。


「すまない」

 ニコルは呆然と眼を見開いたままだった。

 悪魔の腕に容赦なく抱かれ、涙ごと唇を深く、奪われ続ける。

「落ち着いてくれ、レイディ」


 一瞬。ニコルの頰にかつてチェシーによって刻まれた血の盟約の紋様が浮かび上がった。眼元から唇へ、首筋へ、人のものではない文字が浮かび上がってはすぐに消え、虜囚の鎖となる。

 ささやき声だけが万雷となって聞こえた。

 吐息が洩れる。

「はい。サリスヴァール様の御言みことのままに」


 なまめく血の味に魅了される。また、罠に堕ちて──


「レイディ」

 チェシーは、ふるえる腕でニコルの肩を抱いた。押し殺した声でつぶやく。

「分かっている。すべては私の咎だ。君を」


 目には見えぬ抑圧の薔薇が、魂に絡みつく罪人の鎖となって四方に張り巡らされ、無意識下の感情をひねり潰してゆく。


「愛してはいけなかった」


 その声はもう、聞こえない。

 泥のように苦いくちづけの意味も、何かをどこかに置き忘れてきたようなおぼつかなさも、今はない遠い激情も優しい記憶も。何もかもが不甲斐なく刃こぼれ、すれ違って。


 かつての自分が、この孤独な征服者をどのように思っていたのか、そんな簡単なことすら、もう。


 わからない。


 悪魔の血に支配され、繋がれた人形のように無気力となった様子に気付いたのか。


 チェシーは身をこわばらせ、一歩、後ろに下がった。苦いまなざしでニコルを見つめ、何か言おうとしかけても声にならず。

 言いあぐね、くちびるを噛む。


 ニコルは熱にかすんだうつろな目でチェシーを見やった。

 虚無が心をむしばんでゆく。


 いっそ、壊れるまで泣き叫んで、自分が自分であることを投げ棄ててしまえば、そうすれば少しは、この思いを振り払うことができたのかもしれない。

 なのに、どうしてだろう。


 もう、信じ方も、憎み方さえも、思い出せなくなって。


「医者を呼んでくる。待っていろ」

 チェシーは最後にもう一度、何とかニコルと目を合わせようとして異形の腕を伸ばした。

 手首に巻いた禍々しい形の手甲バングルに、割れた《封殺ナウシズ》の残骸がいまだに留められている。


 頬に触れ、顔を上げさせる。

 《封殺ナウシズ》から、遠い呼びかけにも似たひと筋の光がもれた。かすかに瞬く。


 ニコルは反応しなかった。血の色に染まった瞳孔に、光は届かない。


 チェシーは口元をゆがめ、部屋を出て行った。階下の闇からル・フェを呼び出し、二言三言、低く言い置いて。

 階段を下りてゆく。硬い足音が遠ざかる。


 床の赤い染みに、不穏な細波が広がった。


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