夢は叶わない
ニコルの知るチェシーはもう、いない。
輝かしい、懐かしいノーラスの日々は、裏切り者の手によってすべて破壊し尽くされた。遠い夏の日の優しいくちづけも、真冬の凍りつく涙の雪も、何もかもが最初から全部、嘘。
胸の裡にどろりと滲み広がってゆく黒い色は、憎しみとも口惜しさとも違う虚無の雪だ。二度と溶けることなく、黒く。しんしんと心に降り積もる。
あの日以来、チェシーは姿を見せない。冬の間じゅうずっと、明けぬ夜の氷に閉じ込められて、ただ、ただ、捨て置かれている。
毎夜飲まされる甘い毒も、夜ごと訪れる悪夢も、怪奇じみた悦楽も、慰めを装った暴虐に蹂躙されるのも。
すべては血塗られた孤独の狂気が見せる幻影。
存在しないルーン、《
女帝の問いに正しく答えぬ限り、牢獄から出る夢は叶わない。
しばらくの間、呆けたように座り続ける。自分の正体が自分で分かっていれば、こんなことにはなっていない。
棄教のそしりを受けて魔女狩りに遭い、処刑された《
マイヤの罪は、ニコルを宿した《
そして、聖女の証である薔薇の瞳を失ったせいで心を病んだザフエルの母もまた、かつては《
三人の聖女の間にいったい何の諍いがあったのか、ニコルは知らない。ただ。
ザフエルの母はレイリカを、そして信じられないことにザフエルをも、ひどく憎んでいた──
物音が聞こえた。扉の向こう側から人の気配がする。
閂が横に滑った。錆混じりの音が夜に軋む。
「起きているではないか。麻薬をかがせていたのではないのか」
「申し訳ございませぬ……」
焦った声が縮こまる。戸を開けたのは世話係の侍女だ。
よろける侍女を傲然と肩で突き飛ばし、部下を引き連れた軍人が一団となって入り込んできた。
「もう良い。往ね」
軍人は命令し慣れた尊大な口調で侍女を追い払った。
「口外すれば家族もろとも命はないぞ」
一瞬、ぎらりと黒く。威圧の銃口が光る。
侍女は苦渋の表情でニコルを見、すぐに見て見ぬ振りの眼をそらして逃げ去った。
扉が閉まる。
軍人は後ろ手に鍵をかけた。薄笑いとともに振り返る。
「これが、公国の頂点を極めた元帥の成れの果てか。また、随分と変わり果てたものだ」
高慢な嘲笑が耳を打つ。
ニコルはぼんやりと顔を上げた。背格好も、雰囲気も。感じ慣れたチェシーのものでは、ない。
ならば、もう、どうでも良かった。
驕傲に吊り上がった緑眼の軍人が、黒衣の部下を引き連れ、まるで秘密の会合でも開くかのようにニコルを取り巻いている。
軍人はニコルの細い顎を掴んだ。ぐいと仰向かせる。
「恐ろしくて声も上げられぬか」
ぬかるんだ記憶が踏み散らされ、厭な音を立てる。リーラ河を挟んだ激闘の日々がまるで遠い過去の出来事のように思えた。この声には聞き覚えがある。イェレミアスだ。
ニコルはかすかに胸の底がぐらつくのを感じた。対ティセニア戦線にいるはずのイェレミアスが、なぜ。
「何がルーンの聖女だ」
イェレミアスは憎々しげにニコルを睨んだ。掴んでいた顎を粗暴に振り捨てる。
執拗な光が緑色の眼に宿った。
「陛下も大法官も頭がどうかしてしまったに違いあるまい。サリスヴァールのような、どこの馬の骨ともしれぬ野盗上がりの私生児ごときを、よりにもよって帝国の皇位継承者として認知するなど。常軌を逸した愚行としか思えぬ。何が、皇子だ。悪魔の分際で」
イェレミアスがわかりやすい嫉妬をぶちまけるのを、ニコルはぼんやりと聞き流した。
そんな無反応が余計に癪に触ったのか。イェレミアスは顔をさらに赤黒く煮え立たせた。
「連れ出せ。この私みずから厳しく尋問してくれる。この女から自白を得るのだ。さすれば陛下も帝国の安泰を揺るがす奸策にお気づきになるであろう」
「はっ」
「さあ、立てアーテュラス。貴様の本性は分かっている」
銃口が背中に突きつけられる。ニコルは鉄をねじり込まれる痛みに顔をゆがめた。
萎えた足では、すぐには立ち上がれない。
イェレミアスはそれを抵抗と見たのか、不意に手首を掴んだ。ひねり上げる。肩の関節が逆にねじれて、悲鳴をあげる。
憎しみに荒んだ声が耳を突いた。
「無駄な演技は止せ、魔女め。あのおぞましい闇のカードが、私の部下を何百人食い殺したと思っている。決して忘れんぞ」
部下の一人が鉈で鎖を断ち切った。イェレミアスは容赦なくニコルを引っ立てる。
足枷の鎖が、危急を告げる鳴子のような音をたてて夜闇に鳴り渡った。
扉を開け放つ。追いやられた先に、急な勾配の螺旋階段があった。入り口だけがぽっかり四角く開いて、その先は奈落。
灯火にゆらめく人影が一瞬、闇から這い出る無数の手に見えた。
膝が震える。
「何百人」
狂気と引き換えに敵を殺した、死の間際の叫び声がよみがえる
「僕が、殺し……」
影の形が、鋭い刺に変わる。
イェレミアスが低くない叫びを放った。怒りに青ざめ、手を振りほどく。何があったのか。片方の手でもう一方の手首を押さえ、くちびるを醜悪に歪めている。
足元に血がこぼれ散っている。黒いしずくが止まらない。
「これは何の真似だ」
イェレミアスは総毛立つ表情で睨み付けた。
何が起こったのかとっさに理解できない。ニコルは眼をみはった。
黒い薔薇の刺が影から影へと伸び、いつの間にかイェレミアスの手首に何重にもなって絡みついている。
「この期に及んでまだ抗うか、小娘が」
イェレミアスは恐怖と憤怒に醜く顔をゆがめ、手首の刺をむしり取ろうとした。力を加えれば加えるほど刺はさらに凶悪に締まり、手首を突き刺す。
「魔女め!」
イェレミアスは吠えた。そのまま肩でニコルを力任せに突き飛ばす。
ニコルはあっけなくよろめき、螺旋階段の壁に頭を打ち付けた。
嫌な音がした。意識が朦朧となる。
足枷の鎖が絡まった。もつれる。ぐらりと世界が傾いだ。
こんなところで倒れたら、螺旋階段の一番下まで真っ逆さまに──
急に思い出した。
あの日、ツアゼルホーヘンで最後に別れた時の、チェシーの言葉を。
(階段は転げ落ちるためにあるんじゃない。これからは、必ず一歩ずつ普通に下りるんだ。いいな)
眼がかすんだ。視界が熱く滲む。
どうして、そんな簡単なこともできなくなってしまったのだろう。あの日から、何が本当で何が嘘なのか、誰が味方で誰が敵なのかすら分からなくなってしまった。
死ぬな。あきらめるな。生きろ。託された望みは、たったそれだけのことだったのに。
自分の気持ちにさえ蓋をして、嘘をついて。後ずさって。立ちつくして。耳をふさいで。眼を閉じて。今みたいに何も考えられなくなって。
階下で騒然と争う音がしたかと思うと。
切迫の靴音が、螺旋階段を猛然と駆け上がってくる。
魔物の羽ばたきにも似た重苦しい外套の音が、耳元で風のように鳴った。
「ニコル」
とっさに差し伸べられた異形の腕が、衝撃となってニコルを受け止めた。
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