かつてチェシーと名乗った男

 突風が吹き荒れる。揺れ動く枯れ木の突端に、濡れそぼった黒い影が掴まり立っていた。骨ばった異形の翼が窄み、閉じる。

 喉の奥から淀んだ唸りがもれた。徐々に人の姿を取り戻してゆく。

 闇に侵食された魔眼を伏せる。代わりに、残された左目が開いた。

 青い、ゾディアック女帝と同じ色の瞳に、ぼんやりと光が灯る。


(おっと、ようやくお目覚めか)

 くつくつと卑猥に笑う声が聞こえた。

(あと少しで最後までやれたのにね。ま、いいや。あれを見なよ)

 濁流の轟音が耳を圧する。

 ともすれば途絶えそうになる意識を前方へと振り向ける。

 雷鳴が轟き渡る。空気が振動した。

 眼下は戦場だった。

 召喚された魔物の軍勢が、逃げまどうティセニア軍の残党をいたずらに追い立てていた。逃げ場はない。じりじりと包囲の輪が狭まってゆく。

 眼を森へと転じる。

 少し距離を置いた上流側にイェレミアスの第四師団、突洲の下流にレディ・ブランウェンの第八師団がそれぞれ伏せられていた。

(あの声が聞こえるかい、ゾディアック皇子。我が、魔の眷属たる者よ)


 かつてチェシーと名乗った男は、こめかみを押さえようとして、顔に触れた異形の左腕を見下ろした。興醒めの嘆息をもらす。

「そう言えばそんな盟約を交わしたような気もするな」

 気を失った友の姿。

 雷鳴に浮かび上がる記憶の断片。

 そのほとんどは、すぐに砂上の楼閣となって崩れた。吹き散らされて闇の水底に沈んでゆく。

(いくら急造とはいえ、大切な契約をそうもあっさりと忘れないで欲しいね)

 悪魔はするりと肉体から抜け出し、影だけの姿に戻ってぼやいた。

(君の真の名を手に入れるのに、僕の千の贋命のうちのいくつを無駄にしたと思ってるんだ。ああでもしなきゃ、本気で死ぬところだったんだぞ、君も)

「今さら知ったことか。俺は俺だ。名前など関係ない」

(相変わらずすげないね。ま、同感だけど)

 腕の《紋章》に宿ったル・フェは、欺瞞に満ちた笑いを滲ませた。

(で、どうするね?)

「何を」

(あれだよ)

 チェシーは示されるがままに漠然と地表を見下ろした。

 ティセニア軍は背水の地勢に追い込まれ、逃げ場も戦意も完全に喪失した絶体絶命の状態。右往左往するばかりの部隊に、じりじりと魔物の群れが迫る。

(……あれえ? 見えてないのかな? 放っといていいの?)

「何をだ」

 チェシーは身を乗り出そうとして、動きを止めた。眼を苦々しくほそめ、木々越しに戦況を見定める。

 恐慌状態に陥ったティセニア軍の密集隊形が割れた。後方から最前列へ、誰かが、半ば生贄の如く担ぎ出されてくる。

 か弱げによろめく姿。ニコル・ディス・アーテュラス。

「馬鹿な。何で、こんなところに、あいつが!」

 雨が動揺のうめき声を押し流す。

(なあ……知ってるかい?)

 喜悦にうわずった声が、四方八方から跳ね回って聞こえた。

(あいつさあ、橋が陥ちるまで、健気にも、君が戻ってくるのをずうぅっと待ってたらしいよ! 裏切り者が今さらティセニアなんかに戻れるわけないのにねえ? ホント馬鹿だよね。お馬鹿すぎて涙が出るよ)

 けらけらと笑う黒い小鬼の影が、腕から滴り伸びて、青黒く明滅しながらよじれ飛んだ。実体のない影だけが眼前を狂喜乱舞する。


 影の動きが、ぴたりと止まった。

 目の前に戻ってくる。

(あのままだと、間違いなくイェレミアスにられちゃうね)

 ひそみ嗤いが忍び寄る。

(殺させるにはさすがに少々もったいなくないかい? 少し優しくしてやりゃ、あいつはきっと、コロッとほだされてこっち側に来るよ。《封殺ナウシズ》と《先制エフワズ》さえ奪っちまえば、例えホーラダインでも手は出せない。あんなチョロい人質はないぜ? そうなればもう、こっちのもの。ノーラスを陥とすも、ティセニアを蹂躙するも、君の好きな誰かさんを奪うも、全部望むがままだ。もう一押しだよ……ほんの少しだけ、あと、もう一回だけ、優しい嘘をついてやりさえすればさ)

 悪魔の囁きが、甘い毒を垂らす。

 吹き降りの雨が、濡れた金髪を伝って、耳の後ろをうすら寒く撫でた。

 チェシーは答えなかった。無言のまま、窮地に立たされたティセニア兵の混乱に見入る。

 影は、くるりと前回りした。尻尾を揺らし、そっけなく吐き捨てる。

(あいつのこと、見捨てる気なんだ?)

 ニコルの手元に、昏い光がはためいた。死を予告する黄昏の極光がゆらゆらさざめいて、ニコルの横顔を、仄暗い闇紫の微光に染め上げてゆく。

(……確か、あれ、《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》とか言ったっけ)

「あの《カード》」

 ふいにチェシーは慄然とした。闇をまといつけたニコルの手元に目を奪われる。

「まさか」

 《紋章》の明滅が、次第に死の青みを強めてゆく。

 あやうい炎が雨風に溶け、にじみ、風にたなびく。

 悪魔の影が、ちらちら明滅する闇の尾を引いて、目障りに飛び交った。

 恍惚とした、一人芝居めいた口調で言葉を継ぐ。

(《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》。《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》。ああ、これは極上の絶望に匹敵するね。差し入れたひとさじのスプーンからあふれんばかりの、濃厚な地獄の泥濘。たちどころにとろける、あまやかな殺意の予感)

 悪魔は、くつくつと影をふるわせて嗤った。やがて、見慣れたウサギのぬいぐるみに似た形に黒い粒子の影を寄せ集め、羽根をばたつかせる。

(よだれが出るね。あの《カード》を使えば、あいつも闇の眷属だ。ええと、ほら、何ていったかなあ、あのはっちゃけた金髪のマダム。自分の命と引き換えに皆殺し、とか言ってたよねえ? 一撃で何人、いや、何千人殺せちゃうのかなあ?)

 灰色の雲が、稲光をはらんで蒼白の色に瞬く。

 闇と光の境界が、けざやかに切り取られた。

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