真実を知れば、あいつは、君を……この世界の誰より憎むだろうさ

 引き伸ばされた影が、まるで足下から崩れ去るかのように激しく揺れ動く。

 白いしべを寄せ集めた小花が、今にも枝からもぎ取られそうになりながら辛うじてぶら下がっていた。

 激しい風にあおられ、萎れた木の葉がちりぢりにちぎれ飛ぶ。

 理性を奪い去る暗紫の波紋。《闇》の声が、微弱な鳴動となって地を伝わり、空気を伝わって、四方へと広がってゆく。

 チェシーは人知れず口元をゆがめた。

 《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》が揺り立たせる波紋に、内なる深淵が呼応している。虚無のうねりが身裡を通り抜けるたび、黒い炎にも似た呪の烙印が皮膚に浮かんでは消え、消えてはまた黒く浮かび上がって、身体の表面をおぞましい束縛の紋様に染めあげてゆく。

(最初から分かってたはずだろ)

 半ば濁り、半ば消えかけた幻の薄暗い翼が、音もなく広がる。

(祖国ゾディアックの、いや、君自身の覬覦きゆのために争乱を引き起こし、ティセニアを、ノーラスを焼き尽くし、友を陥れ、踏みにじり――真意はどうあれ、擾乱を引き起こし、敵を弱体化させ、君自身の立場を確固たるものとする。それこそが君の任務であり目的であったはずだ。違うとは言わせないよ。まさに、そのためにこそ僕は喚ばれたのだからねえ? なのに、よもや、まだあの――お人好しの馬鹿のことで、未練がましくもためらっているのではないだろうね?)

「違う」

 チェシーは言下に否定する。悪魔は鼻白んだ。そらぞらしく首を振る。

(では、なぜ、最後の一歩を踏み出そうとしない? あいつを捕虜として帝国へ連行することこそが、君の本当の目的だったはずだよ?)

「……」

(いいんだよ、答えなくても。そうさ、分かってる。君は恐れてるんだ。君の本当の名を、敵国の皇子であることを、君こそが彼の真の敵だったと知られるのが……の信頼を失うのが、を傷つけるのが、を失望させるのが怖いんだ。でもね。すべては一夜の夢、過ぎ去りし刹那の戯れだ。眼が覚めれば悉く崩れ去ってゆく。今の君のようにね。何一つ、想いを伝えられず、ただ離れてゆく。それが、君の選んだ断絶の未来。いつか、なんて時は、もう二度と来ない。だから、さっさと忘れちまえよ。真実を知れば、あいつは、君を……この世界の誰より憎むだろうさ)

 チェシーはうつろに嗤った。

「ああ……そうだろうな」

(いいね、その眼)

 悪魔は眼をほそめ、緩慢に含み笑った。細くくねる舌をぺろりと出し、あけすけに口元を舐めずる。

(どうせ敵になるんだからさ、あいつの死にざまをとくと見せてもらおうじゃないか?)

 影が邪悪な渦をまとい、形を変え始める。

(……あの《カード》を使えば、自分の命、あるいは味方の命と引き替えに、敵を全滅させられる、だったっけ?)

 降りしきる雨。

 ゆらりと天を射す、無数のゆがんだ槍。

 厭わしい笑い声が、濡れてまとわりついてゆく。

 チェシーは無言のままだった。表情すら変えない。

(あいつのことだからさ……どう出るかは分からないけどねえ……?)

 青白い閃光が、凄惨な夜を照らし出した。

 悪魔の影は、ひょいとチェシーの肩に舞い降りてきた。背や腕のまだら模様を自在に伝って、全身を駆け回る。

 尻尾が首に巻きついた。影絵が、ひそやかな毒のささやきを耳打ちする。

(想像するだけでゾクゾクするよな……? あんなになってもまだ、もしかしたら君を信じてるのかもしれないって思ったらさあ……! 戻ってくるはずもない君を信じて、待って、待ち続けて、その挙げ句ぼろぼろに穢されて、傷ついて、最後には壊れてゆくんだぜ? そそられるよねえ……たまんないよねえ……!)


 豪雨の中、雷鳴が続けざまに鳴り渡る。


「戯言はいい。行け」

 チェシーは眼を半に閉じた。濡れた左腕を振り払う。

「あいつは、俺の獲物モノだ」


 飛沫とともに、闇の奔流が解き放たれた。

 嗤い声が裏返った。小悪魔の姿が、みるみる巨大でいびつな漆黒の闇へとうち広がり、ねじれ返った。かと思うと一瞬で収縮して元の姿へと戻る。

 ル・フェは、けたたましく笑いながら雨を弾き、弾丸のように飛び立った。

 青黒い光跡が闇をジグザグに切り裂いて消え失せる。

 チェシーは、光のゆくえをうつろな眼で追った。


 あの白い花の名が思い出せない。

 秋になれば、真っ赤な血の色の実をつける。確か、きいちごの類だったはずだ。折り取って唇に押し当てれば、さながら愛した娘の名のような酸味。

 もう、二度と。その名を口にすることはないとわかっていながら、手のひらに乗せれば、白く、つめたく、雪をかぶって。


 その実で作るジャムが好きだろうから、などと。

 事あるごとに、余計な気を利かせ、故郷を思い出させた。


 誰かと共に過ごした記憶が、こぼれおちてゆく。

 チェシーはひくく嗤った。

 思い出を探しても無駄だ。裏切り者に神の祝福は必要ない。失われてしまったものはもう、戻らない。

 二度と。


 白い花は風雨に打ちひしがれ、いつの間にか散っていた。

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