最初から、こうしていれば良かった。そうすれば

 ルーンの加護を請う哀願は、やがて罵声に変わる。


 ルーンの聖騎士ならば、魔物を駆逐して当然。

 ティセニアの元帥ならば、敵を殲滅して当然。

 そのための生贄。

 そのための、人柱だ。


 背に突き刺さる怨嗟に、ニコルはなすすべもなかった。

 左腕の手甲バングルにとめつけたルーン――意図せぬ憎悪の重圧に耐えきれず、しるべの光を失った石ころ──に、愕然と手を触れる。

 何も感じない。

 あれほど光り輝いていたルーンが。

 力の源たるマイヤの魂を極限まで削り尽くしたせいで、

 思いもよらなかった。

 こんなにも、あっけなく、ルーンが。

 なんて。

 ニコルは、光を反射せぬ薔薇の瞳で、泥の跳ねる地面を虚ろに見つめた。おもてを上げる。

 どうせ、メガネがなければ、何も見えやしない。ろくに先を見定められもせぬ眼で、闇と、その向こうに群がる魔物の群れとを睨みすえる。

 《先制のエフワズ》が、薄闇に染まった赤い幻影を詳細に伝えた。

 結末は見え透いている。

 背後は濁流。対岸は蛇行する流れの外側、つまり崖だ。生きて河を泳ぎ渡れたとしても、対岸に上がることはできない。

 敵の軍勢は、蛇行する川沿いの突洲を着々と包囲にかかっている。

 中央に制御された魔物の群れ。左右は、敵第四巨蟹宮きょかいきゅう師団、敵第八天蠍宮てんかつきゅう師団によって封鎖された。

 おそらく、敵を打ち破るほかに、生きて戻る手段はないだろう。


 吐き気を催す悪臭が吹き寄せた。

 横殴りの雨風が、また急激に勢いを増して頰を叩く。

 不思議なほど、恐怖はなかった。

 ただ、壊れた笑いだけが洩れる。

 自分の所為だ。

 アルトゥシーで《封殺ナウシズ》を使えるようになって以来、おぼろげながらも感じていた。

 ルーンの光は、マイヤがニコルに託した、唯一の願い。

 死の淵で選択するほかなかった絶望の連鎖から逃れるための、たった一つの希望だった。

 なのに。

 よりによって、マイヤに命を救われたはずの自分が。

 まるで道具のように平然と、ルーンを、ルーンの魂を、使い潰した。

 ザフエルの胸に刻まれた傷と同じ痛みを伴って。

 また、


 死と。

 薔薇と。

 炎と。

 憎しみとを。

 身に焼き付け、くびきとする、罪と罰の刻印。


  ──‡ 偽りの光は、真実の闇 ‡──


 《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》を手に、ニコルは、心の殺げ落ちた笑いを放った。

 皆と共に生きる道は、やはり、選べなかった。

 手を腰の剣帯へやり、サーベルを帯ごと取り外して、地面へとなげうつ。

 甲高い鋼の音が響き渡った。

「剣など不要だ」

 狼狽する兵を見捨て、我が身の保身だけを図る方法もあった。

 たかが雑兵の命など、勝利と生存のためならば、どれほど無下にしても構わぬ。徴兵すれば、いくらでも代替が効く。

 指揮官、あるいは国体さえ無傷ならば、軍としての敗北はない。そう超越的に驕り高ぶることができるなら。

 誇り高き聖騎士としてこの場に踏みとどまり、全員の玉砕をも辞さぬと決意することもまた、いとも簡単だ。

 背後に守る兵を道連れに、死ぬまでまとわりついて離れぬ良心の呵責、千の罪悪感と万の怨念にさいなまれ散ってゆく屈辱を良しとするなら。


  ──‡ 真実の闇は、偽りの光 ‡──


 ふつふつと煮こぼれた黄色い汚濁の泡が、地を這って流れてゆく。魔物が身じろぎした。

 闇の気配に反応している。

 ニコルは、暗紫の微光にゆらめく《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》を指先に挟んだ。眼に映る視界が、確かな形を失って、熔けくずれてゆく。

 空間の狭間からのぞく極彩色の陽炎。その禍々しさに、いっそ満ち足りた笑みすら浮かべて、敵の軍勢を見渡す。

 高く、低く。呪誦に厭わしい毒の韻律を溶かし混ぜて、不協の旋律が狂い咲く。

 どよめきが一瞬、途絶えた。


 薔薇の瞳に、黄昏の闇が射し初める。

 光を虐げ、闇をも拒む永遠の停滞。


「最初から、こうしていれば良かった。そうすれば」

 何も映さないうつろな眼に、狂悦の光が混じった。

 闇の気配に内応したのか、続けざまに魔の咆吼がとどろく。邪気が渦を巻いてなだれ込んだ。

「橋を、みすみす壊されることもなかった! 橋頭堡を奪われることも、中州の防衛を脅かされることも、こんなところに何十人も取り残されるような、取り返しの付かない失態を演じることもなく! チェシーさんを見捨てるような真似もせずに済んだ!」

 鬱屈した黒紫の放射光が、《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》からくねり放たれる。風雨に打たれるニコルの横顔が、暗く照らし出された。


「……僕さえ、我が身の安泰を望んだりしなければ」


 最悪の《闇属性》の《カード》を持つ腕が、《先制エフワズ》ひとつの結界では魔性の侵蝕に耐えきれず、膿み、腫れ上がって泡立ち、変色して、異様な瘤状にゆがんでゆく。

 それすら、何の痛痒もなかった。自分の腕であるという感覚すら、すでにない。

 構わず《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》で、闇を斬り混ぜる。

 暗紫にゆらぐ底無しの霧が、腕へとまとわりついた。

 《カード》に描かれた死の豊穣が、ずるり、と。音を立てて動き出した。表に描かれた緑の木々、豊かな果物、あふれんばかりの躍動、それらが。

 腐り落ち、骨に変わり、悪臭を放ち。

 使い手であるニコル自身をも呑み込んでゆく。

 生気がおぼろげな蛍色の二重光となって吸い出される。

 命の光が、肉体の柩から。抜ける。

 どくり、と。

 闇が脈打つ。底ごもる角笛の音が崩壊の序曲となって鳴り渡る。

 ニコルは荒天を仰ぎ、白い喉をのけぞらせ、笑った。


 《虚無ウィルド》の聖女レイリカのように、運命に抗ったりせず。

 《封殺ナウシズ》の聖女マイヤのように、運命と戦ったりせず。

 最初からあきらめ、託された希望までをもかなぐり棄てて。

 薔薇の血の誘惑に身をゆだね、望まれるがままに虚無へ堕ちてしまえば。

 そうすれば。

 もしかしたら。

 チェシーやヴァンスリヒト大尉が戻ってくるまで、余裕で持ちこたえられたかも知れなかったのに。

 薔薇の瞳が、黄昏の色に。

 払暁の色が、明けることのない宵闇の色へと。

 どす黒く、塗り込められてゆく。

 雨が激しく降りつのる。

 何かの砕け散る、遠い残響音が聞こえた。

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