罪と血にまみれた唇を

 異形の翼が、音を立てて開閉する。魔物は、闇に彩られた金眼を薄くすがめた。

 身をかがめ、意識のないニコルの顔を見つめ、首筋に手を押し当て。

 頰を寄せた。呼吸がない。

 濡れた金髪が、ニコルの頰に当たる。

 何の反応もない。ぐらりと傾ぐ頭を支える。

 魔物は、罪と血にまみれた唇をかさね、吐息を深く、強く吹き込んだ。

 それでもまだ息を吹き返さない。かまわず何度も同じ動作を繰り返す。

 唇を重ね、息を吹き込み、様子を確かめ、囁き。また唇を深く重ねて、長々と呼気を送る。

「……ん……」

 ニコルが身じろぎした。かすかなうめきが洩れる。

 まぶたが動いた。出し抜けにむせ返って、肺にたまった水を吐く。

 身を折って咳き込む様子を、魔物は総毛立つ眼差しで見下ろした。

 森の下生えが激しく鳴った。金属の音が散らかる。明かりが見えた。ランタンを掲げた兵士だ。

 駆け寄ってくる。

「魔物だ。魔物がいるぞ」

 愕然とした叫びが交錯する。剣を抜き払う鋼鉄の響きが、するどく闇に伝い走った。

 魔物は、ニコルの身体を河原に横たえた。

 みだらな紋様に覆われた肌を平然と晒し、異形の羽を軋ませながら、兵士の一団を傲然と見下す。

 血に汚れた爪が黒く光った。

 ニコルは身をよじった。

「……チェシー……」

 意識が、激痛となって呼び戻される。

 残された感覚が、何かを叫んでいた。

 麻痺して動かない手を、精一杯に伸ばす。声の在り処を探す。

 確かに感じたはずだった。

 誰かの手。誰かのぬくもり。吐息交じりのささやき。間違いない、この声は。でも。

「行か……ないで……」

 涙が、こぼれる。

 魔物の邪眼に、一瞬、青いきらめきが入り混じった。だが、文字通り瞬く間にきらめきは薄れ、消えて。

 全てを置き去りにして翼を広げ、闇に跳ね退いて消える。


「アーテュラス師団長」

 幻覚を蹴散らして、いくつもの声が騒然と駆け寄る。

 ニコルは我に返った。

 味方の兵が、周囲を取り囲んでいる。だが、よく見えなかった。焦点が合わない。

 ニコルは目元に手をやった。

 やはりメガネがない。

「ここは、どっちだ」

 押し殺した声でたずねる。答えはなかった。そして、おそらくそれが答えだ。

 闇の彼方から悲鳴が聞こえた。

「取り残された兵を探しているうちに、橋が完全に流されました。敵軍が近づいてきます」

 残党を代表する下士官が答えた。とにかくニコルを立ち上がらせようとして手を取る。

「閣下、ここは危険です。逃げませんと」

「どこへ」

 言いかけて、ニコルは自分の馬鹿さ加減に冷や汗をかいた。橋がないのに、どこへ逃げようと言うのか。

 支えられながら、立ち上がる。

 激痛が全身を襲った。顔をゆがめる。

 いったい、どれだけの距離と時間を濁流に流され、無駄にしたのか。

 状況は悪化するばかりだ。

 この兵たちは、守るべき橋を失い、橋頭堡からの退却を余儀なくされている。

 それは、味方による救出が期待できないことを意味した。

「相手は魔物、それともイェレミアス軍」

「両方です、師団長」

「分かりました」

 待ち受けているのは、なすすべもなく追われ、殲滅されるだけの運命かもしれない。

 それでも、生きるためには、逃げる他にはない。

 ニコルは、濡れた髪を後ろでまとめてぎゅっと絞った。水が滴り落ちる。頰に貼りつく濡れた髪が、ひどく冷たい。

 無意識に、血の味が残った唇に触れる。まだ、髪の毛が口の中に残っているような気がした。

 口の中がざらつく。こぶしで拭った。

 取れた。手のひらを見下ろす。自分の髪ではない気がした。細く、柔らかく、色の薄い髪の毛。誰の髪の毛かも分からない。

 ニコルは違和感を捨てた。深呼吸する。

 まとわりつく悪寒を振り払う。

「とにかく対岸へ渡れる場所を探すしかない。雨が止むまで、どこかで身を潜めて……」

 《先制のエフワズ》が、苛烈な光をまき散らした。

 意識の中で、赤い光めいた警鐘が激しく打ち鳴らされる。地響きにも似た足音が聞こえた。

 雑木林を踏みつぶしながら、巨大な甲羅を持つ、のろのろとした魔物が進んでくる。

 魔物が、森を踏みしだいて道を作っているのだ。その背中に、椅子が置かれていた。

 黒い傘を差した女性が、横掛けに腰掛けている。

 艶めく紫の唇。太ももにまで切れ込みの入った妖艶な黒のドレス。ガーターベルトに挟まるナイフ。襟には深紅のスカーフ。

 濡れた背中が、ぞわりと鳥肌立った。

「敵だ。イェレミアスと……第八天蠍宮てんかつきゅうのレディ・ブランウェン!」

 ニコルは呻いた。

「明かりを消せ。気付かれるぞ」

 怒号が飛び交う。

 ニコルは歯を食いしばった。

「水辺に沿って移動するのは危険だ。河から離れて」

 これだけの筒音、軍靴の物音をまき散らして敵に居場所を気付かれぬわけがない。背水の位置に回り込まれたら終わりだ。

 ニコルは、四方へ目を配りながら、耳へ意識を集中させた。

 どうどうと流れる水の音が、前方から背後へと流れ、唐突に斜行し、遠ざかる。

 音の行き先が曲がっていることに気付いて、ニコルはぎょっとした。

 間違いない。河が、急激に蛇行している。

「しまった、ここは」

 呆然と立ちすくむ。

 部隊は、曲がりくねった河を背にした凹部に入り込んでいた。当然、敵軍はこの背水の地勢を知っているだろう。

 真正面に、めらめらと赤く揺らめく魔性の火が見えた。

 背後は濁流の河。

 逃げ道は、なかった。

「師団長」

「どうかルーンのご加護を」

「ご加護を!」

 恐怖と懇願のうめきが、背後から詰め寄る。何本もの手が、ニコルの背中を押した。

 人の壁が見る間にほつれ、左右に崩れてゆく。

 気がつけば、岩の転がる河原に押し出されていた。前へ前へと、残酷なまでに過度な期待を一身に担わされて、敵前に立つ。

 視界が開ける。

 ニコルは、たった一人で立ち尽くしていた。

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