冷たい頬
濁流をかいて、首から上を水の上に。かろうじて息を継ぐ。
アンドレーエは、全身をやすりがけされたような激痛に耐えながら、四方を見回した。暗闇の中でも《静寂のイーサ》さえ発動すれば、手に取るように見て取れる。
中州の川べりから枝垂れる木の枝を見つけ、流されながらも掴んだ。がむしゃらに手繰り寄せる。
「おっさん! アーテュラス! どこだ!」
どんなに声を振り絞っても、返ってくるのは濁流の音ばかり。
「くそっ……!」
濡れた重たい身体を、濁流から引きずり上げる。
中州の岸辺に、多数の魔物の姿があった。流れ着いたか、あるいは既に死んで打ちあげられたか。
先に渡っていた部隊が、松明を片手に走り回っている。中に、黒衣の姿が見えた。エッシェンバッハだ。
「おっさん」
アンドレーエは駆け寄ってゆこうとして、足をがくりとくじいた。
左足が動かなかった。折れているらしい。
適当な棒切れをくくりつけて固定する。足を引きずり、近づいてゆく。
エッシェンバッハは、青ざめた顔色で振り返った。
「ヨハン、無事だったか」
「うっせぇな、ちゃんとアンドレーエ卿って呼べよ。ガキ扱いすんな、ロリコン中年が」
「その足はどうした。やられたのか」
「真面目か! ふん、これぐらい、どうってこたあねえよ。それよか他の連中は。アーテュラスは」
エッシェンバッハは、顔をゆがめた。かぶりを振る。
「見つからん」
「ああ、くそ、何てこった。せめてどこかに引っかかってくれてさえいれば」
アンドレーエは、身をひるがえす。
エッシェンバッハは気弱に制止した。
「待て。先に治療していけ。その足で歩き回るのは無理だ」
「それどころじゃねえよ。あのちびを、何としてでも探し出してやらなきゃ。俺ともあろうものが、奴らに顔向けがならねえ……くそ、どんな顔をすりゃあいいんだ」
アンドレーエは、濡れた髪を苛立たしくかきあげた。毛先から水が垂れ落ちる。
エッシェンバッハは、アンドレーエの引きずる足を睨んだ。俯き加減につぶやく。
「先ほど、ツアゼルホーヘンへ、至急の救難信号を打たせた。猊下のお手を煩わせることになる。……此度の失策は、すべて我が愚策によるもの。俺の責任だ」
アンドレーエは振り返った。うんざりと鼻に皺をよせる。
「誰の落ち度でもねえだろうがよ。おっさんらが来てくれてなきゃ、俺が連れてきた残党も、俺自身も、間違いなく死んでた。ヴァンスリヒトの最期がどうだったかを、奴の家族に伝えてやることもできずにな! 全員を連れ帰れなかったからって、勝手に一人で全部、背負い込むんじゃねえ」
アンドレーエは、いらいらと手を振るった。険しい眼をほそめる。
「いいから、おっさんは味方の掩護へ行ってくれ。俺はアーテュラスを探す。どうせ、この足じゃ、戦闘では使い物にならねえ」
「すまない」
「あんたのせいじゃねえって言ってんだろ。俺の手下どもに会ったら、俺はアーテュラスを探しに行ったと伝えてくれ」
口早に言い置くと、アンドレーエは、行方不明のニコルを探しに岸づたいを歩き始めた。
▼
濁流が、何もかもをめちゃくちゃに押し流してゆく。
もはや、自分が生きているかどうかも分からなかった。
流木とともに川底へ引きずり込まれ、打ちのめされ。
揉みくちゃにされ、どこまでも流される。
黒い水。冷たい水。拒絶の激流。
渦に巻き込まれ、沈んでゆく。もう、意識はない。
壊れた橋板とともに流されてきた敵の魔物が、流木をつたうようにして、触手を伸ばしてくる。
黒い触腕が、意識のない身体に、ねばねばと絡みついた。息をしていない首に巻きつき、締め付け、死の水底へと引きずり込もうとする。
一瞬。
雷鳴が轟き渡った。
青黒い光が、閃光となって走る。
闇が、雨を弾いて飛び込んできた。疾風にも似た爪が、魔物を切り裂く。
濁流の水面を、巨大な悪魔の翼が打ち叩いた。
激しい水しぶきがあがる。
翼の悪魔は、奪い取った獲物を、巨大な異形の爪で鷲掴みにし、羽ばたいた。
枝から枝へと跳躍。
開けた場所を探し、河原へ出る。
魔物は、漆黒の翼を軋めかせて、すう、と舞い降りた。
腕に抱いていた身体を、戦利品か何かのように、地面へと放り投げる。
また、稲妻が、夜を照らし出した。
戯画的に引き延ばされたおぞましい魔の影が、くろぐろと河原に長く伸びる。
濡れて乱れた金の髪。
憎悪めく呪のまだらに覆われた身体。
もはや、人ではない。理性と情感を喪失した黒と金の重瞳が、無力に横たわる聖ティセニアの士官を見下ろしていた。
かすれた唸り声がもれる。
「……ニコラ」
理性を喪った視線が、傷だらけの顔からそらされた。血の色へと向かう。
獲物は、ニコルは、負傷していた。こめかみから、首筋から。血が流れている。
濡れた鉄錆の色が、白の軍衣を薄汚く染めている。横たえた身体の下が、染み出した水で黒く赤く濡れ広がった。
腕のルーンは、どちらも、何の光も宿してはいない。
ニコルは気を失ったままだった。呼吸している様子もない。ぴくりとも動かず、みるみるどす黒い死相の現れ出でてくる顔を、ただ激しい雨にうたせ、野ざらしにしている。
魔物は無言で傍らに膝をついた。用心深く気息の気配を探りながら、異様に変形した腕をぎごちなく伸ばす。
血に汚れた手が、冷たい頬に触れた。
稲妻が、荒天を切り裂いて走り抜ける。
凍えきった青い唇が、闇に浮かび上がる。
魔物は葛藤の唸りをあげ、おもむろに生気のない頬を手挟んだ。抗わぬ身体を、仰向かせる。
血の、匂い。擦り傷は全身に及んでいる。
邪欲の、暗いうめきが洩れる。青い唇からは、死の匂いがした。
ニコルは、動かない。
魔物の影が、血の闇に混じり、のしかかった。
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