急げ。早く。渡れ!

 ニコルは、アンドレーエの腕の中でもがいた。足をもつれさせ、よろめき、逃げる。

「さっ、触らないで……!」

「触っ」

 アンドレーエは、また、さらにぽかんと口を開けた。愕然と、手のひらを見下ろす。

 つい今し方まで、当の本人を抱き止めていたときの、腕に残る恐ろしくやわな手応え。華奢な骨格。心許ない身体つき。

 なぜか、いきなり、年甲斐もなく顔を赤らめる。

「ごっ、誤解だ。どこも触ってないぞ! 触ってないけど……貴公、えっ? ……えっ?」

「何をぐずぐずしている。橋が壊れるぞ」

 エッシェンバッハの怒声が聞こえた。

 アンドレーエは、顔を上げて周囲を見渡した。強引にニコルの手を掴む。

「分かった、と、とにかく、話は後だ。いいから来い!」

 ニコルは、必死にアンドレーエの手を振りほどく。

「だから、まだ、チェシーさんが!」

「あいつのことはもう諦めろ! 撤退だ」

 アンドレーエは、半ば力任せにニコルを引きずった。ニコルは悲鳴交じりに抗った。

「やだ、嫌だ……そんなの……!」

アーテュラス! 誰かに聞かれたらどうする!」

 アンドレーエが、確信をもって耳元に怒鳴る。ニコルは、はっとした。青ざめた涙目で、アンドレーエを見上げる。

「ぐずぐずするな! とにかく渡れ! 中洲へ急げ! もう、これ以上は橋が持たん!」

 切羽詰まったエッシェンバッハの呼び声と。

 濁流の轟音とが、交錯する。

 橋脚に倒流木が衝突した。無数の槍のように、次々と乗り上げてくる。

 そのたびに、足元が、大きく斜めに沈んだ。割れた橋板に、泥水がかぶる。

 今や、橋を支えているのは、エッシェンバッハが張り巡らせる《庇護アルギス》の防壁だけだった。

 それすら、ところどころ砕けて、渦を巻いた濁流がなだれ込んでいる。

 結界が水圧に耐えきれず、割れた。押し流された白い結晶のかけらが夜に飛び散る。

「イェレミアス軍だ」

「奴らを南岸へ近づけるな」

 上流側から、無数の明かりが迫っていた。深紅に燃える敵軍の烽火だ。

 揺れ動いている。近づいてくる。地鳴りのようだった。

「急げ。早く。渡れ!」

 アンドレーエに追い立てられ、ニコルは足を滑らせながら走った。

 ふいに。

 《庇護アルギス》の結界が、凍りつく神鳴りの音をたて、ひび割れた。

 めきめきと異様にたわみ、三角に隆起し、へし折れ――

「壊れるぞ……!」

 悲鳴じみた誰かの叫びが、耳に突き刺さる。

 粉々に砕け散る。

 闇がなだれかかった。

 瀑音が耳を聾する。

 《先制エフワズ》が、瀕死の赤光をめちゃくちゃに振り散らした。

 上流から押し寄せてきた魔物が、橋板を持ち上げた。ひっくり返す。叩き壊す。

 仮橋が、決壊した。

 へし折れた箇所が木っ端微塵になる。橋脚ごと、根こそぎ流されてゆく。

「ちくしょうっ」

 アンドレーエの《鋼剣鞭ウルミ》が、シンバルのような剣戟の音を打ち鳴らし、橋に食らいつく魔物の首を刈り飛ばした。

 だが、間に合わない。

 怒濤の流れに足をすくわれ、倒れ込む。

 アンドレーエは、頭から河へと投げ出された。

 黒い飛沫が上がる。

「ヨハン!」

 エッシェンバッハが手を伸ばした。

 その指先が、むなしく空を切る。届かない。

「アンドレーエさん!」

 ニコルは切れた命綱を掴みながら、身を乗り出した。

 アンドレーエの身体は、泡立つ濁流に飲み込まれた。浮き沈みしながら流されてゆく。

 橋が、大きく傾ぐ。また、流木が衝突したのか。

 ニコルは沈みかけた橋を渡ろうとして、立ち止まった。

 乗り上げた巨倒木に草やツルが絡み付いていた。重みに耐えられず、橋そのものが折れ曲がって沈んでいる。

 行く手に、渡るべき橋がない。

 濁流に飲まれた渡し板の上を、黒い塊がうごめいていた。

 黒いさざなみのように動いている。

 無数の黒い虫がたかっているのだと──気づいた時には、それらが、一斉に走り出したあとだった。

 無数の集合体が、蛇のようにうねっては散り、また集合して、橋の上に駆け上がってくる。

 とっさに《封殺ナウシズ》の光を放とうと、ルーンを帯びた手を前に突き出し、身構える。

 無反応。

 ニコルは、絶句した。

 《封殺のナウシズ》の表面は、蜘蛛の巣のようにひび割れていた。光りもしない。それは、既に、ただの石だった。

 身体がすくむ。

 魔物の大群が、ざわざわと迫ってくる。木を削る音がした。齧っているのだ。みるみる、橋が、喰われてゆく。

 また、魔物が流れ着いた。真っ赤な身体に青い斑点、放射状の腕を、ゆらゆら小刻みに伸び縮みさせながら這い寄ってくる。

 死んだ魚の眼と同じ、濁った色をした、おぞましい突起物が、ぬらぬらと盛り上がってくる。

 まるで舌なめずりするかのように、どろり、と。

 汚辱があふれ落ちた。櫛の歯のような突起が、ガチガチと動いている。

 ニコルは、呆然とそれらを見やった。

 恐るべき確信が、つめたく背筋を流れくだる。

 たぶん、もう。

 生きて戻ることは、ない。

 自分も。

 ……チェシーも。

 ならば。

 何を、ためらうことがあるだろうか。

「これで、終わりだ」

 壊れた笑みが、やつれた頰に暗く浮かぶ。薔薇の瞳に、闇が入り混じった。

 死を帯びた黒紫の冷光が、ゆらりと足元にまとわりつく。

「何もかも、全部、まとめて終わらせてやる」

 道具鞘ホルスターに下げた《カード》を、手にまさぐる。


 《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》。


「仲間一人の命」

 命を呑み込む濁流の音が迫った。

「あるいは自分の身体と引き換えに敵を駆逐する――確実な死の《カード》」


 《カード》に指先が触れる。腕が、闇と同化する。喪失の感覚が腕を包み込んだ。あるはずの腕すら、闇に取り込まれ、存在しなくなったかのようだった。

 ふいに、足下の橋板が崩れた。

 ニコルは息を呑む。めきめきと音を立てて、橋が完全に濁流へと飲まれた。流される。

 気づけば。

 悲鳴ごと揉みちぎられ、暗黒の水底へと叩きつけられていた。希望も、生還の望みも。何もかもが途絶し、かき消される。

 誰かの悲鳴が聞こえた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る