「……ゆるして、アーテュラス」
呆然と周囲を見渡す。
シャーリアの言ったとおりだった。不思議なことに、あれほどあふれかえっていた魔の瘴気が、いつの間にか薄れ、遠ざかっている。
《先制のエフワズ》は、ゆったりとした深い赤。あれほど激しかった明滅が、今は嘘のように凪いでいる。
それなのに。《
背筋がこわばる。固唾を呑む。
言いしれぬ不安ばかりが、心の隙間へと吹き寄せてくる。
振り返る。見通せぬ背後は、どこまでも暗かった。
聞こえるのは味方の行軍の音。やまぬ雨音。自分の心臓の音だけ。
何も異変はない。それでも、闇の奥に何かがいて、こちらをじっと見ているような気がしてならない。
見たくもない何か。
知りたくもない何かが。
「今のうちに急速離脱するぞ。しんがりは落伍者に注意しろ。ぐずぐずして、中洲に架かる橋を落とされでもしたら、我が軍は全滅だぞ」
エッシェンバッハが、行く手を指し示す。
森の切れ目が見えた。
シャーリアは、ニコルをせき立てた。
「行くわよ、アーテュラス。魔物が消えて、前へ進めるのは、何もわたくしたちだけではなくてよ」
「どういうことですか」
「敵もまた、この戦域に駒を進めることが可能になる、ということだ」
前方から、エッシェンバッハが怒鳴り返してきた。シャーリアがうなずく。
「今は、少しでも多くの兵を退却させることだけを考えましょ。さもなくば、わたくしも生きて帰る意味がないわ」
こうしている間にも、沿岸の橋頭堡を守っている仲間、中洲の陣地を守っている仲間に、敵が攻撃を仕掛けているかもしれない。
後ろばかりを見ているわけにはゆかなかった。
ニコルは、蒼白になったくちびるを噛んだ。冷たかった。
「分かりました」
魔物が激減した隙に、全速力で退却する。一時の凄まじい大混乱と比べれば、多少の魔物に出くわしたところで、被害は無に等しかった。
ようやく味方の防御陣地が見えた。聖ティセニアの軍旗が、雨に打たれつつも、高々と掲げられている。
皆、無事だった。
ニコルは心底から安堵して、笑った。シャーリアも笑っている。
こちらの無事と、第一師団の帰還を確認したのだろう。
大歓声が聞こえた。騎士たちが、防塁の向こう側から駆け出して来る。
怪我をした兵士はすぐに、衛生兵が連れていった。シャーリアもまた、皆の歓呼に取り巻かれた。背中を叩き合って再会を喜ぶ仲間の輪と、万歳の叫びに引き入れられてゆく。
「ただちに、渡河撤収準備にかかれ。リーラ河南岸まで後退する。負傷兵が先だ」
エッシェンバッハは、大声で指示を飛ばしながらも、ずっと森の方角を見ていた。
いまだに、後続の姿は見えない。
たしかに信号弾の狼煙が上がるのを見た。間違いなく、すぐ近くまで戻って来ているはずだ。
なのに。
雨が重苦しさを増してゆく。
ぬかるみを踏むたび、泥が跳ねた。ブーツが、くるぶしまで水に沈む。
雨が、頬にあたって流れ落ちる。喧騒が意識から追い出された。
鬱蒼と暗くよどんだ森と、右腕に嵌めた《先制のエフワズ》の赤いゆらめきとを、それぞれ交互に見やる。
シャーリアを救出するという大目標は達成できた。
だが、未だ、必死に生還を目指して戦っているであろう仲間を見捨てて、この戦地を去ることはできない。
アンドレーエも、ヴァンスリヒトも、チェシーも。
必ず、戻ってくる。
ニコルは、シャーリアの姿を探した。
陣の中心部から少し離れたところに、救急の赤い太陽十字が入った天幕が建っている。
周辺に雑然とした人だかりができていた。衛生兵が慌ただしく出入りしている。
天幕の入り口をめくった。中に入る。
シャーリアの後ろ姿が見えた。折りたたみのベンチに腰掛け、はだけた肩に毛布をかけ、傍らに真新しい松葉杖を、足下に金だらいを置いて、汚れた足の傷を洗わせている。
負傷した足の治療を受けている最中だった。あわてて目をそらす。
「あわわ失礼しまし……」
「構わないわ。お入りなさいな。報告があるのでしょ」
軍医がニコルの顔を見て、大丈夫だ、と言いたげにうなずく。ニコルは安堵して続けた。
「負傷兵から順に、中洲の前線基地経由でノーラスへ帰還するよう、決まりました。殿下も準備をお願いします」
「出立予定時刻が来たら、連絡をよこしてちょうだい」
「じゃあ、僕はこれで」
「アーテュラス」
低い声が、ニコルを引き止める。
「もう……」
シャーリアは、言いかけて口をつぐんだ。
そのまま、言いよどむ。
無言が続いた。耐えきれなかった。
「何でしょう?」
ニコルは、わざと馬鹿になった声をあげた。シャーリアは、唇を湿らせた。何度も、言葉を飲み込む。
「戻ってこないかもしれなくてよ。ヴァンスリヒトも、あのひとも……もう、二度と」
「そんなことないです」
ニコルは、砕け散りかけた心のかけらを、とっさにかき集めて仮面のかたちに押し固めた。虚勢の笑みを返す。
「僕らだって、何とか戻って来れたじゃないですか。みんな、かならず無事に帰ってきますって」
シャーリアは、指の背でまなじりの涙をぬぐった。顔を伏せる。
「……ゆるして、アーテュラス」
絞り出すような声だった。
ニコルは、即座に明るく笑い飛ばした。
「何をおっしゃいますか。大丈夫ですって。みんなの力を信じましょうよ。すぐに戻ってきますって」
虚言をかさねるたびに、心にもない慰めが、言葉のナイフとなって、自分自身に突き刺さる。残酷な追い討ちだった。
「それじゃ、準備がありますので」
ニコルは敬礼して、天幕を辞した。
車軸を流すような豪雨が、行く手を阻んでいた。足元の泥水が、天幕の周辺に掘られた溝へ流れ込んでゆく。
もう、二度と。
雨が止むことは、ないのかもしれない。
ニコルは、呆然と立ち尽くした。
第三師団の連絡将校が、雨に打たれながら、天幕の外でニコルを待ち受けていた。敬礼する。
「アーテュラス司令。出立の時間です」
ニコルは、ぎごちなく顔を向けた。話しかけられているのに、相手に焦点が合わない。
あわてて、鼻をぐしゅぐしゅとこする。
「わかりました」
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