【完結】 exile 異端《ウィルド》の血を引く魔女であることを隠すため、性別を偽り男装して聖騎士となったのに付き従う部下は超女ったらし亡命者と無表情にグイグイ迫る黒髪黒瞳の鉄血参謀

信じたくなくて。認めたくなくて。受け入れたくなくて。

　エッシェンバッハが、銀の楯を前方へと向けた。

　まばゆい光が、はるか前方まで一直線に伸びてゆく。六角形をした水晶片が、連なる壁となって周囲を覆った。

「壁の中では急がずとも良い。ゆっくり進め」

　傷ついた兵士を激励しながら、馬上で手を振り、誘導する。

　ガラスを引っ掻く、悲鳴のような音が続いていた。硬い衝角を持った甲虫が、壁を破ろうと次々に突進してくる。

　そのたびに、《封殺のナウシズ》が、神鳴りの残響を響かせた。

　ニコルは、身を震わせた。腕から這い上る冷気は、もはや、寒気を通り越して、恐怖そのものがまとわりついているようにすら思える。

　無数の蝉の鳴き声の中に放り込まれたかのようだった。上からも、横からも、後ろからも、前からも。幻聴が、毒を混ぜたワインのような螺旋を描いて、降りかかってくる。

　《封殺（ナウシズ）》が、攘（うちはら）うべき異界の存在に感応しているのだ。

　壁の外は、異界の闇。

　《封殺（ナウシズ）》の光を放つ。扇状に広がる光が、真一文字に壁の向こうの魔物を薙ぎ払った。

　一瞬、遅れて。

　壁に張り付いていた魔物が、光に触れた端から、実体を崩した。

　黒いシャボン玉となって、続けざまに弾ける。

　唐突に、頭上から結界の割れる音がした。落ちてきた光の破片が地面で砕ける。

　割れ目から、赤と黒の縞模様がのぞいた。

　無数の、触手めいた節足が、触覚を揺らしながら、壁に沿って波打つように這い入ってくる。

「異界へ帰れ！」

　腕を振り抜くようにして、光を放つ。浄化の雪が舞い散った。濡れた綿菓子のように、魔物が溶けくずれる。中から、赤い鞘のようなものが転がり出た。割れる。目に見えぬほど微細な蟲が雲霞となって噴出した。

　焼き尽くす。

「もう、喚（よ）ぶな！」

　声がかすれた。

　還しても、還しても。

　無限に湧いて出て、終わりが見えない。

　また、防壁が崩れた。また、頭上から魔物が現れる。まただ。また、来た。

　黒い糸をつたって降りて来ようとする多足の影が迫った。

　全身が、泥土に沈んでゆくような心地がした。つめたい地面の下に、足も、気持ちも取られて。

　ただ、呆然とした。心が動かない。

　兵士達が、悲鳴をあげて逃げ惑う。誰かが、仲間に突き飛ばされ、転倒するのが見えた。頭上から飛んできた黒い糸に、足を絡め取られる。

　ニコルは、はっとした。《封殺のナウシズ》の、青い光を振りかざす。

　魔物と目があったような気がした。磨いた黒真珠のような、大小の目がいくつも並んでいる。その丸い眼のひとつひとつに、青い光が、鏡像となって反射していた。憎悪が燃えている。

　亀裂の隙間から、触手めいた無数の鞭毛を泳がせる蟲が、ぼとぼとと、重たい音を立ててこぼれ落ちてきた。

　息がつまった。動けない。

　毛むくじゃらの巨体が天井から落ちた。爪の音をさせ、着地する。《先制のエフワズ》が、迫り来る微細な無数の軌跡を予感させた。

　毒の毛針が飛んで来る。

　ニコルは息を止めた。《先制（エフワズ）》の結界を張り巡らせる。

　枯れ枝が窓を突くような、硬い音がした。足元に、黒い針が散らばる。

　即座に、攻守交代。

　エッシェンバッハが、サーベルを手にニコルの横をすり抜けた。前へ飛び出す。

　魔物の頭から、真っ二つに断ち割って切り捨てる。かばった盾に、飛沫が奔りついた。どろり、と垂れ落ちる。

「防壁が効かなくなってきたな。用心しろ」

　エッシェンバッハは、ぬめるサーベルの血を冷徹に振るい飛ばした。

「はい」

　ニコルは汗をぬぐった。雨なのか、魔物の血なのか、それすらもう分からない。

　心臓が、ぎりぎりと締め付けられたように痛んだ。息が苦しい。胸がつぶれそうだ。

　ルーンは、決して、無限の異能力ではない。

　ルーンの使い手が心を折れば、ルーンもまた、慈愛を失って、導きの光を失う。

「アーテュラス、怪我はなくて？」

　背後から、思いもよらぬ声が聞こえた。シャーリアが足を引きながら近づいてきた。

「殿下、馬は？」

　ニコルは息を乱しながら、混乱してたずねる。

「傷痍兵を運ぶのにくれてやったわ。わたくしはまだ歩けるもの」

「そんな。お怪我なさってるのに」

　ニコルは、何度も唾を呑み込んだ。喉がひりついた。喋るたびにしゃがれた鉄の味がする。

　左腕にはめた《封殺（ナウシズ）》が、緊迫の氷彩を放った。するどくきらめく。

「おまえこそ、ずいぶん無理をしているんじゃなくて」

　シャーリアは、ニコルの肩を抱くようにして支えた。

「あのっ、大丈夫で……」

「何、そのひどい顔。勘違いしないでちょうだい。おまえを見捨てたら、わたくしも生きてはティセニアに帰れないから、仕方なくおまえの尻を叩いてるだけよ」

「顔がひどいって、ひどいですよ……」

　ニコルは、別人のように枯れた声で喘ぐ。

「もう少しよ。頑張りなさい」

　シャーリアの手が、背中をさすった。手のひらが当たっているところだけが、ほのかに暖かい。

　ニコルは、シャーリアの横顔を見上げた。

　シャーリアのほうが、よほどやつれて青ざめて見えた。泥の上から流れた涙の跡が、いくつも残っている。でも、もう、泣いてはいなかった。

　のしかかるようだった圧迫感が、少しやわらいだ。結界の外が透けて見える。

　外は変わらぬ雷雨だった。

　雨が、光の防壁を打ちたたく。流れ落ちてゆくしずくが、蛍光色の流紋を描き出した。

「この雨は、いつ、止むのかしら」

　シャーリアが、ぽつりとつぶやく。ニコルは、泥んこのハンカチでメガネを拭いた。

「いつかは止みますよ。雨降って地固まるって言いますし」

　シャーリアは、顔をそむけた。

「おまえって、本当に、馬鹿ね。こぼしたグラスの水は、二度と戻らないのよ」

「あと少しだ。もうすぐ陣地にたどり着ける」

　エッシェンバッハは、《庇護（アルギス）》の結界を部隊全体へと行き届かせた。

　凄まじいまでの狂騒が、ほんの少しだけ遠ざかる。

「アーテュラス。しばらく休め。顔色が悪いぞ。貴公がおらねば、迂闊に前へ進めん」

　鉄色に輝く幾何学形の結界が、《絶対の盾（アブソルータ・スクトゥム）》が作り出す光のトンネルの、さらに外側を覆っている。

　ニコルは、肩でよわよわしい息をついた。何とか笑って答える。

「大丈夫です」

　空元気もそこまでだった。足元がふらつく。ぬかるんだ地面に足をとられた。前のめりにつんのめる。

　とっさにシャーリアが手を差し伸べた。

「わたくしで良ければ、肩を貸すわ。おまえが断らなければ、だけれど」

　自虐の微笑みを浮かべている。

　ニコルは、力なく寄りかかった。

「すみません、殿下。さっきとすっかり、立場が逆転しちゃいました」

「しっかりなさい。だいたい何なの、おまえ。ひょろひょろで、骨しかないじゃない。わたくしのほうが、よほど筋肉があるわよ。こんな細腕で、よくも今まで戦ってこられたものね」

「……日頃の訓練が足りてないせいですかね」

　ニコルは情けなく笑い返した。

　なぜか、ひどく腕全体がかじかんでいた。うまく力が入らない。

　少しでも気をゆるめれば、結界をこじ開けて魔物が迫ってくる。

　《庇護（アルギス）》の護りがなければ、とうに全滅していたに違いなかった。

　陣地に残してきた仲間のこと、未だ姿を見せぬ後続部隊のことをうつろに思う。膝が震えた。

　こんな状態のままでは、チェシーが戻ってくるまで、持ちこたえられない。

　見たくもない想像が、絶望が。凍てついた予感となって執拗にまとわりつく。

　たぶん、きっと、足りないのだろう。元の世界へ還す《封殺（ナウシズ）》の力だけでは、きっと。

　ふと、自暴自棄にも似た考えが思い浮かんだ。

　《死の黄昏（クレプスクルム・モルティス）》。

　聖女マイヤが、自らの命と引き換えにして作り出した闇。《封殺（ナウシズ）》を受け継ぐ者以外、誰も触れることすらできない強大な呪い（ゲッシュ）。

　それは、生と死の狭間。善と悪の狭間。聖と邪の狭間。永遠の黄昏をあらわし、なにものにも属さない。

　心臓が、脈打った。血が騒ぐ。

　闇属性の《カード》は、闇と交わるがゆえに、その匂いで魔物を呼び寄せる。

　これを使えば。

　誰かの――あるいは自らの命と引き替えに、敵を一掃できるかもしれない。

　ふるえる手を伸ばし、《死の黄昏（クレプスクルム・モルティス）》を収めた軍鞄をまさぐる。

　冷ややかな暴虐が、どくり、と胎動する。

　手に、無感覚が宿った。まるで、自らの命でさえ、平然と投げ捨てても嗤い飛ばせるかのような。

　徹底して感傷を削ぎ落とした無関心が。

　感覚を、記憶を。良心を。

　遮断する。

（触るな。それは君が使うべき《カード》じゃない）

　なぜか、声が聞こえた。

　あまりにも、遠すぎて。

　あまりにも、苦しすぎて。

　忘れるほかにどうしようもない思いを持て余し、表にあらわすことも一縷の願いを託すこともできず、ただ優しさを疑い、背反を疑い、偽りの手紙で拒絶を突きつけ、その結果、冬のツアゼルホーヘンで決別を告げられ。

　あの日、白く舞い散る雪の彼方に見た最後の姿が、今のこの瞬間の予兆だったのかもしれないと、今さらながら気づく。

　本当は、もう。

　二度と戻ってこないのだと。

　二度と、逢えはしないのだと。

　心の底で、うすうす感づいてはいても。

　それでも、まだ。

　愚かにも、信じていた。

　必ず、戻って来ると。

　絶望の中に残された、たったひとつの希望。それすらも打ち砕かれたことを、信じたくなくて。認めたくなくて。受け入れたくなくて。

　もしかしたら皆が死を覚悟するしかないような、そんな間一髪のどうしようもない瞬間に、あの、いつものやさぐれた態度でふいと現れて。何もかもを平然と吹き飛ばして。

　そして、何事もなかったかのように、素知らぬ体で笑ってくれるに違いない、と。

　そう、虚しくも無常に願った――あの声が。

　だが、幻聴は、脆くも砕け散った。

「アーテュラス。泣かないの。しっかりなさい。それでもティセニア最強の元帥なの」

　シャーリアが、押し殺した低い声で叱責した。

「は、はい」

　ニコルは、涙を拭った。

　シャーリアは、まっすぐに前を見つめていた。ニコルを見ようともしない。わざとかもしれなかった。

「魔物が減ってるわ。今のうちに進みましょ」