皆の勇気に感謝する

 喉の奥が苦しかった。何とかごまかして続ける。

「敵との接触は」

「現在のところ、ありません。しかし、リーラ河の水嵩がかなり増しております。危険水位に達するのも時間の問題と思われます。そう長くは持ちません。おそらくは、あと数時間かと」

 水嵩の増した河に架けられた仮橋は、いつ崩壊するか分からない。

 刻一刻と、水位は上がってゆく。中洲の土手が崩れれば、部隊は全滅。

 雨が、降りしきる。

 無数の泥しぶきが、地表で粒となって跳ねていた。土のうを積んだ防塁の斜面が、流水で削れ、地割れめいた跡を深く刻んでゆく。

 ごうごうと流れ降る濁流の音が、地響きのように闇を揺らしていた。

 水位が下がるのを待つ暇はない。

 ただちに、渡河を開始する。

 ノーラス側の対岸には、すでに迎えの部隊が来ているとのことだった。

 仮橋に命綱を渡し、暗闇の中を命がけで渡る。手すりもなく、足下も定かでない。

 時に、激しい逆波を浴び、流木や鉄砲水の恐怖に怯えながら、とぼしい灯だけを頼りに進む。

 橋脚に、流木が衝突する。そのたびに、橋全体が、恐ろしい軋みをあげた。揺れ、たわみ、悲鳴にも似た怒号が噴出する。

 いつ、緊張の糸が切れてもおかしくない状況だった。動揺はやがて恐怖をきたし、恐慌寸前へと高まってゆく。

「早く渡らせろ」

 我を忘れた誰かが怒鳴った。

「俺が先だ」

 恐怖に駆られた兵が、我先に渡ろうとして列を離れた。大挙して、もろい橋へと押し寄せる。

「貴様ら、軍法会議ものだぞ」

 下士官が、銃を振りかざし叫ぶ。だが、恐怖の前に崩壊した秩序は、もはや下士官の制止ごときでは止められなかった。

「ちょ、ちょっと、みんな待って」

 ニコルは血相を変え、殺到する兵の前へと飛び出した。両手を広げ、立ちふさがる。

「そんなにいっぺんに来たら危な……わああ!」

 あっけなく突き飛ばされたところを。

 背後から、襟首ごと掴まれて追いやられる。

「全員、止まりなさい」

 松葉杖の先で、石突く固い音が聞こえた。

 暗闇に凛と、強い声が走る。

 今にも途絶えそうな灯が、ふらふらと闇に揺れていた。雨に打たれた真鍮色の髪が、濡れて光っている。

「わたくしの声が聞こえるか」

 シャーリアは、手にしたカンテラを顔前に掲げた。

 汚れてもなお美しい、やつれた顔が照らし出される。

 恐慌がしずまってゆく。

 代わりに、闇の彼方からどうどうと流れゆく河の瀑音が、四囲を押し包んだ。

「皆に伝えたいことがある」

 シャーリアは、一人一人の兵の顔を見回した。おもむろに口を開く。

「北の地には、未だ、帰還し得ない仲間がいる」

 感情を殺した口調だった。続ける。

「それでも、皆の力があったからこそ、どうにかここまで戻ることができた。聖ティセニア第一公女シャーリアの名において、その尽力に、心から感謝する。とともに、もし許されるなら、もう一度、皆と、明日の希望を分かち合いたい。だから、どうか。今は言動を慎んでほしい。未だ戻らぬ仲間の無事を、心より祈ろう」

 シャーリアは、毅然として姿勢を正した。松葉杖から手を離し、敬礼する。

「皆の勇気に感謝する。以上だ」

「全員、整列。待機小隊は引き続き全周警戒態勢。各担任界を注視」

 下士官たちの指示が飛び交い始める。

 シャーリアは、杖をついた不安定な姿勢で歩き出した。

 仮橋のたもとで立ち止まる。

「水で滑るかもしれなくてよ。足下に気をつけて渡りなさい。落ち着いて。ゆっくりと。前の者を決して押さぬように。重傷者を優先して。大丈夫、しっかりと綱につかまって」

 渡河してゆく兵へ、順繰りに励ましの声をかけ続ける。声がかすれていた。何度か咳き込む。

 公女が、自らより先んじて兵を渡す。麾下の部隊にとっては、その事実だけで充分だった。生還の可能性に賭け、全員が、気持ちを一つにして動き始める。

 この場は、シャーリアや参謀たちに任せていれば大丈夫だ。

 ニコルは、ため息をついた。

 静中の静は、真の静にあらず。

 平常心を取り戻すため、いったんメガネをはずす。

 眼の奥が鈍く痛んだ。指先で雨の滴をぬぐう。

 撤退は粛々と進んでいる。

 ならば、今、何をすべきか。慎重に、考えを巡らせてゆく。

 中州からノーラス側へ渡り終えるだけでも、ゆうに数時間はかかるだろう。夜通しの行軍になる。

 それでも立ち止まるわけにはゆかない。

 時間が必要だった。

 ならば、確保するまでのことだ。

 仮橋に背を向け、防塁をめざして、ためらいもなく歩き出す。

 次第に足を速め、時に水たまりを飛び越えなどしながら、エッシェンバッハの姿を探す。

「ああ、いたいた」

 エッシェンバッハは、防塁の櫓にいた。ぱちぱちと赤くはぜる火をいくつも焚いて、身体の芯まで濡らして戻ってくる哨戒兵に当たらせている。

 ニコルは、のこのこと近づいていった。

 エッシェンバッハは、目だけをじろりと横に動かした。無愛想に応じる。

「何用だ」

「お疲れかと思いまして。代わろうかな、なんて」

 ニコルは、もじもじと手を揉み合わせた。

「無用だ。それより早く公女を連れて中州へ移動しろ」

 そっけなく振り払われる。

 ニコルは、とりあえずの笑みでだんまりを決め込んだ。すかさずエッシェンバッハが糾弾の視線を放ってくる。

「よもや抗戦しようというのではあるまいな」

 ニコルは、正面からその眼差しを受け止めた。

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