自分だけが特別であるかのような顔をして
「口ばかり動かして遅れを取っても知らんぞ」
豪雨を断ち割る雄叫びとともに、エッシェンバッハが、掲げた指揮杖を振り下ろす。
「全馬、突撃! 功成り名遂げんと思うものは、いざ、我に続け!」
▼
唸り声が、雨音を圧して森を取り巻いてゆく。
もはや、生き延びる希望など、とうに潰えていた。
仲間を見捨て、必死に逃げて。足掻いて。
ようやく、ここまで来たというのに。
行く手にはまだ圧倒的な絶望が立ちふさがっている。
さながら、断崖絶壁の氷山に遮られたかのようだった。
それでも、生き残った者たちは歩き続けていた。公女を守りつつ、ときおり襲いかかる魔物を撃退する。
「もう、嫌」
シャーリアは、鼻の詰まった声をふるわせた。歩く気力すら失って、膝から地にくずれる。
「嫌よ、こんなところで死にたくない」
「殿下」
顔も知らぬ騎士が駆け寄ってきた。くずおれるシャーリアを、血まみれの腕で抱き支える。
「どうか最後まで希望をお捨てになりませぬよう。友軍の狼煙を見たものがおります。援軍は来ます。必ず」
シャーリアは、悲痛にうめいた。
「何度も同じこと言わないで。あんなに化け物がいるのに。来られるわけがないわ。そんなことより、サリスヴァールはどこなの。クラウスは、ヴァンスリヒトは。はやく、わたくしの元に来るように言って」
「お二方とも、ここ数日はお見えになりません。ただし、参謀からこれを預かっております。もし、万が一のことがあるようなら、殿下にこれを、と」
騎士は、名状しがたい表情をこわばらせた。
わななきの止まらない手で、豪奢な金装飾を施した自決用の拳銃を手渡そうとする。
「誰が、そんなもの……!」
シャーリアは甲走った声をあげた。騎士の手を払いのける。拳銃がぬかるみに転がった。
ふいに。
まがまがしい風が、ぞわり、と凶悪に揺らいだ。
闇に毒々しく光る無数の眼。
恐怖の臭いを嗅ぎつけたのか。ひとつ、またひとつと増えてゆく。
喜悦の色に、まさぐるような舌なめずりの音が重なった。
誰かが、息を呑んだ。
「来るぞ」
「殿下、お覚悟を」
騎士は、泥まみれの拳銃を拾い上げ、シャーリアの手へねじ込んだ。
そのまま、サーベルを抜き払って駆け出してゆく。
もたれかかっていたシャーリアは、すがるものを失ってよろめいた。
息が、凍る。
常軌を逸したうめき声が、森を埋め尽くしてゆく。
前方から。
後方から。
頭上から。
おぞましく膨れあがった腐肉の塊が、ぼとぼとしたたり落ちた。ねばついて、伸び上がる。
地面から。闇の彼方から。
汚泥にまみれた魔物が生まれ出ようとしていた。
折れ曲がった竹のような、不釣り合いに長細い足を波打つように無数に上下させ。
地の底から這い上がってくる。
その横で、漆黒にねばつく皮をひきずった生白い蛆虫が蠢いていた。毛の生えた表皮に、蛍光色のさざ波が伝わる。腐り落ちながら歩く腐肉の水たまり。
饐えた鉄錆の臭い。息をする度に吐き気を覚える。
枝の砕ける音、濁流の轟き。
ふつふつと煮滾るような、おぞましい声が、四方八方から聞こえた。
ぶよぶよと太った蛆虫が、牙の生えた丸い口で、倒れた兵の背中にしゃぶりつく。
吐瀉物にも似た汚濁が飛び散る。
立ち向かおうとした悲鳴が、一瞬にして呑み込まれた。
かき消される。
押しつぶされる。
「わたくしに近づくでない!」
シャーリアは、ぶよぶよの蟲に向かって拳銃を構えた。泣き叫びながら、自決用の弾を撃ち尽くす。銃声だけが、蟲の表皮に食い込んだ。
ほうほうのていで、蟲の腹の下から兵士が這い出した。一瞬だけシャーリアを横目に見て、すぐに逃げてゆく。
「来るな。来るな。来るな!」
もはや反応すらしなくなった引き金を、シャーリアは半狂乱の状態で何度も引き続けた。
目前に、暗愚なる飢餓が迫ってくる。
正気を削り飛ばすかのような歯ぎしりに、視界の全てがうずめつくされた。
死ぬ。貪り喰われる。
気が違いそうなほど、無様な最期に思えた。
魔を打ち払う《封殺のナウシズ》は、魔女マイヤの魂を継ぐアーテュラスにしか使えない。
その、アーテュラス率いる第五師団から、サリスヴァールを奪い取って骨抜きの無力にしたのは誰か。思い起こすまでもなかった。
今度こそ、終わる。
誰も、助けになど来ない。
そう、覚悟したとき。
清浄の青い光が、粉雪のように舞い散った。
「異界へ帰れ! 魂なき闇のものたちよ、偽りの闇よ。真実の光に散れ!」
続けて、闇が、白銀の十字に断ち割られた。
──‡ 訪れるものに安らぎを、去りゆくものに安全を……《
白い火が、地に沿ってめくれ上がるように噴出する。
ガラスの砕け散るのにも似た残響の音が、続けざまに炸裂した。
時に暗く、時に激しく。きらめき燃える水晶の防壁が、遙か頭上にまで組み上げられてゆく。
流れくだる滝にも似た光が、蒼銀の飛沫を散らしていた。
防壁の外は、青い雪だった。音もなくしずかに降る雪。
雪に触れた魔物は、淡く光って消えた。まるで手のひらの温もりで溶ける雪のようだった。
鎖の音がした。悲鳴の木霊が消えてゆく。
銀の盾を掲げる人影が見えた。
「殿下殿下殿下ーーっ!」
「うるさい黙れ静かにしろ」
エッシェンバッハは、にべもない声を投げかけた。ゆらめきの白い影が、痩け落ちた横顔を鋭利に照らし出す。
腕に巻かれた鎖が、澄んだ音を立てて鳴った。
その真横を、白銀の霊光に護られた聖騎士の部隊が、泥を蹴立てて駆け抜けた。たちどころにあふれる希望のきらめきが戦場の空気を一転させる。
神を讃美する雄叫びが、雨空に解き放たれた。
「殿下殿下殿下あああ! よかった、ほんと、ご無事で! どうなるかと思いました!」
ニコルは、シャーリアに駆け寄った。半泣きで首にかじりつく。
シャーリアは空虚によろめいた。
「あっ、しまった」
ニコルは、あわてて両手をばんざいにして離れた。包帯を巻いたシャーリアの足の前へ屈み込む。
「お怪我なんでした! と、と、とりあえず止血はされてますね、うん、これなら大丈夫。ゾロ博士とビジロッテさんが調合してくれた、ヤバいぐらい元気の出る秘薬を持って来てますので、すぐに治療できます! 他に、重傷の人はいませんか?」
シャーリアは、目を合わせようともしなかった。唇を噛んで、何も言わない。
エッシェンバッハは、無駄口で余計な時間をすり減らすつもりはなさそうだった。シャーリアを護衛してきた騎士たちを見回す。
「貴公ら、よくぞ、公女の御身を守り抜いた。果敢なる勇気、実に感じ入った。以降は、我ら第三師団に護衛を任せ、身体を休められたし」
「後続は、僕が《
ニコルが後を引き取って続ける。
「だからみんなは、このまま殿下を護衛して、先に撤退を開始してください。僕は、後続を待ちます」
「大丈夫か」
エッシェンバッハは冷厳のまなざしをニコルへとくれた。
「大丈夫です。任せてください」
ニコルは、凛と声を響かせる。
「おだまり、アーテュラス」
シャーリアは、ふいに涙で黒く汚れた顔を上げた。やつれてはいても、強く美しい瞳で、ニコルを睨み付ける。
声が震えていた。
「おまえ――おまえは、いつもそうだわ。いつも、自分だけが特別であるかのような顔をして。だから、あのひとも」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます