自分だけが特別であるかのような顔をして

「口ばかり動かして遅れを取っても知らんぞ」

 豪雨を断ち割る雄叫びとともに、エッシェンバッハが、掲げた指揮杖を振り下ろす。

「全馬、突撃! 功成り名遂げんと思うものは、いざ、我に続け!」

 薔薇十字ローゼンクロイツの旗を掲げた馬群は、猛然と速度を上げ、怒号をあげて、魔物の群れへと突入していった。



 唸り声が、雨音を圧して森を取り巻いてゆく。

 もはや、生き延びる希望など、とうに潰えていた。

 仲間を見捨て、必死に逃げて。足掻いて。

 ようやく、ここまで来たというのに。

 行く手にはまだ圧倒的な絶望が立ちふさがっている。

 さながら、断崖絶壁の氷山に遮られたかのようだった。

 それでも、生き残った者たちは歩き続けていた。公女を守りつつ、ときおり襲いかかる魔物を撃退する。

「もう、嫌」

 シャーリアは、鼻の詰まった声をふるわせた。歩く気力すら失って、膝から地にくずれる。

「嫌よ、こんなところで死にたくない」

「殿下」

 顔も知らぬ騎士が駆け寄ってきた。くずおれるシャーリアを、血まみれの腕で抱き支える。

「どうか最後まで希望をお捨てになりませぬよう。友軍の狼煙を見たものがおります。援軍は来ます。必ず」

 シャーリアは、悲痛にうめいた。

「何度も同じこと言わないで。あんなに化け物がいるのに。来られるわけがないわ。そんなことより、サリスヴァールはどこなの。クラウスは、ヴァンスリヒトは。はやく、わたくしの元に来るように言って」

「お二方とも、ここ数日はお見えになりません。ただし、参謀からこれを預かっております。もし、万が一のことがあるようなら、殿下にこれを、と」

 騎士は、名状しがたい表情をこわばらせた。

 わななきの止まらない手で、豪奢な金装飾を施した自決用の拳銃を手渡そうとする。

「誰が、そんなもの……!」

 シャーリアは甲走った声をあげた。騎士の手を払いのける。拳銃がぬかるみに転がった。

 ふいに。

 まがまがしい風が、ぞわり、と凶悪に揺らいだ。

 闇に毒々しく光る無数の眼。

 恐怖の臭いを嗅ぎつけたのか。ひとつ、またひとつと増えてゆく。

 喜悦の色に、まさぐるような舌なめずりの音が重なった。

 誰かが、息を呑んだ。

「来るぞ」

「殿下、お覚悟を」

 騎士は、泥まみれの拳銃を拾い上げ、シャーリアの手へねじ込んだ。

 そのまま、サーベルを抜き払って駆け出してゆく。

 もたれかかっていたシャーリアは、すがるものを失ってよろめいた。

 息が、凍る。

 常軌を逸したうめき声が、森を埋め尽くしてゆく。

 前方から。

 後方から。

 頭上から。

 おぞましく膨れあがった腐肉の塊が、ぼとぼとしたたり落ちた。ねばついて、伸び上がる。

 地面から。闇の彼方から。

 汚泥にまみれた魔物が生まれ出ようとしていた。

 折れ曲がった竹のような、不釣り合いに長細い足を波打つように無数に上下させ。

 地の底から這い上がってくる。

 その横で、漆黒にねばつく皮をひきずった生白い蛆虫が蠢いていた。毛の生えた表皮に、蛍光色のさざ波が伝わる。腐り落ちながら歩く腐肉の水たまり。

 饐えた鉄錆の臭い。息をする度に吐き気を覚える。

 枝の砕ける音、濁流の轟き。

 ふつふつと煮滾るような、おぞましい声が、四方八方から聞こえた。

 ぶよぶよと太った蛆虫が、牙の生えた丸い口で、倒れた兵の背中にしゃぶりつく。

 吐瀉物にも似た汚濁が飛び散る。

 立ち向かおうとした悲鳴が、一瞬にして呑み込まれた。

 かき消される。

 押しつぶされる。

「わたくしに近づくでない!」

 シャーリアは、ぶよぶよの蟲に向かって拳銃を構えた。泣き叫びながら、自決用の弾を撃ち尽くす。銃声だけが、蟲の表皮に食い込んだ。

 ほうほうのていで、蟲の腹の下から兵士が這い出した。一瞬だけシャーリアを横目に見て、すぐに逃げてゆく。

「来るな。来るな。来るな!」

 もはや反応すらしなくなった引き金を、シャーリアは半狂乱の状態で何度も引き続けた。

 目前に、暗愚なる飢餓が迫ってくる。

 正気を削り飛ばすかのような歯ぎしりに、視界の全てがうずめつくされた。

 死ぬ。貪り喰われる。

 気が違いそうなほど、無様な最期に思えた。

 魔を打ち払う《封殺のナウシズ》は、魔女マイヤの魂を継ぐアーテュラスにしか使えない。

 その、アーテュラス率いる第五師団から、サリスヴァールを奪い取って骨抜きの無力にしたのは誰か。思い起こすまでもなかった。

 今度こそ、終わる。

 誰も、助けになど来ない。

 そう、覚悟したとき。


 清浄の青い光が、粉雪のように舞い散った。

「異界へ帰れ! 魂なき闇のものたちよ、偽りの闇よ。真実の光に散れ!」

 続けて、闇が、白銀の十字に断ち割られた。


──‡ 訪れるものに安らぎを、去りゆくものに安全を……《絶対の盾アブソルータ・スクトゥム》! ‡──


 白い火が、地に沿ってめくれ上がるように噴出する。

 ガラスの砕け散るのにも似た残響の音が、続けざまに炸裂した。

 時に暗く、時に激しく。きらめき燃える水晶の防壁が、遙か頭上にまで組み上げられてゆく。

 流れくだる滝にも似た光が、蒼銀の飛沫を散らしていた。

 防壁の外は、青い雪だった。音もなくしずかに降る雪。

 雪に触れた魔物は、淡く光って消えた。まるで手のひらの温もりで溶ける雪のようだった。

 鎖の音がした。悲鳴の木霊が消えてゆく。

 銀の盾を掲げる人影が見えた。

「殿下殿下殿下ーーっ!」

「うるさい黙れ静かにしろ」

 エッシェンバッハは、にべもない声を投げかけた。ゆらめきの白い影が、痩け落ちた横顔を鋭利に照らし出す。

 腕に巻かれた鎖が、澄んだ音を立てて鳴った。

 その真横を、白銀の霊光に護られた聖騎士の部隊が、泥を蹴立てて駆け抜けた。たちどころにあふれる希望のきらめきが戦場の空気を一転させる。

 神を讃美する雄叫びが、雨空に解き放たれた。

「殿下殿下殿下あああ! よかった、ほんと、ご無事で! どうなるかと思いました!」

 ニコルは、シャーリアに駆け寄った。半泣きで首にかじりつく。

 シャーリアは空虚によろめいた。

「あっ、しまった」

 ニコルは、あわてて両手をばんざいにして離れた。包帯を巻いたシャーリアの足の前へ屈み込む。

「お怪我なんでした! と、と、とりあえず止血はされてますね、うん、これなら大丈夫。ゾロ博士とビジロッテさんが調合してくれた、ヤバいぐらい元気の出る秘薬を持って来てますので、すぐに治療できます! 他に、重傷の人はいませんか?」

 シャーリアは、目を合わせようともしなかった。唇を噛んで、何も言わない。

 エッシェンバッハは、無駄口で余計な時間をすり減らすつもりはなさそうだった。シャーリアを護衛してきた騎士たちを見回す。

「貴公ら、よくぞ、公女の御身を守り抜いた。果敢なる勇気、実に感じ入った。以降は、我ら第三師団に護衛を任せ、身体を休められたし」

「後続は、僕が《先制エフワズ》で誘導します。後ろからアンドレーエさんが来てるはずなんです」

 ニコルが後を引き取って続ける。

「だからみんなは、このまま殿下を護衛して、先に撤退を開始してください。僕は、後続を待ちます」

「大丈夫か」

 エッシェンバッハは冷厳のまなざしをニコルへとくれた。

「大丈夫です。任せてください」

 ニコルは、凛と声を響かせる。

「おだまり、アーテュラス」

 シャーリアは、ふいに涙で黒く汚れた顔を上げた。やつれてはいても、強く美しい瞳で、ニコルを睨み付ける。

 声が震えていた。

「おまえ――おまえは、いつもそうだわ。いつも、自分だけが特別であるかのような顔をして。だから、あのひとも」

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