どちらが最強か、勝負ですね

 突如。

 森から、黒い波のようなものが、どろりとあふれ出るのが見えた。

「アーテュラス、魔物どもを蹴散らせ。公女を確保するまでは、断じて退くなよ」

 エッシェンバッハが怒鳴る。ニコルは我に返った。

「了解」

 恐怖を振り払い、呼応する。

「カナン砲術長、擲弾銃部隊を前へ。射撃用意!」

「擲弾兵、前へ! 射撃用意!」

 双眼鏡を首にぶら下げ、歴戦の砲術長が復唱する。

「基準弾、撃て!」

 短銃身の擲弾銃が火を噴く。砲声が響き渡った。白い煙が雨に流れ去る。

 森の中から、金属を擦るような奇声がつんざいた。

「弾着確認!」

 森と、人の世界との狭間で。泥と水しぶき、それと魔物のなれの果てが飛び散った。

「右、目盛り一つ下! 苗頭びょうとう調整! 撃て! 撃て!」

 砲術長が怒鳴る。

「斉射開始!」

 すべての砲が火を噴く。だが、敵は止まらない。

 実体化した狂気が、闇の海嘯と化し、みるみるせめぎ寄ってくる。

 投擲弾だけでは、恐怖を知らぬ魔物を完全には掃討できない。

 ニコルは、凍てつく青に燃える《封殺ナウシズ》を盾にして、砲兵の最前線に立った。

「次弾装填、急げ。撃ち漏らしを恐れるな。我らにはルーンの加護がある。恐れるな」

 魔物の群れが、眼前にまで接近する。吐き散らす悪臭が、今にも吹きつけてくるかのようだった。

 ニコルは掌を天へとかざし、《封殺ナウシズ》の加護を解き放った。

「異界へ、帰れ!」

 舞い散る光に触れた瞬間、魔物の群れは、細かな黒い粒に分解した。文字と紋章に受肉した闇が、呪式にゼロを書き加えられ、終わりなき無へと還ってゆく。

 そこへ、エッシェンバッハの重騎兵部隊が突入した。巨大な銀の盾が、回転する円陣を描いて空に浮かび上がる。

 防御の力そのものを、反撃の鉄槌に代える聖属性の《カード》。

 《絶対の盾アブソルータ・スクトゥム》。

 息を呑む鮮烈な光が、防壁となって天空へと伸びてゆく。

 次の瞬間。

 一分の隙もなく並び立った聖なる盾が、密集した魔の軍勢を押し返した。光の盾に搔きよせられた魔物の群れは、盛り土を積み上げるかのように、ぼろぼろと端からこぼれ落ちながら、塵と化してゆく。

 あとは、ぬかるんでいた地面までもが、さっぱりと綺麗に均されていた。何も残っていない。

「師団長っ」

 肩を押さえ、転がり込むようにして戻ってきた伝令がニコルの姿を認めて駆け寄ってきた。足下で泥が跳ねる。

「第一師団先行部隊の狼煙を、目視で確認しました!」

「殿下はご無事か」

 誰かが叫ぶ。斥候は、泥まみれの顔をゆがめた。首を横に振る。

「いえ、森の中は、魑魅魍魎が跋扈しており! 小部隊では前進すらままならず!」

「了解。僕が行きます」

 ニコルは、一瞬の逡巡をも見せなかった。不敵な面構えで、ぐいと周りを見回す。

 降りしきる雨を払いのけ、声を高める。

「参謀部、全軍に下達。この場にて全砲列をもって敵軍勢の南下をせき止め、後方退却線を確保」

「はっ」

「聖騎士!」

「はっ!」

「防御系の《カード》を装備する聖騎士は残って、全軍を守れ。残りは殿下の救出へ向かう。指揮なき魔物は、愚連隊以下である。怖れる必要はない。みだりに近づく物あらば、容赦なく焼き払え」

「了解!」

 ニコルは、聖ティセニアと薔薇十字の軍旗を降り仰いだ。

「勝利は、聖なる薔薇の旗の下に!」

「勝利は聖なる薔薇の旗の下に!」

 ニコルは、馬首を北へと向けた。馬に拍車を入れる。

 《封殺ナウシズ》の光が、道なき道を、氷の篝火色に染め上げてゆく。

 馬蹄のとどろきが、森を揺るがす。

 周辺に満ちていた魔の気配が、遠浅の引き潮のごとく、退いてゆく。

 《先制のエフワズ》が、血の色に光った。

 感じる。共振している。 

 今も、どこかで。

 また、嗤い声が聞こえた。

 かりそめの幻影が、視界をむしばむ。《先制エフワズ》の予兆が、冷たい恐怖となって、背中に濡れ広がった。

 闇に熔け混じる、金泥の瞳。

 深紅の闇の中。眼だけが、青くきらめいている。

 その色。なぜか、どこかで。見たことがあるような気がした。

 流れくだる毒々しい蛍光色の血。漆黒のまだら模様に覆われた人ならぬものの身体。

 黒ずんだ半透明の膜翼が、ゆらりと闇を指し示す。その向こう側から、チェシーに似た嗤い声が、痛ましくも凄艶に響き渡る。

 ニコルは、絶句した。

 同時に、愕然とする。

 なぜ、その名を思い浮かべたのか。なぜ、まつろわぬ魔性の幻影を、チェシーだ、などと見まごうたのか。

 ニコルは、動揺の息を噛み殺した。

 違う。

 そんなはずは──

「アーテュラス」

 側方から、馬群の接近する重低音が迫った。

 エッシェンバッハの苛立ちの声が、並走しながら投げかけられる。

「勝手に先走るなと、何度言われれば気が済むのだ、貴公は」

「斥候が、第一師団を視認しました。一刻を争います」

 ニコルは、構い付けもせずに、その背へと怒鳴り返した。

 エッシェンバッハは、渋い顔で吐き捨てる。

「まずは我が身をいとえ。元帥のくせに。猊下が御座おわさねば、まるで糸の切れた凧だ」

「それを言うなら、エッシェンバッハさんだって元帥じゃないですか」

「俺は誰にも負けぬ」

「だったら、アンドレーエさんは」

「あれは鬼才にして破天荒だ」

「えー、何で僕だけ糸の切れたタコなんですか。僕だって最強の一角のつもりなのに!」

 ニコルは、思わず笑みをこぼした。頰をふくらませる。

「文句を言う暇があるなら、魔物どもをさっさと片付けろ」

 馬を駆る怒涛の音が、湿った泥の匂いとなって頰を撫でる。

 魔の放つ腐臭が、なまなましく森を覆い尽くしている。

 前方に、漆黒の闇が見えた。

 いや、闇ではない。

 ギチギチと、寄せ集め、這い回り、ひとかたまりの壁となった無数の黒い蟲の群れ。

 ふいに。

 森を押し破る叫喚の津波が押し寄せた。

 恐怖、狂気、震撼、激情が、どよめきと化してなだれかかってくる。

 誰かが悲鳴を上げた。馬が棹立ちになっていななく。

 ニコルは、腰背に吊ったサーベルを抜き払った。

「お前たちの住む世界は、この森じゃない!」

 《封殺ナウシズ》の聖女マイヤの姿が、脳裏に思い浮かんだ。劫火に焼かれた悲惨な最期の姿ではなく、ただ、小さな命を護りたいと祈った聖女の、その、疲れ果てた微笑みと、慈しみの涙を。

 守りたい。

 助けたい。

 たとえ──

 その、きらめきが。ルーンの蒼白な輝きと重なる。

「自分たちの世界へ帰れ!」

 聖女の想いを宿した《封殺のナウシズ》が、青く、凛と、輝く。

 きらめきのシャワーが、魔を浄化させる。光に触れたとたん、地面を這いずる蟲の群れは、瞬時に塵と化して消えた。

 魔物の存在しなくなった空間を、軍馬の一団が駆け抜ける。

 泥が飛び散った。

 わずかに息が掠れる。不安が脳裏をよぎった。

 確かに、ル・フェのような、強大な悪魔が近づく気配はない。だが、しかし、先ほどの……

「信号弾を撃て」

 エッシェンバッハが、後続の部下に命じた。降り止まぬ雨空に向かって、まぶしい光を放つ曳光弾が打ち上げられる。

 一秒。二秒。三秒。

 永遠にも思える空隙ののち。

 北の空に、赤い閃光弾の応答が走った。オレンジ色の煙が、中空でたなびいている。

「あれは、第二師団だ。アンドレーエがいるなら、合流は時間の問題だな」

 エッシェンバッハは、一瞬だけ、感極まった笑みを浮かべた。すぐに、表情を雨にまぎらわせる。

 色眼鏡の奥のするどい目が、慌ただしく前方へと向けられた。

「……貴公、まだ、れるか」

「もちろんですよ」

 ニコルは、空元気を振り絞って平然と言ってのけた。《先制のエフワズ》が、皮膚を突き刺すような激しい明滅を繰り返している。

「あとは、あの辺の邪魔な連中を、チョチョイと片付けるだけですからね」

 行く手からは、先ほどの蟲の群れとは桁違いの、ぬめるような気配が押し寄せていた。

 無意識に、全身が総毛立つ。

 うごめいているのは、何千という数の、おぞましい異形。

 人の背丈よりはるかに巨大な、半透明の多足類の群れ。無数の眼球、節のある脚、妙に生々しい肉の腕を持つもの。そこかしこから牙を生やすもの。ぬらぬらと触手を泳がせてのたうつ、深海の腐肉漁り。

 もはや、そこには統制も理性も何もない。

 あるのは、悲鳴と、絶叫と、生命への冒涜だけだった。闇から闇へ、引きずり込まれ、生まれ出ては、互いに喰らい合う。

 その、泥と血と汚辱にまみれた、生き地獄の闇に向かって。

 エッシェンバッハは、金属光沢を放つ《庇護アルギス》を、ぎらりと黒光らせた。

「もうひとっ走り、行くとするか。俺の背中から離れるなよ」

 ニコルは冷や汗が背筋をつめたく伝うのを隠しつつ、荒い息で応えた。

「どちらが最強か、勝負ですね」

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