見せていただきましょうか。絶対の防御たる庇護《アルギス》の力とやらを

 ニコルは眼を閉じた。どうせこの雨と暗がりの中では、有視界などないに等しい。

 心臓が、転がる岩のような音を乱打していた。脳裏に映る映像を追いかける。

 《先制エフワズ》のルーンを薄闇にかざし、手のひらを正面に突き出して。目に見えない感覚波を放つ。赤いガラスを通したような彩度のない闇を、透かしる。

 心の琴線を弾く音が聞こえた。敵意に触れれば、波形が反応する。

 えた。

 いくつもの場面が、紙芝居のように次々と切り替わる。

 馬を走らせるシャーリアと、公女を守って魔物と切り結ぶ騎士の姿が見えた。

 荷物を棄て、牛馬を棄て。狂気に追いたてられ、逃げまどっている。

 それと。もう一つ。貪欲な重力を感じた。森の奥に、恐ろしいほど強大な、闇色の拒絶がひそんでいる。

 青白い蛍光を放つ、邪悪なまだら紋様。人とも、魔物ともつかぬ、異形の混ざり合った姿が、闇から現われ出ようとして。

 ふいに、こちらを見た。

 直後。

 眼の奥が、鈍い閃光を放った。幻視が遮断される。

 虚構から現実へと、強引に意識を押し戻される。ニコルは喘いだ。喉の奥に悲鳴が詰まった。息ができない。

「アーテュラス司令、どうなされました」

 ニコルは、ルーンの幻惑に囚われた意識を必死に引きはがし、現実へと振り戻した。

 血の気の失せた眼差しで、部下を見やる。

「第一師団の所在を察知しました。おそらくは敵第四師団の魔物に追われているものと思われます。距離は、」

 すべてを言い終える時間は、なかった。

 赤黒い影が、一気に近づいてくる。

「魔物がこっちにも来ます。みんな、下がって!」

 ニコルは、《先制のエフワズ》からの感覚を断ち切った。左腕の手甲バングルに嵌めた《封殺ナウシズ》に意識を集中させる。

 砲弾のような、耳を聾する重金属めいた羽音が迫る。

 背後の騎士たちが、恐怖の呻き声をあげた。

 眼前の森が、ドミノ倒しのように薙ぎ払われた。

 枝が砕けた。引きちぎられた葉が飛ぶ。

 金属を擦りつぶすような羽音を唸らせて。

 赤黒い巨体が、闇を破った。鞘翅型の魔物だ。

 油膜が張ったようにぎらつく複眼。鋼鉄の剣を思わせる前翅。三角の頭部から、人の腕よりも太い大あごが伸びて、ガチガチと打ち鳴らすような音を立てる。

 複眼に、対峙するニコルの姿が、無数に映り込んでいた。

「アーテュラス司令!」

「危険です、お下がりを!」

 悲鳴じみた叫びが交錯する。ニコルは首を振った。ルーンの福音を宿す掌をかざす。白い光が、きらめく星くずのようにこぼれた。

「……魂なき闇のものたちよ、偽りの闇よ。真実の光に散れ」

 柔らかな白い光が広がる。

 ニコルは、光を投げ上げた。

 放たれた白い光は、飛び交う蛍のように、ぽうっと闇へと浮かび出た。

「召喚は無効だ。君たちの住む世界はここじゃない。異界へお帰り」

 眼前に迫っていた魔物の姿が、淡い光に触れた瞬間。

 まるで、目に見えない壁に衝突したかのように、魔物は消え失せた。後に、光の粉雪が、はらはらと散る。

 熱も、轟音も、雷撃も。激烈な反応は、微塵もない。あるのは、れかしの言葉だけ。

 存在ごと消えた魔物の形に、闇が、ぽかりと穴を開けた。一瞬ののち、ざあっと音を立てて、風雨が埋め尽くす。

「これでしばらくは大丈夫です。たぶん、ゾディアック軍も、僕らと同条件だ。この雨の中、容易に大軍は動かせない。いったん基地に戻りましょう」

 ニコルは、硬直し、呆然と突っ立ったままの部下たちに声をかけた。

 再び、雨音が強くなる。

 濁流の瀑音が、遠くとどろく。

 ニコルは、馬を急がせ、基地へと帰還した。

「第一師団を感知したそうだな」

 エッシェンバッハが、天幕の入り口に姿を見せた。帽子の雨水を振り落としながら、足早にやってくる。

 ニコルは、挨拶抜きで状況説明にかかった。

「今の敵第四師団には、魔召喚以外の直接戦力はなかったですよね。現指揮官は、確か」

「イェレミアスだな」

 エッシェンバッハは、傍らの参謀士官に目配せで確認した。

 その間にも、次々に斥候が戻ってきては、もどかしい手ぶらの報告を入れてゆく。 

 まだ、第一師団も、敵の第四師団も、目視で捉えることはできていない。

「敵第四は、魔召喚を主力とする歩兵部隊と騎兵の混成です。その、サリスヴァール准将が率いていたときは、突撃騎兵のみの編成でしたが……昨年のアンドレーエ元帥提出の調査報告書を見た限りでは、交戦時に砲の運用があったとの資料はありません」

「了解。的確な情報です」

 ニコルは表情を険しくする。

「ル・フェみたいな、上位の悪魔を召喚されたらいざ知らずだけど、チェシーさん以上に魔召喚を制御できる人間が、そうごろごろしてるとは思えない。召喚されたのが、さっきみたいな下級の魔物なら、何百匹来ようと僕ひとりで対処できます」

「よし、出撃だ。俺が先陣を切る」

「了解です」

 開け放しの入り口から風が吹き込んだ。ばたばたと天幕全体が揺れ動く。

 ニコルは、暗闇の森を睨み付けた。

 森を満たしていた雨音が、馬具の軋めきや跳ね上がる荷馬車の噪音、打ち合わされる鉄の反響にかき消される。

 急造の防塞バリケードが、急に頼りなく感じられた。

「報告!」

 泥まみれの斥候がひとり、左右から両方の肩を支えられ、転がり込んできた。

「報告します」

 かすれ声が陣中を走り抜ける。

「敵軍の所在を確認。何者かの集団が、この陣へ向かって接近中」

「敵指揮官は確認したか。公女は」

 表情を変えることなく、エッシェンバッハが問い糾す。

「未確認です」

 ニコルは、エッシェンバッハと目を見交わした。

 天幕の外へと歩み出る。

 サーベル、両手それぞれのルーンへと、順に手を置く。

 最後に、軍鞄に忍ばせた《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》の、ぞっとする喪失の感触を確認した。

 触れた指先が、こと自体の感覚を失っている。まるで、手の代わりに石膏像が生えているだけのような気がした。麻痺しきって、何の痛痒もない。

 エッシェンバッハが傲然と歩み出てくる。

「馬を引け」

 左腕に巻き付けた鉄の鎖を、ざらりと鳴らしながら周囲を見回す。副官が、黒の悍馬と葦毛の二頭を引いて戻ってくる。

「アーテュラス、援護しろ」

 言い置きつつ、エッシェンバッハは銀色の小型盾を腕に装備し、漆黒の悍馬へとまたがった。手綱を引き絞る。軍馬は前脚を踏み鳴らしてハミを取り、入れ込んだ様子で首を振った。

 ニコルも続けて騎乗した。手綱を取り、馬の首を撫でてやる。

「見せていただきましょうか。絶対の防御たる《庇護アルギス》の力とやらを」

「小賢しい口を利く」

 エッシェンバッハは、苦虫を噛みつぶしたような顔でつぶやいた。

「敵影観測!」

 歩哨の叫び声が聞こえた。

 ニコルは、胆の底がぞくりと震えるのを感じた。

 森が揺れ動いている。黒ずんだ臭気が漂いだしているようにさえ見えた。

 木の陰に。

 暗がりの狭間に。

 ほのぐらく濡れた森の底に。

 何かがいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る