いないの。二人とも、どこにも
「余計なおしゃべりは後だ。任務完了。総員撤収だ。繰り返す、総員撤収」
エッシェンバッハが、場を圧する大音声を響かせた。
「聖騎士は傷病兵を守れ。アーテュラス、後方は任せる。側面からの襲撃に気をつけろ。順次撤退だ」
「了解です」
ニコルは、首を鶴のように伸ばして、手を振った。シャーリアの言葉を最後まで聞かず、後続を確認しに行こうとする。
その手を、シャーリアが掴んだ。
「馬鹿。わたくしを置いて、どこに行くつもり? おまえは、わたくしだけを護ればいいのよ」
シャーリアは、涙でくぐもった声をあげた。ぎり、ぎり、と、手袋越しに悲痛な爪を立てる。
「そうすれば、後で笑えるでしょ。何千人もの兵を、無駄に殺した無能の将軍、わがままで、愚かで、最低の女だと。皆に言いふらしなさい。破廉恥な生き恥をさらしたわたくしの代わりに、おまえが撤退の指揮を執りなさい。そうすれば、皆が、おまえの手腕を賞賛する。わたくしを陰で蔑む代わりに、おまえを救国の英雄と褒め称える。きっと、あのひともまたおまえのもとに戻ってくるわ」
「殿下、時間がありません」
「やめて。本当は分かってるんでしょ。わたくしがしたことを。あのひとの態度も、言葉も、おまえとわたくしとでは全然違ってた。もしかしたら、知っていたんじゃないの。本当はおまえが何者なのか」
シャーリアは、痛々しい蔑みまじりに吐き捨てた。
「殿下」
ニコルは、何度か眼をしばたたかせてから。
もう一度、シャーリアの前に屈み込んだ。
両膝をぬかるみにつけて、爪を立てる手を、ゆっくりとほどいて。
見つめる。
目の前にいるシャーリアは、まるで、子どもに戻ってしまったかのようだった。
フランゼスと、ニコルと、シャーリア。弟分の幼稚園児二人を背後に引き連れて、王女様然と闊歩する小生意気なお姫さま。
思い通りにならぬと駄々をこね、堰を切ったように泣き叫んでは、鼻を真っ赤にして。誰よりも強くあらねばならぬという自負と、ルーンを持てぬ現実との差にさいなまれ、もどかしさのあまり、涙と泥でぐしゃぐしゃにしていた、小公女のころに。
ニコルは、シャーリアの頭を、そっと胸に抱き寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。
「本当に、殿下が、無事でよかった。僕が、元帥でいられてよかった。殿下を助けにくることができてよかった。ルーンの助けがあって、本当によかった」
シャーリアは、不思議なほど、抗わなかった。
「僕は、ぜんぜん特別なんかじゃありません。ただ、仲間と一緒に殿下を迎えにきただけです。それよりも、ここまで必死に殿下を守ってくれたみんなの力を、何より信じてあげてください」
「信じてどうなるというの。わたくしが誰を信じようと、もう誰もわたくしのことなど」
シャーリアは、他の騎士に促され、立ち上がりながらつぶやいた。ニコルは了承の合図を送る。
「別に、誰に信じてもらわなくてもいいじゃないですか。相手が自分を信じてくれてるかどうかなんて、自分の気持ちとは関係ないですし」
シャーリアは、紅潮した顔をそむけた。
「それは、おまえが……すごく馬鹿だからよ」
「えええええ?」
「アーテュラス閣下。魔物の数が急激に増えています。どうか、対処を」
聖騎士が、転がるように駆け戻ってきた。青い顔で報告する。
前方から、エッシェンバッハが指揮杖を振り回して怒鳴る。
「聞こえたのか、アーテュラス! ぐずぐずするな。さっさと行け!」
光の隧道が、ところどころ、ガラスが砕けたように割れるのが見えた。幾何学文様に組み上げた防壁が、剥離した宝石片のように、きらきらと崩れてゆく。
「は、はいっ!」
ニコルは、あわてて馬に飛び乗った。
絶望から希望へ。生還への最後の望みを賭けて、兵が集結する。
勢い込み、慌ただしくなった部隊の後方へと向かおうとして。
ニコルは、唐突に、一番大事なことを聞きそびれていたのを思い出した。
「殿下、あのっ! すみません」
護衛の騎士に囲まれたシャーリアのもとへと、急いで駆け戻る。
「ヴァンスリヒト大尉はどこです? 一緒じゃないんですか? チェシーさんは? 後続とどれぐらい離れてるか分かります?」
シャーリアは、蒼白の顔をこわばらせた。答えもせず、足早に去ってゆこうとする。
「殿下、あの、ちょ、ちょっと。殿下ってば」
聞こえなかったのかと思い、焦りの声で追いかける。
「いないわ」
遠い雷鳴が聞こえた。一瞬、青白く、闇が反転する。
シャーリアの落とす影が、くろぐろと地面にうなだれて見えた。
「いないの。二人とも、どこにも」
凍える稲光が閃く。
馬蹄の音がとどろいた。後方から来た馬列が、何頭も連なって、騒然と走り抜ける。次々に泥しぶきが跳ねた。
ニコルは、顔をそむけて手をかざし、泥から逃げた。
「いないって。いったい、どういう」
聞き返そうとしたときには、もう、シャーリアの姿は遠くなっていた。
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