12−4 戦火に消ゆ

俺には、娘を愛してやる方法が、これぐらいしか思い浮かばん

 伝書鳩が、嵐に揉まれて飛び込んでくる。

 足につけられた識別用の輪と、通信筒の刻印。第一師団からの連絡だった。

「『我、シグリル村東ニテ、敵第十師団ト接敵。我方ノ損耗率ハオオヨソ二割。戦闘続行不可能ト判断セリ。ノーラスマデ退却。至急救援ヲ請フ』」

 レゾンド大尉が、緊張に震える声で読み上げる。第三師団の参謀、巨漢のファンデル大尉が、手元のゾディアック地図から地名を探し出した。

「ありました。森林地帯からほど近い、小さな村です。おそらく、前線の兵站末地が置かれていたものと思われます」

 ファンデル大尉は、筋肉まっちょ草を常食しているのかと怖気付くほどの体型にして、極めて紳士な物腰。馬蹄型の髭が、完璧な線を描いている。

 ニコルは、地図卓に手をつくエッシェンバッハ元帥へと目を向けた。

「損耗率、二割。たしかに、攻撃側の戦闘遂行能力としては限界値ぎりぎりですが」

「問題は、誰がその判断を下したか、だ」

 いつもと同じ、死神めいた鴉色のコートをまとったエッシェンバッハが、どこか予言めいた口調でつぶやく。

 ただ、その片腕は。

 ふわふわなピンクのねまきを着た幼女でふさがっていた。

 娘のレイディ・チュチュである。なだめて寝かしつけようと抱っこしたら、てこでも離れなくなったらしい。

 ずっと揺すられているにもかかわらず、ずいぶんと幸せそうな寝顔だった。もはや毎度お馴染みの場面だ。ニコルは、冷静に反応する。

「……そりゃ、もちろん、殿下なのでは」

 エッシェンバッハは、戦略地図上の模型を、棒の先で小突いた。腕に巻いた鎖が、冷たく鳴る。

「忘れたのか。ツアゼルホーヘンでも、アルトゥシーでも、公女がぐずぐずと撤収を長引かせたせいで面倒なことになったのを。勝利にこだわって兵を顧みない愚将が、この転回判断の速さ。何かあるぞ」

 ニコルは、唇をわずかにゆがめた。

 感情を揉み消す。

「シャーリア殿下が自ら救援を請わねばならぬほど、被害甚大だったということでは……」

 言いかけて、ニコルは、ふと言葉を飲み込んだ。

 会議室の外がざわついている。壁を洗う雨音が聞こえた。遠くで雷が鳴っている。

 伝声管のベルが鳴った。レゾンド大尉が会釈して、前を横切る。

「こちら作戦室。どうぞ」

 受話器のラッパ管を耳に当てる。

 金属管越しに、切迫の声が聞こえた。

「第二師団、アンドレーエ元帥から急報。ブリスダル、陥落。敵第一白羊宮はくようきゅう師団、総数約十万が、渡河を開始」

「中立都市の売国奴どもめ。第一師団を切り離したか」

 エッシェンバッハが、総毛立つ殺気をゆらめかせた。

「当然、ツアゼルホーヘンにも同じ報告が飛んでいるだろう。となると、アンドレーエは、敵後方連絡線の断絶工作を優先するはず。即応はできまい」

「こちら側から、第一師団の応援を差し向ける必要がありますね」

「現在位置が分からん。時期尚早だ」

 伝声管に耳を当ててメモを取っていたレゾンド大尉が、会話を終えて振り返った。

「アンドレーエ元帥におかれましては、未だ、第一師団との連絡が取れない状況のようです」

「あり得んな。よほどの混乱だったのか、それとも……」

「やはり、今すぐ応援に出ないと! もし、殿下の身に何かあったら取り返しがつきません」

 ニコルは、なぜかひどく落ち着かない心地になって、その場で足踏みした。今すぐにでも、会議の場を飛び出していきたい気持ちにかられる。

「滅多なことを口にするな」

 赤みを帯びた色眼鏡越しに、エッシェンバッハの眼が光った。

 カミソリのようにほそめられる。

「それでも貴様、ノーラスの長か。猊下から託された信頼に応えるのが、貴公の望みではなかったのか」

 ニコルは眼を泳がせた。ゆっくりと深く、息をつく。

「そうでした」

 窓の外は、手の施しようもない豪雨だった。

 巨大な雨粒が、白く長く引き延ばされた線を引いて、騒然と窓を打ち叩いている。

 露台の手すりに、雨水が飛沫を散らしていた。

 といだけでは処理しきれずにあふれているのだろう。そこかしこから、滝を落としている。

「この空模様ならば、逆に望みはある。砲兵部隊はまともに動けん」

 エッシェンバッハは、窓の外を遠く見やった。

 空は、果てしなく暗い。

 ときおり閃く春雷だけが、雨に打たれるノーラスの森を、青白く染めあげていた。

 闇緑の森が、霧の海にうずもれる。白いもやが吹き流されていった。

「一方、悪天候はアンドレーエの独壇場だ」

 耳障りな雨音が高まる。ニコルは拳を握りしめた。

「救援に向かいます」

「だめだ」

 エッシェンバッハはにべもない。

「どうしてです」

 ニコルは詰め寄る。

「ツアゼルホーヘンの指示を待て」

「何日かかると思ってるんですか!」

「この雨では鳩も飛ばせん。止んでからだ」

「絶対に間に合いません」

 ニコルは、むきになって戦略地図を平手で叩いた。身を乗り出し、エッシェンバッハを睨み付ける。

「今、安穏と僕らが話し合ってる最中にも、殿下が敵に追われ、攻撃されているかもしれないっていうのに」

「勝手な憶測をしゃべるな。全軍の士気に関わる」

「だって、殿下が救援を要請するなんて、前例のないことですよ。チェシーさんが麾下にいるっていうのに」

 自らの言葉が意味する事実に、ニコルは息を呑んだ。

 言ってはならない状況が、ちらちらと脳裏をめぐった。

 まさか。

 誰かが。

 いろんな顔が浮かんでは消えた。即座に、余計な思考を遮断する。

「それぐらい不利な状況に陥った可能性がある、という前提で対処すべきです」

「分かっている」

「だったら、今すぐにでも救援を!」

「拙速な行動は慎むべきだと言っている」

 ニコルは、唇を引き結んだ。

 きっぱりと言い放つ。

「どちらにせよ、渡河地点であるブリスダルが敵に占領されたのだから、第一師団はノーラスへ撤退するしかないはずです。そうですよね、レゾンドさん、ファンデルさん」

「はっ」

「同感であります、元帥閣下」

 いきなり、名指しで意見を求められた参謀士官の二人は、直立不動の姿勢で答える。

「ととさま、チュチュはよいこなのです。ちゃんと、言われたとおり、おねんねできますの」

 エッシェンバッハの腕にしがみついたチュチュが、むにゃむにゃと頬ずりして寝言を言った。

「そうだな。チュチュは良い子だ」

「僕が抱っこしましょうか?」

「無理だ。いつまでたっても親離れしようとせん。まるで子供だ」

「子供ですよ……ということですから、撤退が成功するのもしないのも、行軍の退路が無事に確保できるかどうかにかかってくるはずです。そうですよね、レゾンドさん、ファンデルさん」

「はっ」

「同感であります、元帥閣下」

「ファンデル。貴様、誰の味方だ」

 エッシェンバッハが部下を睨んだ。ファンデル大尉は、筋骨隆々の腕を背中で組み、天井を睨んで鼻息を吹いた。

「はっ、小官は弱きを助け強きをくじくティセニアの軍人であります、元帥閣下」

「見た目のヘナチョコぶりに騙されるんじゃない。このメガネは最凶の禁忌使いだ。むしろこいつの暴走をくじく俺の手助けをしろ」

「えへへ、最強だなんて。照れるなあ。お褒めに預かり光栄です」

「そういう意味で言ってるんではない」

「……さすがアーテュラス元帥、メンタルも最強のようで……」

「……伊達にホーラダイン閣下と連日の丁々発止をしておりませんので……」

「うるさい、黙れ。貴様ら全員俺の敵か!」

 エッシェンバッハが怒鳴った。

「ううん……ととさま、いけませんわ、おこえがおおきゅうございます……それではチュチュがおっきしてしまいますわ……」

 チュチュの手が、ぺたぺたとエッシェンバッハの顔を撫でた。色眼鏡がずれる。

「いくら僕だって、考えなしに突進するわけじゃありません」

 エッシェンバッハがお口にチャックされている隙に、すかさずニコルは続けた。

「この雨じゃ、増水した川は容易に渡れない。資材もなしに仮設の橋を架けるのは無理です。ノーラスを目の前にして、敵に追いつかれるような真似はさせたくない」

 ニコルは、右腕に嵌めた《先制のエフワズ》に触れた。

 何かしらの反応があるわけでもない。なのに、なぜか胸がひどくざわついた。今にも何か、とても大切な何かをなくしてしまいそうな気がする。

 応じるエッシェンバッハの声は、固かった。

「貴公の使命は、ノーラスを死守することのみ。それ以外は、何一つとして期待されておらぬ」

 ニコルは、ふっと笑った。

「城だけを、国だけを、神殿だけを守って、何になります。たとえ命と引き換えにしてでも、目の前の人を守るのが僕の役目です」

 エッシェンバッハは眼をそらした。

「だからこそ、止めろと言っている。貴公は、いざとなると己が身をも顧みず、たかが一兵卒のために無謀な手段を選びかねんたちだと聞いた」

「誰に聞いたんです、そんな話。さてはアンシュですね? 余計なことを。大げさなんですよ。こう見えて、誰よりも逃げ足が早いって言われてるのに。何かあったら、即、ノーラスに逃げ込めばいいだけの話です」

 エッシェンバッハは、苦々しくうなずいた。

「そう言うことなら……分かった。救援には俺が出よう」

「僕も行きます」

「司令官が、本陣を出てうろちょろするんじゃない」

「敵第四巨蟹宮きょかいきゅう師団が置き去りにしていった魔召喚の残党が、まだ周辺にひそんでいる可能性があります。《封殺ナウシズ》の力がないと、持ちこたえられません」

「ノーラスはどうする」

「レゾンドさんに任せます」

「やれるか」

 エッシェンバッハが横目の視線を走らせる。レゾンド大尉は敬礼した。

「はっ。お任せを」

「ファンデル、レゾンド大尉の補助につけ」

「おそれながら、元帥閣下に申し上げます。小官は第三師団でも数少ない、殴ってボコれる脳筋副官であります」

「……何か、言ってることがほかの参謀の皆さんと違う気がしますが」

「だめだ。二人でノーラスを守れ。いいな」

 エッシェンバッハは、表情を険しくしたままだった。有無を言わさぬ口調で命じる。

「ザフエルさんが戻って来たとき、全員でノーラスの入り口に整列してお迎えに出ないと。下手にあちこち壊したら、怒られるのは僕なんですからね。お留守番をお願いします」

 ニコルは、けろりとして笑った。

 思い出したように、指を折って数え始める。

「さてと。エッシェンバッハさんのお墨付きも戴いたことですし。出撃はいつがいいかな、明日の朝じゃ遅いか……」

「明朝だ。救援側が二次遭難しては意味がない」

「そうでした」

「俺は、先に出て架橋地点を確保する。貴公は、工兵隊、看護部隊の準備を万端に整えてから来い」

「分かりました」

 言いかけてニコルは口をつぐんだ。ちらりと、ふわふわ髪の少女の寝顔を見やる。

「エッシェンバッハさん、まさかちっちゃなレイディに黙って出撃するわけじゃないですよね」

「するに決まっているだろう。当たり前だ」

 エッシェンバッハは、じろりと睨め付ける眼差しで見下ろした。

「花誕祭のときに半月ほど留守にしただけで――ひどく、その、拗ねられて――あれからずっと添い寝させられているのだぞ。また出撃だなどと聞いたら、どれだけ駄々をこねられるか知れたものではない」

 あまり想像してはいけない絵面である。ニコルは顔を引きつらせた。

「アンシュとヒルデ班長にお世話をお願いするしかなさそうだな……僕にはよく分からないけど、お父さんって大変なんですね。こんな夜中まで」

「仕方あるまい。俺には、娘を愛してやる方法が、これぐらいしか思い浮かばん」

 エッシェンバッハは、相変わらず険しい顔で腕の中の少女を見つめていた。

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