私は、ただ、閣下を
「すべては、聖ハガラズの純血を伝えんがため」
くすんだ薔薇色の眼が、笑顔にゆがむ。
「それだけが、わたくしの存在理由なのだと、父からも、母様からも、ずっと教えられて参りましたわ。《
「おまえにそのようなことを命じた憶えは」
ザフエルは、ふいに声をひくめた。ユーディットの顎を指で鷲掴む。
「ない」
言い放ち、押しのける。ユーディットは悲鳴を上げ、床へ倒れた。
衝撃で髪留めがはずれた。しどけなくほどける。乱れ髪が黒く床にうねった。
墓にからみつく鉄の薔薇のような、くろぐろとした影。
喉元に下がった香水瓶が、小さなきらめきを放つ。
ザフエルは、ただ、凍り付く眼差しだけを妹へと突き立てた。
「おまえは、ルーンに仕えることすら許されなかった」
ユーディットは、顔をうつむかせたまま、ゆっくりと柳腰をひねって身を起こした。
「兄様なら、きっと、そう仰せになると思っていましたわ」
床についた手が震え出す。
「わたくしが、わたくしとして生まれてこなければならなかった理由を御存知でありながら、よりによってあの方を、何も気付いていない振りをして、平然と側に置いていらっしゃったのですものね」
「黙れ」
ザフエルは、法衣の裾をひるがえした。呼び鈴へと歩み寄り、紐を引く。
「誰かある」
遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。いくつもの足音が駆けつけてくる。
「わたくしを捕らえるおつもりですのね」
ユーディットは、うつろに笑った。胸元を押さえ、よろめき立ち上がる。
「茶番はもう良い。追って沙汰あるまで蟄居せよ」
ザフエルは背を向けたまま、冷淡に吐き捨てる。
「茶番は兄様ご自身ですわ。真実から眼をそらしたところで何になりますの。誰も、運命から逃れることなどできはしませんわ。わたくし、母様にお聞きしましたのよ。あの方の真実を」
いつの間にか、ユーディットの戯言は、ひきつれた涙声に変わっていた。
やにわに、部屋の外が騒然となった。
扉が激しく叩かれる。
駆けつけてきた衛士が、ドアの外で語調も荒く呼ばわった。
「何事にございますか、猊下」
「……本当に生き写しでいらっしゃったそうですわ。あの方は。声も、お顔も、何もかも、《
ユーディットは、慟哭じみた悲鳴を上げた。
テラスの窓を開け放つ。
ヴェールが風にもぎ取られた。黒髪が乱れる。
薔薇色の瞳が、炎の色を孕んで、燃えあがった。
「もう、わたくしの身など、どうなっても構いませんわ」
美しい黒髪をしとどに乱し、窓際に身体をもたせかけながら。
香水瓶のペンダントを引きちぎった。後ずさる。爆発する哄笑に身を任せ、さらに、もう一歩。
背後は、虚空の闇だった。
「こんな、結末の分かり切った、身の程知らずな想いを抱き続けるぐらいなら。こんな、許されるはずもない、馬鹿げた、おろかしい願いに、身も、心も、焦がれて削がれるぐらいなら、いっそ」
廊下とつながる扉が、蹴破られた。
賊の侵入と勘違いした衛兵隊が、銃を手になだれ込んでくる。
凍りつく月光がひるがえる。
突風が吹き込んだ。
カーテンが、激しく音を立ててはためく。
机の上の報告書がたやすく飛ばされ、枯れ葉のように部屋の隅へと吹き寄せられていった。
足音と影が入り乱れる。
一見して分かる生々しい修羅場を目の当たりにし、衛兵たちはたじろいだ。
「こ、これは」
「ネックレスを回収しろ。毒だ」
ザフエルは冷酷に命じた。
呆然としつつも、衛兵は命令されるがままにユーディットの両脇へと回り込んだ。ユーディットを捕らえ、首に下げた香水瓶を回収する。
「成分を照合しろ。ゾディアック第八
「わたくしの口を塞いだところで、もう、どうなるものでもありませんわ」
後ろ手に捕らえられ、窓から引き離されながら。
ユーディットは、泣き笑っていた。
「《
「牢獄塔に幽閉しろ。先代を弑逆したのはユーディットだ」
絶句する衛士に向かって、ザフエルは、無表情に言い捨てた。
「兄様。わたくしの、敬愛する兄様」
壊れた叫びが、廊下に反響した。
「どうか、お忘れになりませんよう。このわたくしを穢らわしきものと排斥なさる兄様ご自身も、いずれ、わたくしと同じ、己が裡に潜むおそろしい、許されざる、背徳の欲情を知ることになるのですわ。あの晩、わたくしに、子をなせ、などと。馬鹿げた茶番を命じられたのも。本当は、あの方が何者なのか御存知だったからこそ。偽りの真実を盾に、さも御自分だけが唯一の庇護者であるかのように振る舞うことによって、あの方のお気持ちを、全幅の信頼を、あの方のすべてを手に入れるために謀ったことだと。でも……よもや、忘れたとは仰いませんわよね。《
「黙らせろ!」
ザフエルは、鞭のような声を闇へと叩きつけた。聞くに耐えなかった。
ユーディットは、口をふさがれてなお酷くもがき、笑い、けたたましく叫び続けている。
蒼白な顔の衛士が、ユーディットを連れ去った。
ようやく、死の如き静寂が戻ってくる。
ザフエルは、重い身体を椅子に預けた。
眼を閉じる。
「愚かな」
無意識に、胸元へと手をやる。
刻みつけられた、十字の傷。
胸に残る古い疵は、失った過去そのものだ。
まだ幼いときに、賊によって何度も斬りつけられ、えぐられ、火を浴びせかけられたと聞いている。だが、不思議なことに、この傷を負ったとき目に焼き付いたはずの敵の顔も、刃とともに突き立てられたはずの憎悪も、痛みも。
まったくといっていいほど、記憶に残っていない。
ただ、知っていた。
この傷を負わせたのは、実の母親だと。
「真実など、無意味だ」
己を誘う闇の呼び声に初めて気付いたかのように、ザフエルはふと、眼を見開いた。
暗くゆらめくハガラズが、窓に映る顔を照らし出している。
「私は、ただ、閣下を」
感情の失せた眼。
闇の奥底に、真実が垣間見える。
深淵が、そこにあった。
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