ぜったいに、ひとりにしないって、
翌、未明。雨は、ますます激しさを増してゆく。
陽が射す気配は、微塵もない。
偵察部隊からは、ノーラスの北を流れるリーラ川の水位上昇、及び、氾濫の危険性についての報告が入っていた。
崩落した崖。寸断された道。大量に漂着した上流からの堆積物。下手をすれば、渡河どころか、足を滑らせただけで、濁流に呑まれかねなかった。
艶のない鈍色をした《庇護のアルギス》が、たれこめた雲の色を映し出す。
エッシェンバッハは、隣にニコルが立ったのを皮切りに、うなずきかわした。
楯の紋章を縫い取った二角帽を目深にかぶり、コートの襟を立てて。
豪雨のさなか、騎乗する。
「先発隊、出るぞ」
出陣式もそこそこに、命令を下す。軍楽隊が、鼻風邪を引いたみたいなラッパの音を吹き鳴らした。
輜重車が動き始めた。救護兵、工兵の部隊が続く。
黒い雨合羽の列が、雨粒を肩に白く跳ね返らせながら進みはじめる。
直後。
「ととさま」
クリーム色のワンピースを着た少女が、見送る他の部隊の足元を割って駆け出した。進発する輜重車の列めがけて、転がるように近づいていく。
「ととさま、どこ」
手も足もエプロンドレスも、跳ねた泥だらけだ。
「全体止まれっ!」
ニコルは怒鳴った。手を振り上げる。だが、雨の中、叫んだ声はたやすく届かない。
傘も差さず逃げ回るチュチュを、それこそ、必死で追ってきたのだろう。
同じく全身ずぶぬれに濡れ、顔まで泥のあとがついたアンシュベルが駆け寄ってきた。
「チュチュさま、お待ちくださいですっ。だめ、そっちに行っちゃ、いけません! いけませんったら! やめてやめて、危ない……!」
チュチュは、前も見ずに、輜重の貨車の進行方向を横切ろうとする。
ニコルは壇上から飛び降りた。
泥飛沫を跳ね散らし、追いかける。
顔に、雨の飛沫がかかった。視界が白く染まる。軋めく貨車のくろぐろとした影が、チュチュへ覆いかぶさったように見えた。
軍馬の蹄鉄が、眼前に迫る。
「だめ、止まって! お願い……止まってくださいです……!」
アンシュベルが、悲鳴を上げた。ぬかるみに足を取られ、前のめりに転ぶ。
その横を、ニコルは飛び越えるようにして追い抜いた。
「レイディ、止まれ!」
今にも馬蹄にかけられそうになっていたチュチュの手を。
間一髪、掴んだ。転がりながら抱きとめる。
止まりきれなかった貨車が、馬のいななきとともに通り過ぎて行った。ようやく、停車する。緊迫のどよめきが広がった。
「全体、止まれ。止まれーーー!」
笛が吹き鳴らされる。ニコルは、息を切らしてひっくり返った。
雨粒が顔をつめたく叩く。
強く抱きしめた腕の中で、チュチュは泣いていた。
「ととさま、ととさま……いってはだめです……!」
「師団長、お怪我は」
アンシュベルが、泥まみれになるのもかまわず、膝をついたままの四つんばいで這いずってきた。
ニコルは白い息を吐いた。ぐったりとしたうめき声をあげる。
「ぜんぜん、大丈夫だよ。まさか、ノーラス最速の逃げ足が、こんなところで役に立つとはね。……それより、ちっちゃなレイディは」
ニコルは、起き上がった。腕に抱いてかばったチュチュを見下ろす。
顔も、スカートも、ぴかぴかの白いエナメルの靴も。雨と涙で泥んこだった。それでも、怪我をしている様子はない。
汚れた頰を、指の背でぬぐってやる。
アンシュベルは、ふいにぐすぐすと泣き出しかけた。
「ごめんなさいです。あたしが、ちっちゃなレイディのお手を放さずにいれば、こんなことには」
ニコルはかぶりを振った。
険しい顔で、チュチュを見やる。
「アンシュのせいじゃない。ちっちゃなレイディ、どうして、こんなことをなさったのです。危ないでしょう。いくらちっちゃくても、レイディでも、やっていいことと悪いことの違いぐらい、分かっていて然るべきです」
「アーテュラスかっかのうそつき。だって、だって」
ぼろぼろ落ちる涙と、こすれついた泥、それに雨が入り交じって泥んこになった顔のまま、チュチュはなおいっそう大声で泣き始めた。
「ととさまのことをだまってるなんて。チュチュは、ととさまといっしょじゃないとだめなのです。ととさまがいないと、い、い、いきてゆけないのです」
「どけ」
動揺する兵を蹴散らし、エッシェンバッハが近づいてくる。
馬から降りたエッシェンバッハは、スカートと言わずペチコートと言わず泥まみれにして号泣している娘を、総毛立つまなざしで見下ろした。
「……出陣の邪魔だけはするなと、いつも言っているはずだ」
「いやです、いや」
チュチュは、ニコルの手を振り払った。エッシェンバッハの黒いコートの裾をくしゃくしゃにして、すがりつく。
「いつもみたいに、どこにでもつれていってくれなくてはいやです。チュチュはととさまといる。ととさまとはなれるのはいや。ぜったいにいっしょじゃないと……」
「何度言えば分かる!」
エッシェンバッハは、泣き崩れる娘に向かって、いきなり手を上げようとした。
「申し訳ございません、閣下」
アンシュベルは、悲鳴じみた息をすすり込んだ。膝をついたまま、チュチュをかばい、頭から抱きしめる。
「罰でしたら、どうか、このわたくしめに。レイディをお止めできなかったわたくしめに、罰を!」
ニコルは、こわばった顔で間に割って入った。
「エッシェンバッハさん。この場で、それはやめてください」
「分かっている」
エッシェンバッハは顔をゆがめた。娘を平手打ちする代わりに、無情な声で突き放す。
「鍵でもかけてクローゼットに閉じこめておけ。そのうち静かになる」
にべもなく背を向け、立ち去ろうとする。
「そういうことじゃなくて」
ニコルは、身振り手振りで傘を持ってくるよう合図した。手渡された黒い雨傘を、アンシュベルとチュチュの二人に差し掛ける。
重苦しい雨が、ばらばらと拒絶の音を立てて打ちつけた。
ニコルは、チュチュの前に膝をついた。白い軍衣が、さらに雨と泥で汚れる。
「せめて、理由を。話を聞いてあげてください」
エッシェンバッハは立ち止まった。
振り向きもせず、背中を見せたまま。ただ、立ちつくしている。黒ずくめのコート姿が雨に煙った。
チュチュは、しゃくりあげた。
「チュチュも、いく……」
エッシェンバッハは、黒く垂れ込めた雨空を見上げた。
「それの母親は、」
ひくく、つぶやく。
「俺が西部戦線に遠征していた最中に流行病で死んだ。あのころの俺は、異教徒どもを殺す以外に興味がなくてな。重篤の連絡も聞いたのに、顧みてやろうともしなかった。ようやく戻ってみれば、娘も同じ病で瀕死だった。いつも留守にする俺じゃなく、ずっと傍にいた母のところへ逝くと行って聞かなかった」
首を振った。
「どうでもいいな。下らん昔話だ」
ゆっくりと振り返る。チュチュはしゃくりあげながら、声を震わせた。
「ととさまは……チュチュを、ぜったいに、ひとりにしないって、やくそくしてくださいました……」
エッシェンバッハは、するどい刃にも似た眼光を、チュチュへと奔りつかせた。
「違う」
手を差し伸べる。
チュチュは、エッシェンバッハに駆け寄った。頭から飛び込んで、ぎゅうっとすがりつく。
エッシェンバッハは、泥が付くのも厭わず、ちいさなチュチュの身体を抱き上げた。
「俺は、こう言ったんだ。お前だけは絶対に死なせない。誰にも殺させない。お前だけは、絶対に」
くしゃくしゃになったチュチュの髪を、わずかになでる。
「俺が護る、とな」
「ととさま」
「だから、お前は、皆と一緒にノーラスを守れ。そうすれば俺はまた、この城砦へ戻ってこられる」
エッシェンバッハは、チュチュを地面に下ろした。
チュチュは、エッシェンバッハにしがみつこうとして、くちびるを噛み、立ち止まった。
代わりに、アンシュベルがチュチュを抱き寄せる。
「お前が城にいれば、その城を。お前が仲間に守られていれば、その仲間を。《
チュチュはうつむいた。ぐすぐすと鼻を鳴らして、ちいさくうなずく。
「アーテュラスかっか」
なぜか、ニコルに向かって手を出した。
「はい?」
「レディがなみだをうかべたときは、きしたるもの、はんかちをそくざにさしだすべきですのよ」
「は? いや、はい、どうぞ、ちっちゃなレイディ」
ニコルはあわてて、ポケットからいつものザ印ハンカチを取り出した。
チュチュは、受け取ったハンカチをはらりと広げた。何度か眼をまたたかせ、ザの字を見つめる。
「しゅみのわるいはんかちですわね」
いきなりちーんと鼻をかむ。
「汚れ物はこちらへ」
アンシュベルが、にっこり笑ってエプロンの前掛けを広げた。どうやらこの中へ放り込めと言いたいらしい。
チュチュは、うつむいたままだった。
「アーテュラスかっか」
「はい」
「……うそつきといったことは、あやまりますわ」
「どうかお気になさらず」
ニコルは微笑み返した。
チュチュは、顔をあげた。かんだばかりの鼻は、まだ真っ赤だった。
それでも、気丈に笑って。
礼儀正しく、スカートをつまんで会釈する。エッシェンバッハはアンシュベルを見やった。
「わがままですまない。こんな娘だが、くれぐれも、頼む」
「はいです!」
「あの、アンシュ、僕のハンカチも洗濯しといて……」
「師団長のじゃなくて副司令のでは」
「う、うん?」
アンシュベルは、手を口元に当ててにんまりした。
「あれえ? 師団長ったら、ハンカチ返す返すって言いながら、ちゃっかりいつも肌身離さず持ち歩いてるってどういうことですかぁ?」
「な、何言ってんの。この作戦が終わったら、今度こそちゃんと返すってば」
ニコルは顔を真っ赤にし、そっぽを向いた。
「もういいから、さっさと進発しちゃってください。僕も、すぐに後を追います」
エッシェンバッハとすばやく目配せを交わし合う。
「了解。中州の合流地点で会おう」
エッシェンバッハは、悠然と騎乗した。
腕に巻いた鎖が、硬い響きを鳴らす。
自戒の鎖。何となく、ニコルはそんなことを思った。あわてて頭を振る。濡れた髪がメガネに貼り付いた。
ニコルは、ゆっくりとアンシュベルから離れた。
「もう見送りはいいよ。二人とも早く着替えておいで。風邪ひくよ。僕も、この後、すぐ出発しなきゃならない」
「師団長」
アンシュベルが、ふいに声を詰まらせる。
「大丈夫だよ。すぐに戻ってくる。みんなと一緒に。そしたら、今度こそザフエルさんにハンカチを返すから。洗濯して、アイロンもちゃんとかけといてよ」
ニコルは帽子をかたむけた。
凹んだ縁にたまった雨が、覆水となって流れ落ちた。
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