負け犬に興味はないの
倒れた馬車の向こう側から、切れ切れの声が伝わった。
「……こえないの……早く来なさい……クラウス!」
「殿下!」
馬を乗り捨て、傾いて乗り上げた馬車の向こう側へと馳せ参じる。
生々しい血の色が目を射た。息がつまる。
「馬鹿。いったい、今まで何をぐずぐずしていたの」
衝撃で車外に放り出されたのか。シャーリアが、うつぶせ倒れていた。
「何でもっと早く来なかったの。この、ぐず! わたくしが死んでもいいの? 見なさいな、このひどい怪我を。痛いの。歩けないの。ティセニアへ戻ったら、絶対にお前を軍法会議にかけてやるから!」
涙目を怒りに吊り上げながら、シャーリアは罵声を叩きつけた。血まみれの足を押さえ、苦痛に顔をゆがめている。
ヴァンスリヒトは、シャーリアの前にひざまづいた。頭を垂れる。
「申し訳ございません。今すぐ救護車へ」
「……馬鹿!」
シャーリアは泣きながら怒鳴った。
「歩けるわけないでしょ、こんな状態で。ここに呼びなさいよ!」
「ここは危険です。誰か、供の者は」
「見れば分かるでしょ。そんなの、どこにいるのよ」
シャーリアは、ふいに傷ついた目を伏せた。
「全員、わたくしを見捨てて逃げたに決まってるじゃない。どうせ、お前だって、これ幸いとわたくしを見捨てる気だったんでしょ」
「滅相もございません」
ヴァンスリヒトは、言葉の奥にある感情を押し殺した。
言葉が、ナイフとなって胸を突き刺す。
一瞬、耐えがたく唇を噛んだ。
「失礼の段、ひらにご容赦を」
ヴァンスリヒトは、怪我をしたシャーリアを両腕に抱き上げた。鞍上に押し上げる。血の臭いがした。
シャーリアが苦悶に身をよじらせる。悲鳴がもれた。
「痛いじゃない! 怪我しているのよ、もっと、そっとなさいな」
「申し訳ございません」
「早く、あのひとのところに、わたくしを連れて行って。やっぱりサリスヴァールがいなきゃだめだったんじゃない。わたくしの言ったとおり! お前なんか居てもいなくても同じだわ。もう、だめ。全部おしまいよ」
シャーリアは痛みに我を忘れ、癇癪を爆発させた。甲走った声で怒鳴る。
ヴァンスリヒトは、シャーリアを乗せた鞍の後ろにまたがった。前を行く本隊を追う。
行く手にたなびく砲撃の煙が、敵軍の旗にしか見えない。どよめきの鯨波が、罵倒し続ける怒声に聞こえた。
乾いた砂交じりの風が吹き寄せる。
幻聴かもしれない。馬が揺れるたび、耳鳴りとめまいにさいなまれる。悪寒が背筋を流れくだる。
それは敗戦の予兆だった。
▼
そのころ。
チェシー率いる騎兵部隊は、シグリルを守る敵の防御線を切り崩すことに成功していた。砲弾が雨あられと降り注ぐ下、命知らずの
しかし、シグリル村に残されていたのは、非戦闘員の住民ばかりだった。
敵陣はすでにもぬけの殻。
車軸を折られ、火蓋を抜かれ、歯車を欠いた野戦砲が、あちこちに放置されている。
「逃げられたか」
チェシーは憤りの表情もあらわに、駆っていた悍馬の手綱を引き絞った。
漆黒の軍馬は、突進の勢いをすくわれ、鼻息を荒くして土を掻いた。噛みつかんばかりの勢いで、前肢を猛々しく踏みならす。
「制圧完了しました。どうします。准将。追撃しますか。今ならまだ追いつけます」
配下が、命令を求めて駆け寄ってくる。
チェシーは一瞬、油断ならざる鋭光を隻眼にみなぎらせた。周囲を見渡し、かぶりを振る。
「いや、深追いして罠にかかる愚は避けたい。これは縦深戦術の罠だ。できるだけ早く撤退したほうが良い。そのための準備として、各隊で手分けして、防御陣地の再構築と、敵軍属の武装解除を行え。なお、物資の徴発にあたっては、主計少尉を同行させ、
「大隊長に注進ッ」
汗だくの伝令が駆け込んできた。
切迫の声を張り上げる。
「本日早朝、師団本隊が、山中に潜伏していた敵砲兵師団と接触。貨車の脱落多数とのことです!」
陣内の雰囲気が騒然と乱れる。チェシーは馬から降りた。部下に手綱を預け、剣を地に突き鳴らして、青くつめたく灯る目で伝令を見やる。
「救援の要請か」
「いえ」
伝令は首を横に振った。
「准将には、シグリルの早急な確保をお願いしたいとのことです」
「待ち伏せられたと知ってなお進むか」
チェシーは舌打ちした。
「ここに勝利はない。ヴァンスリヒトが何を諦めているのか知らんが、闇雲に進んでもティセニアには帰れんぞ」
控えていた参謀士官を呼び寄せる。
「斥候をやって、第二師団のアンドレーエ元帥に救援を頼め。どうせ近くに来てるはずだ。撤退するには奴の協力がいる。アンドレーエと合流でき次第、全軍を撤退させる。シャーリアでは埒が開かん。それまで、君に部隊の指揮を頼みたい」
「了解。准将はどちらに」
「シャーリアを連れて戻る。馬に水と糧秣をくれてやれ。半刻後に出る。後は頼むぞ」
「後武運を。何名、連れて行かれますか」
「単騎だ。案ずるな。俺には悪魔の加護がある。そう簡単に死なせてはもらえんよ」
言い置いて歩き出す。
一つくくりにした金髪が、硝煙を運ぶ東風にあおられる。チェシーは、青くみなぎる隻眼を、獰猛にきらめかせた。
ざわめく陣地を、一人、突っ切ってゆく。
「さてと、
舌なめずりし、唇を湿す。その仕草は、さながら獲物を見定める獅子のようだった。
▼
シグリルにたどり着きさえすれば。陣容を立て直すことさえできれば、と。
折れた足を引きずり、互いに肩を支え合いながら。
誰もが、それだけをひたすら念じていた。
着いてどうなるというものでもない。傷病兵を搬送するには、窮余の策として、武器、弾薬、砲架車を捨て、代わりに動けぬ者を乗せてゆくしかなかった。医薬品や衛生用品などはかろうじて無事だったものの、大半はろくな手当てすら受けられぬままだ。
結果、病に伏すものが増え、感染症に倒れるものが増える。全ての状況が悪化してゆくであろうことは、火を見るより明らかだった。
ヴァンスリヒトもまた、鬱屈した執念だけにすがり、シグリルへと向かっていた。
あるじを乗せた馬車を守るだけで精一杯だった。たった半日の行程すら、地獄への道のりに感じる。
シャーリアはと言えば、サリスヴァールの不在にかこつけて周囲に当たり散らすばかり。
こんな状態で、シグリルに立てこもったところで、何になるだろう。
部下の手前、敵を迎え撃つ態勢を整えるとは言ったものの、もがいたその先に何があるのか。闇夜の崖っぷちを手探りで伝い歩くにも似て、やりきれない。対岸へといざなう灯は、死人の漁り火だ。
もし、ふたたび、背後の敵に距離を詰められ、砲撃されてしまえば。
ただでさえ皆無に等しい士気は、今度こそ完全にくじかれる。
戦力を温存するなら、撤退を進言するしかなかった。
それができるならば、だ。
ヴァンスリヒトは、唇から血が滲むほど噛みしめた。
シャーリアは、もう、誰の意見も聞き入れようとしない。サリスヴァールに依存しすぎて、周りが見えなくなっている。
たとえ──どれほどの犠牲を払うことになろうとも、決して、退却を認めはしないだろう。
「前方に騎影」
斥候兵が叫びながら駆け戻ってくる。
「友軍旗を掲げています。味方です」
ヴァンスリヒトは、疲れた顔をわずかにほころばせた。
「どこの隊だ。准将か? ユーゴかもしれんな。応援に駆けつけてくれるとはありがたい」
藁にもすがる思いをかきたてられる。
舞い立つ後塵が、黄色く空を染めていた。雑木林の陰から、騎兵隊らしき黒い影が現れる。燻んだ白と青の旗が見て取れた。
「いや、待て」
ヴァンスリヒトは、遠目を凝らした。騎兵隊は速度を落とさない。一直線に突っ込んでくる。
ヴァンスリヒトは不穏な感覚に身をこわばらせた。
「違う……」
旗色の組み合わせが違う。ティセニア軍旗は白地に青。あわせて
だが、前方のあの騎兵隊は、違う。
身構えた瞬間。
騎兵隊が掲げた旗が、あかあかと燃え上がった。炎が赤く青の旗を塗り替える。
燃えしたたる蒼銀の火矢が、放たれた。
蛇のように地面すれすれをくねり走る。
反り上がるような銀の軌跡に、誰何に出た騎兵が、胸を射抜かれた。馬上でのけぞり、もんどり打って転げ落ちる。宙に白煙が爆発した。
「敵!」
銀の火が飛び散る。ヴァンスリヒトは、周囲が止めるのもきかずに前へと飛び出した。
腕を振り、怒鳴る。
「敵による擬装だ! 迎え撃て! 銃士隊、前へ。射撃用意……!」
偽りの青い旗、偽りの白い軍服が、地に投げ捨てられる。
渦巻く
ばらばらと虚しく、迎撃の銃声がこだまする。
「哀れな子羊どもよ」
笑う声が、風に乗って届く。紅を掃いたまなじりが、喜悦の笑みに染まっていた。
「せめて、わたくしたちの手で、美しく死なせてあげる」
急迫する黒衣の女たちが、首に手をやった。ネックレス代わりの香水瓶を引きちぎる。
手から、次々に、白く光る小瓶が抛たれた。
香水瓶は、宙に弧を描き、地面に落ち、希薄なガラスの音をたてて割れる。
どす黒い、紫と黄色の煤煙が噴出した。風に乗って吹き寄せてくる。
煙を吸い込んだ兵が、二、三度咳き込んだかと思うと、そのまま顔を土気色に変え、倒れた。折り重なって動かなくなる。
「毒粉だ。吸うな。騎兵は全員、風上へ回り込め」
ヴァンスリヒトは、声を枯らして怒鳴った。
口元が汚れるのもかまわず、火薬袋を噛みちぎって銃の火皿に振り入れる。
「構わん、馬を狙え。第一列、撃て」
もはや、つるべ撃ちとはゆかなかった。恐怖に駆られただけの、無謀な乱射が散発する。
ヴァンスリヒトは、号令の息を継ごうとして、喉を押さえた。眼と喉に、灼熱の痛みが貼り付く。
激しく咳き込む。
息をつまらせた馬が、膝を折り、前のめりに倒れ込んだ。不意を突かれ、ヴァンスリヒトもまた宙に投げ出される。
したたかに身体を打ち付ける。息ができない。
立ち上がれなかった。
咳き込み、もがき、土を掻きむしって、殴りつける。シャーリアの名が脳裏に浮かんだ。
「……殿下!」
ヴァンスリヒトは、毒にいぶされた身体を、地面から無理やりに引きはがした。
咳き入るたびに血を吐き、唾を吐いた。それでも汚れた口元を袖で乱暴にぬぐい、銃を杖代わりにして、歩き出す。
突如、おそるべき至近距離から、女の声が聞こえた。流れる煙の狭間に、敵の姿が見える。
ヴァンスリヒトはよろめきつつ、銃を構えた。
「ゾディアックの悪魔め!」
震える手で、続けざまに引き金を引く。轟音が耳につんざいた。反動で銃が吹っ飛ぶ。ヴァンスリヒトは肩の砕ける激痛に気を失いかけた。
ふいに。
風が頬を撫でた。視界が開ける。
「……あわれな最期ね」
泥靴で、顔を踏みにじられる。
ヴァンスリヒトは苦悶に呻いた。薄目を開ける。
肉感的な黒衣をまとう女が、頭上から逆さに覗き込んでいるのが見えた。
ゾディアック帝国軍、第八
「その蛮勇に免じて、名の一つでも聞いてあげられたらいいのだけれど」
声に、あまったるい毒が入り交じってゆく。
笑い声が幾重にも反響した。
「でも、負け犬に興味はないの。ごめんね」
かざした《カード》が、青白い放電を飛び散らせた。甲走った音を弾ける。火花が散る。光の残像が目に焼き付いた。
ヴァンスリヒトはもがいた。毒で手足が麻痺している。身体が、動かない。
そのとき。
突風の稲妻が、毒煙たなびく戦場を切り裂いた。
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