砂糖菓子
何事かと顔を跳ね上げたヴァンスリヒトの眼に映ったもの。それは。
飛来する赤い炎だった。
隊列の後方で、土煙が巻き起こる。轟音と、燃える木くずと、悲鳴が飛び散った。
「敵襲ッ!」
叫び声が聞こえた。それすら、炸裂する砲弾の雨にかき消されてゆく。
とっさに馬の手綱を引いた。馬首を返し、隊列を駆け戻る。
空が震える。
しらじらと青い払暁の空を、空振が切り裂いた。
真っ赤な流星が、白煙の尾を引き、空を走る。
横から見る細長い流線型ではない、一直線に向かって降ってくる弾頭の丸い形が見えた。狙いすました、精密な斉射。
一。二。三。
心臓が冷えた。
来る。
弾着。
街道が、地面ごとえぐれて吹っ飛んだ。轟音が、爆風となって吹き抜ける。
炸裂砲弾の破片が四散した。貨車を牽く馬が、折れそうなほど身を仰け反らせた。悲痛ないななきをほとばしらせ、どうっと横倒しに倒れ込む。
輸卒もろとも貨車がなぎ倒される。へし折れる。積み上げた木箱が転がり落ちる。
轟音に、鼓膜が割れそうだった。
硝煙の臭いが吹き荒れた。土煙混じりの突風が頰を吹きなぶる。
とっさに腕で目をかばう。ざれ石の破片が混じっていたのか。頰から血の霧が飛んだ。
煙が晴れたあと、ヴァンスリヒトは、兵に向かって怒鳴った。
「被害報告!」
にわかに、風が吹き抜けた。
煙が、尾を引いて流れ去る。
縦列の最後尾。かぼちゃのような形の馬車が、横倒しになっているのが見えた。車輪が空転している。
派手な色のドレスを着た女官たちが、扉を開け、這い出してきた。横転した馬車を見捨て、一目散に逃げ去ってゆく。
まるで、色とりどりの
馬のいななき。飛び交う怒号。悲鳴。
全てが異様なまでに不釣合いで、現実感がなかった。悪い夢を見ているようだ。
その姿が、地面から噴出する火の手によってさえぎられる。
荷車に積んだ火薬に引火したのか。
地面が揺れた。空を焦がす炎が、黒々とした煙を吐き出す。
しだれ花火の雨が降ってくる。
ヴァンスリヒトは、首を振った。これらはすべて、周辺の警戒を怠ったつけだ。
己の心に鞭を入れる。
凄惨な光景を躍り越え、駆け戻り、後方の隊列に向かって、大音声で誘導をかける。
「止まるな! すみやかにこの場を離脱せよ! 遮蔽物を伝って進め!」
声に気づいたのか。次々と参謀部配下の騎兵が集まってきた。
「参謀! 敵陣への重騎兵による特攻突撃の許可を」
ヴァンスリヒトは、北の空を睨んだ。
遥か遠い北の丘。その中腹から、火を含んだ砲煙が何本か、いや、数十本以上も吹き流れている。
山が燃えているかのようだった。
不用意に近づけば、瞬く間に小銃の斉射を浴びて全滅の憂き目にあうことだろう。
吐き捨てる。
「無謀だ。止せ。輜重部隊の離脱が先決だ」
「ですが!」
「許可なき突撃は禁止だ。とにかくこの場から離れろ。サリスヴァール准将へ連絡。シグリルの確保を急いでくれ。防御陣地を構築する。兵を守らねばならん」
「はっ」
「行け」
参謀士官が口々に奏上する。
「これだけの砲列を敷き、かつ精確に狙い澄まして撃ち込んでくるとなると」
「敵の正体は、ゾディアック第十
「前もって布陣し、巧妙に掩蔽して先遣隊をやり過ごしたのち、我々が動き出したのにあわせて攻撃を開始したと思われます」
「あれだけ離れていれば、敵本隊の位置を掴めなかったのも是非はないな」
「参謀閣下、お手当てを」
衛生兵が救急箱を手に駆け寄ってきた。ヴァンスリヒトの頰の傷を治療しようと言うのだろう。
ヴァンスリヒトは手を振った。治療を断る。
「かすり傷だ。大事ない」
「参謀閣下に報告ッ」
白い軍衣を、血と煤と土色に染めた輜重騎兵が、馬を急がせてきた。破片につらぬかれたか、かぎ裂きの穴がいくつも空いた軍旗をひるがえらせ、馬上で敬礼する。
「後方第二輜重縦列、運行に支障なし! 各中隊長判断にて、街道から離れ、遮蔽物づたいに進行しております」
鞍に差した騎兵銃が光っている。
「了解、よく守ってくれた。感謝する。後ほど、シグリルで会おう、と伝えてくれ」
「はっ」
輜重騎兵は、轟音に負けじと声を張り上げた。
馬首を返し、立ちこめる煙の中へと果敢に駆け戻ってゆく。
掲げた軍旗がたなびいていた。炸裂する砲弾の雨をものともせず、白と赤、薔薇の紋様を誇らしげにはためかせている。
死線をかいくぐって来た歴戦の旗だ。傷の数は勝利の数でもある。
心折れるには、まだ早すぎる。
ヴァンスリヒトは笑った。
「急げ。油断するな。すぐに第二波が来るぞ」
大声で鼓舞し、隊列を誘導する。
前方の本隊から、青ざめた顔の連絡将校が走り寄ってきた。
「大尉、姫殿下は、どちらの隊に
連絡将校は、今にも倒れそうな土色の顔をしていた。ヴァンスリヒトは答える。
「殿下ならば、第一歩兵大隊の先頭で、行軍指揮を執っておられるはずだが」
直後、脳裏に嫌な予兆がかすめた。連絡将校が、喉の奥からくぐもった声を押し出す。
「その御用馬車に、殿下の姿がなく!」
「馬鹿を言え。何かの間違いだろう」
ヴァンスリヒトは、敢えて笑い捨てようとした。
連絡将校が絶え絶えに続ける。
「側仕えの侍女が申すには、明日にもシグリルへ到達するゆえ、その、身だしなみを整えたいと、今朝方、お忍びで女官どもの馬車へ……」
砲声が轟いた。
敵の野戦砲が、再度、一斉に火を噴く。
視界が暗転した。閃光に眼がやられたか。
耳を聾せんばかりの爆音が轟く。
ヴァンスリヒトは馬から転げ落ちた。身を伏せる。
砲弾の金属破片が、赤く熱を持ったまま頭上をいくつもかすめて飛んでいった。
将校が、馬上で身をのけぞらせた。丸太のように上体を傾がせ、くずれ落ちる。
指が、虚空を掻いた。
「大丈夫か」
駆け寄り、耳元で怒鳴る。支えるために差し入れた手が、絶望的にぬるりと滑った。
息を呑む。
敵陣にたなびく無数の煙。硝煙の臭いに混じる、焦げ臭さ。
ふいに、連絡将校は息を吹き返した。凄惨なうめきが、血しぶきとともに絞り出される。身体の下に、深紅の血だまりが広がった。
「同志、申し訳ありません、どうか、薔薇の福音を、恩寵を、」
見開いた眼は何も見てはいなかった。その姿が、なぜか、シャーリアの傷ついた想像上の姿とだぶって映る。
ヴァンスリヒトは、支えた将校の重みに歯を食いしばった。
「救護車を早く! 衛生兵!」
悲痛な響きすら、砲声に次々とかき消される。ようやく到着した救護車は、すでに負傷兵でいっぱいだった。だが、無理やりにでも乗せるほかに、怪我人を退避させる方法はない。
「すまぬ。耐えてくれ。すぐに治療させる」
ヴァンスリヒトは断腸の思いで救護車を離れた。背中越しに銃声が響く。
何も聞こえない。聞こえなかった。行く手だけを睨み、歩き続ける。
砲撃に追われ、女官たちが泣き叫んでいる。ヴァンスリヒトは、シャーリアの名を呼ばわった。ほかの女になど、目もくれない。
煤けた女物の靴が転がっていた。菓子の国から来たかのような可愛らしい飾りのついた馬車が、無惨に倒され、打ち棄てられている。
割れた手鏡。髪どめ。燃え落ちたレースのハンカチ。こぼれるにまかせたアクセサリー。
割れた
血染めの砂糖菓子が、点々と散らばっていた。
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