12−3 夏の夜の夢
サリスヴァールは本気なのかな
薄暗がりに、濃密な花の香りが吹き寄せる。
レディ・ブランウェンは、濡れた毒のようにひそみ笑った。腰に握り込んだ手を当て、肩をそびやかせる。
どこからか、金属を打ち延ばすハンマーの音が聞こえた。
「隠れてないで、出ていらっしゃいな。アルトゥーリ」
豊満な身体をぴたりと覆う黒の衣装。口元を隠す深紅のネッカチーフ。太ももにはガーターベルト。水滴型のペンダントがちらちらと赤く揺れる。
左腕にはめた蜘蛛の形の
「誰が隠れてるって?」
不機嫌に唸る声がした。
サリスヴァール率いる威力偵察部隊の侵入を許したシグリル村から、東へ折り返すこと約半日の距離。
なだらかな丘陵の中腹、街道を見下ろす位置に。
ゾディアック帝国軍、第十
「ずいぶんと余裕ね」
「別にサボってるわけじゃないし」
枯れ枝で覆い隠された幌から、何十本もの太い鉄鎖が伸びている。密林に架け渡されたツタのようだ。
かすかな月明かりを浴びて夜に眠るは、ターレン型重
鉄の筒をそそり立たせた巨砲の下に、作業着姿の青年が潜り込んでいた。荷台に寝転がった仰向けの姿勢で、一心不乱に作業を続けている。
そこからだけ、白くギラつく光が漏れていた。
「鋼鉄の
「放っといてくれ」
むっつりと無愛想な態度を隠そうともせず、青年は不承不承、起き上がった。
遮光ゴーグル付きの帽子。白いマフラー。分厚い軍手をはめ、腰のベルトには、じゃらじゃらと鳴る工具袋を鈴なりにぶら下げている。
アルトゥーリは、強い光を放つトーチの蓋をねじった。周囲が暗くなる。
「何か用」
アルトゥーリは、顔に垂れた油をぬぐった。ひねくれた暗いまなざしを、美しい毒使いへと向ける。
レディ・ブランウェンは、手の内に握り込んでいた銀の連絡筒を軽く投げやった。
「今度こそ来るわよ、本隊が。あと一日といったところかしら」
「あっそ。予定地点を通ったら教えて」
アルトゥーリは、渡された伝書を読みもしない。
「報告。ティセニア公女シャーリア率いる敵の第一師団は、相変わらず兵站を軽んじ、無理な進軍を続けている」
暗殺部隊の長、レディ・ブランウェンは、ほのかな笑みとともに内容を
「サリスヴァールが《魔召喚》による焦土作戦を行ったせいで、
「
アルトゥーリはうつむいたまま言った。指先でナットをいじっている。
「シャーリア公女には確か、優秀な参謀がついて輔弼しているはずよ。クラウス・ヴァンスリヒトと言ったかしら、神殿騎士の。なのに、この体たらくということは、どこの国も上流階級の扱いには苦労してるんでしょうね」
「ふうん」
アルトゥーリは、木で鼻をくくったような返事しかしない。
「誰か、地図を持ってきて」
レディ・ブランウェンは軽く指を鳴らす。黒衣の娘が、するすると細い糸を伝って、頭上の枝から降りてきた。
巻物にして縛った地図を手渡し、また戻ってゆく。
「順に説明するわ。状況その一。ブリスダルに、第一
「渡り終えるだけでも、一ヶ月ぐらいかかりそうだけど」
「急がないからいいのよ」
ざわめき、静寂、緊迫と過度の余裕。相反する感覚が、風吹き止まぬ漆黒の山林を支配している。
レディ・ブランウェンは腕を組んだ。しなを作った妖艶な流し目をくれる。
「その二。良くない報せ。ティセニア軍、敵第三師団エッシェンバッハがノーラス入り。反対に、敵第五師団ホーラダインがツアゼルホーヘンへ向かったとの報もあるけど、こちらは誤報や虚報が錯綜していて、まだはっきりしてない。そして、相変わらず、敵第二師団アンドレーエの所在は不明。彼だけは、まったく動きが読めないわ。気をつけないと」
アルトゥーリの前に低い台を引き寄せてきて、地図を広げる。
レディ・ブランウェンは身をかがめた。胸の谷間が奥まで覗き見える。青黒く腐敗した火傷の痕が、刺青の花のように白い肌を覆い尽くしていた。
アルトゥーリは、けだるい仕草であくびする。
「で、イェレミアス大将どのは」
「予定通り、先行してノーラス方面へ向かったわ。配置完了の連絡が着けば、《墜ちる月作戦》の開始よ」
「了解」
「伝達は以上」
レディ・ブランウェンはきびすを返した。ゆらゆらと背中越しに手を振る。
「それじゃ、頑張ってね、アルトゥーリ。この作戦の成功如何は、貴方と、貴方の名を冠した
風でふくらんだ幌が、騒がしくばたつく。どこか遠くで、獣が吠えていた。
「ちょっと」
アルトゥーリは、闇に消えかけた後ろ姿へ声をかけた。レディ・ブランウェンは、ふと眼をまたたかせた。驚いたような笑みを浮かべる。
「あらやだ。なあに? 珍しいわね、貴方から話しかけてくれるだなんて。もしかしてお姉様に恋の手ほどきを御所望?」
いそいそと胸を揺らして駆け戻ってくる。
「怖いんだけど」
「殺すわよ?」
アルトゥーリは、腰の工具袋をいじった。下唇を舐める。
「サリスヴァールは本気なのかな」
陰鬱なため息を吐いて、続ける。
「俺は、あんまり、あいつとは戦いたくない。今回のやり方も、全然、あいつらしくないし」
「それでも、敵は敵だわ」
レディ・ブランウェンは、夜風にほつれる髪を耳に掛け直した。胸元を押さえる。
アルトゥーリは、もどかしい苛立ちをあらわにして首を振った。
「分かるよ。分かってるけど。分かんないんだ」
「分かるわけがないわ。怖い男よ、サリスヴァールは」
レディ・ブランウェンは、短い軍衣の前をかき合わせた。薄く笑う。
「優しいのは、誰よりもあざとくて打算的だからよ。誰も、彼の本当の姿を、知らない」
夜嵐が、しなる木々の葉をざわつかせた。月はもう見えない。
▼
翌、早朝。
シャーリア麾下の第一師団は、行軍縦隊を取ってシグリルを目指していた。ヴァンスリヒト率いる騎兵大隊が両翼を守り、中央にシャーリアの歩兵本隊、直後に第一輜重を連ねて、街道を進んでゆく。
物資欠乏のなか、足取りは重かった。
兵も、馬も、長引く行軍に疲れている。
ヴァンスリヒトは、苦渋の思いを心中に押し込めた。
どこかやつれた、沈み込んだ面持ちで馬を打たせる。
シグリル援軍の旨をサリスヴァールに宛てて伝えた後、悪魔が携えてきた通信文の内容は、見るに堪えない罵詈雑言の羅列だった。
いっそ、現物をシャーリアへ見せればよかったのにと思わぬでもなかった。
そうすれば、恋に目のくらんだ指揮官も、少しは眼が覚めたかもしれない。
だが、あるじの悲嘆を見るのも、不条理な誹りを受けるのも本意ではなく、参謀副官にあらざる立場で具申は叶わぬとの無力感もあった。この複雑な感慨が、サリスヴァールとシャーリアのただならぬ関係への疑惑だと――騎士にあるまじき、度を超した疚しい嫉視だなどと――認めることもまた、到底できそうにない。
懊悩ばかりが、無闇な堂々巡りを繰り返している。
今のふがいない自分が、如何に正常な判断力を欠いているか。また、この行軍がどれほど無思慮であり、危険を孕んだものであるかも、分かっていた。
いや、分かっていたからこそ。
シャーリアの下す命令通りに、ただ愚直に従う。
それが軍人の本懐だと思い込むまでに、ヴァンスリヒトは思いつめていた。
シグリルへ近づくにつれ、さらにやり場のない、いたたまれなさが増してくる。また相容れぬさまを見せつけられるのかと思うと、想いのいびつさに、我ながらおぞましさすら覚えた。
何と醜いことか。
ただ、茫然として、馬をすすめる。
目の奥の鈍痛が取れない。腫れ物のような重苦しさが眼球を圧迫している。目を開けて現実を見ることすら
いきおい、周辺への警戒もおろそかになる。
突如。
轟音が、空をどよもした。
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