オーレゾディアーックノコトーバワカラネーイ
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チェシー率いる先遣隊は、シグリル村をはるかに見渡せる、なだらかな小丘に陣取っていた。
ときおり重低音が鳴り響く。地面が鈍く振動した。向かい合う丘の砲台から、盲撃ちで射すくめにくるのだ。
黒い土煙が弾ける。
どうせ当たりはしない。
チェシーは、自軍の旗を掲げる陣地の端に、堂々と立った。不快な風に身を曝す。
金髪がなびいた。
「
尖らせた杭を交差させた馬防柵を、横目に見やる。土嚢ならまだしも、この程度の柵など集中砲火の前では何の役にも立ちはしない。
「ニコル、君ならどう出る」
口の中で、ひとりごちる。
ゾディアック軍に属していたときですら、ノーラス攻めの任に加わることはなかった。《紋章使い》では、魔召喚そのものを封じる《
それでも、仮想敵としてのニコルを想像するのは容易かった。
今なら、過去の
他人の痛みを感受しすぎる司令官など、恐るるに足りない。
「何か仰いましたか」
背後に控えた部下が尋ねてくる。
「望遠鏡を貸してくれ」
チェシーは、手渡された遠眼鏡を目に当てた。
ずらりと並んで掲げられた旗の列が見えた。黒地に赤、縁に銀の一本線。描かれた紋章は、交差する山羊の角の図案だ。
チェシーは、口元をゆるめた。
「やはりアルトゥーリか。工兵を連れてくるべきだったな」
「第十
「砲術と爆薬地雷の専門家だ。正面から当たれば、侮り難い相手だが」
蛇足を口にすることなく、チェシーは、隻眼をすがめる。
「本隊が見えん」
「シグリル村に潜んでいるのでは」
「奴の部隊は荷物が多いからな。こんな小さな村に、全部は入りきらん」
また、地面が揺れた。
「まるで
先程からずっと、定期的な間をおいて、敵の砲弾が降り注いでくる。
牽制であることは分かっていた。
「無駄弾をばらまく余裕がそんなにあるとも思えないが」
空を切る飛来の音が近づいた。
かなり離れた地点に着弾。土が砲撃でえぐられた。飛沫のように茶色く飛び散る。野原に黒く、砲弾跡の傷花が咲いた。
「どうも、敵さんの照準が精確じゃないな。練度が低い」
「これだけの距離があって、そんなに命中するものでしょうか」
部下が、おそるおそる尋ねる。
チェシーは、薄暗い笑みを投げやった。
「命中精度を測ったほうが良さそうだ。ひとつ、誘ってみよう。伝令を頼む。第一騎兵中隊に攻撃準備命令。私が突撃の先頭に立つ。命知らずの馬鹿を三十人ほど見つくろってくれ。正面から突っ込むぞ」
「お伴します」
「いや、君には別の仕事を頼みたい」
手をかるく振って、平野の一点を示す。
「第二騎兵中隊を連れて、左翼側に伏せてくれ。我々を狙う砲煙の位置と数を確かめろ」
「了解」
「相手の兵数が分からんのでは、どうしようもないからな」
チェシーは、人知れず奥歯を噛みしめる。
もし、背後にアルトゥーリが潜んでいたら。
兵数の差どころの話ではない。
もし。
第十
(こいつさえあれば、確実にノーラス城砦を土台から吹っ飛ばせる。だからさ、サリスヴァール、もし誰か、上の偉い奴に知り合いがいたら口利きしてくんないかな)
数年前。
まだ新参の砲兵だったアルトゥーリが、急な抜擢を受けたのは、女帝陛下の御前で行われる観閲式でのことだった。
女帝アリアンロッド直接のお声掛かりで、新型
誰しもが、新型大砲の開発、などという夢物語を馬鹿にした。どこの馬の骨だか分からない技術者の才能を信じるものなど、古い因習に縛られた帝国の宮廷には一人もいなかったのだ。
イェレミアスに至っては、まともに命中させられるものなら、自分の別荘を射撃目標にしても良いとさえ吹聴したほどだ。
結果。
イェレミアスの屋敷がどうなったかは──
「奴の砲撃を食らえば、直下を通る部隊の半数は、確実に吹っ飛ばされる」
チェシーは回想を断ち切った。余計なことを考えている時間はない。
「シグリル一帯を占領して、防御陣地として再構築しておく必要があるな」
「はっ。命令書は何通、発行いたしましょうか」
「何い?」
チェシーは一瞬、眼を驚愕のかたちに大きく見開いた。すぐさま、いつもの不埒な表情を取り戻す。
「面白い冗談だ。俺の幕下に、命令書はいらん。下すのは、単純にして明解な命令のみ。敵を倒せ。全員で戻れ。それだけだ」
「は……」
困惑の顔で、部下は敬礼する。
チェシーは、足下の馬防柵に片足をかけ、遠い空を見やった。また金髪がかき乱され、なびく。
東から吹く風は、火薬の匂いがした。
▼
そのころ。
第二師団アンドレーエは、林道ぎわの茂みで息を殺していた。
全身にまとうのは、枯れ草や苔色に染めた布を垂らした
「ひい、ふう、みい、十万。数えきれねえじゃねえかよ、おい。どうなってんだ」
指折りして数える真似をしつつ、愚痴る。
ここは、ヘルムラッド-ブリスダル間の街道。現在、ゾディアック帝国軍、第一
見渡す限り、地平の果てまで。
黒と赤の軍服をまとったゾディアック軍の隊列が、大地を埋め尽くしていた。
列をなす無数の兵士が、街道からあふれんばかりに行進している。眼前を行き過ぎる軍靴の足音が、ざくざくと土煙をかき立てた。ゾディアックの言葉が飛び交う。聞き取れない。
「いつ終わるんだ、この行列は」
アンドレーエは、頭からかぶった
土を蹴る馬蹄の地響きが、腹ばいになった身体に直接伝わった。ぎくり、と、身をこわばらせる。
哨戒の騎兵が数騎、林道の西側から姿を現した。本隊めがけて、一直線に馳せ参じてゆく。
薮から一歩でも前に這い出れば、馬の荒々しい蹄に引っ掛けられそうだった。
猛然と鼻息が吹きかかる。
武者震いすら押しつぶされるような気がした。
偵察の騎兵は、草をちぎり飛ばして駆け抜けた。どうやら、気づかれずに済んだらしい。アンドレーエは、親指を立てて、背後の
「接近しすぎです、師団長」
見とがめられない位置にまで、何とか下がりつめる。
メガネをかけた枯れ草のかたまりが喋り出した。
「あいつら何かしゃべってただろう。聞こえたか」
傍から見れば、枯れ草同士で会話しているようにしか見えない。
「聞き取れませんでした。師団長は」
「オーレゾディアーックノコトーバワカラネーイ」
「完全に無駄足じゃないですか」
「そうとも言う」
アンドレーエは、
「あれから、一週間はたってる。いくら足の遅い第一師団でも、こんだけ時間がありゃあ、とっくにブリスダル近辺まで退却できててもおかしくねえはずだ」
濡れた口元を、粗野な仕草でぬぐう。
ユーゴはためらいがちに何度もうなずいた。こめかみに汗がにじんでいる。黒い髪の毛が貼りついていた。土に汚れた頰が、苦々しくゆがむ。
「なのに、見えるのは全部、敵さんばかり。味方らしきものは影も形も見当たらねえときた。くそ、どうなってんだ」
「ブリスダルは、如何なる戦役に対しても、中立の立場を標榜しています。どの陣営にも門戸を開くのが、あの街のやり方です」
ユーゴは、眼鏡の位置を、曲げた指の背で押し上げて直した。切迫の声音を押し隠す。
「ゾディアック軍にとっても、ツアゼル方面へ向かう唯一安全な渡河地点には変わりありません。いきなり攻囲戦へ持ち込むようなことはないと思われますが」
アンドレーエは、冷ややかにゆがんだ笑みを浮かべた。
「第一師団が、無事に戻って来ていれば、な」
ユーゴは、眼鏡の奥にひそむ、するどい眼をあげた。アンドレーエを見返す。
「師団長は、第一師団に連絡が届いていない――とお考えですか」
アンドレーエは、剣呑な唸り声をあげた。奥歯を軋らせる。
「あるいは、故意に無視しやがったか」
ユーゴは、愕然と首を横に振った。
「あのクラウス・ヴァンスリヒトが、そのような無為無策を許すはずがありません」
「あの、と来たか」
アンドレーエは、ぼさぼさになった髪を掻き上げた。はしばみ色の眼を、獣じみた獰猛さで光らせる。
「だが、現実に、そのクラウスはまだ、のんべんだらりとしたまま戻って来てねえわけだ。これだけの大軍が背後にあると知らされてなお。ブリスダルはガラ空きだ。ここを
ユーゴは、絶句の息を吸い込んだ。青ざめた視線を走らせる。
「……第一師団との連携が、何者かに妨害されていると」
アンドレーエは、顎の肉をねじりながら考え込んだ。
「分からん。どっちにせよ、今さら、のこのこ戻ってきても遅すぎる。
「クラウスに限って、そんな」
「軍として正常な判断ができない状況に陥っている、と見るしかないな」
アンドレーエは、目の前の地面を睨んだ。頭に上った血が、音を立てて引いていく。考えただけで肝が冷えた。
「あの公女に、まともな退却戦なんかできるのか」
ユーゴは、声を低く殺した。
「させる
「……お前ならどうする、ユーゴ」
第二師団の参謀副官は、暗い憤りが揺らめく視線を急に上げた。
一瞬の無言。アンドレーエは、腕を組んだ。言葉を待つ。
ユーゴは口を開いた。
「撤退できなかった以上、できる限りの時間を稼ぐしかありません。敵第一
「了承した。敵の目を、迷子の子猫ちゃんからそらす
アンドレーエは、思い残しを振り払うかのように頭を振った。
「作戦行動に入る」
「了解」
「で、どうすりゃいいんだ?」
「いつもの三点セットを調達してきますので、師団長は、おとなしく上流地点の確保をお願いします。勝手に暴れないように」
「子ども扱いかよ」
アンドレーエは、ふと表情をゆるめた。
にやりと笑う。
「そう心配するな。ヴァンスリヒトは、お前と同じぐらい優秀で有能な参謀だ。状況に気付きさえすれば、すぐに戦況をひっくり返すさ」
「ですが、小官ほど、恵まれた信頼をいただいているとは限りません」
ユーゴは唇を噛んだ。気後れした様子でつぶやく。
「悪い前触れでなければよいのですが」
「らしくねえぞ、ユーゴ。お前ら参謀副官は、ルーンの騎士が裏切らないよう監視するのが役目だろ。アーテュラスも言ってたぞ。神殿の監視の目があるからこそ、まだ、自由でいられるんだと。ちゃんと見張っとかないと、俺なんか、いつどこで暴走し始めるやら分からんぞ……おっとっと」
アンドレーエは珍しく、足元の倒木に足を引っかけた。よろめく。
朽木が割れた。腐っていたのか。地面に、黄色い木屑が散った。ユーゴが戻ってくる。
「お怪我はありませんか、師団長」
踏み抜いた枝が折れていた。アンドレーエは苦笑いした。手を振る。
「大丈夫だよ。いいから行け」
崩壊の時まで、あとわずか――
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