その名で呼ぶな
偽りのくちづけ。
長く、くるしく、せつないためいきがこぼれる。
ひそやかな欲望が伝う唇。からみつく、白い色。闇が、喘ぎ声を呑み込む。
首にかかった胸壁型の認識票が、かすかな音を立てて揺れた。
「今夜は駄目だ。明日の準備がある」
チェシーは、ふいに女の身体をもぎはなした。喘ぐ白い身体が引き止める。
「だめよ。せっかく逢えたのに」
「ならば二度と来ない」
「チェシー……」
チェシーは、途端にぞっとする光を眼に宿らせた。身体の下のシャーリアを見下す。
「その名で呼ぶな」
「どうして。おかしいじゃない。あの子には」
「俺の立場を悪くする気か。馴れ馴れしい」
チェシーは怒気するどく吐き捨てる。
「……ごめんなさい」
シャーリアは顔をそむけた。寝乱れた洗い髪が、闇にぼんやりと浮かび上がる。
「でも、これだけは絶対に認めて」
「何を」
「わたくしのほうがずっと、アーテュラスなんかよりもずっと貴方の力になれるわ」
シャーリアは、チェシーの首に残る、古い認識票に指を絡めた。爪跡が、赤い三日月のように食い込む。
「この出征だってそう。すべては、貴方のため。貴方の立場を守るため。貴方の命を守るため。貴方に勝利の栄光をもたらすために、わたくしは勝つ。そうでしょ、サリスヴァール。だから、貴方は、わたくしを選んだのでしょ? ティセニアで生き延びるためには、わたくしの助力が要る。あの子の下では決して得られない完膚無きまでの勝利が、絶対に、必要だから」
「ああ、そうだ」
チェシーは陰鬱に含み笑った。シャーリアの身体に手を滑らせてゆく。
「俺にはおまえが必要だ」
夜着の裾が乱れる。白い肌がのぞく。シャーリアは弄ばれた声を詰まらせた。
「だから、もう、あの子のことは忘れて」
「下衆の勘ぐりは止せ。ホーラダインじゃあるまいし」
「でも、その眼はあの子のせいなのでしょ」
チェシーは、酷薄にきらめく一瞥をシャーリアへと突き刺した。
「全部、あの子のせいなんでしょ。貴方が、そんな目にされたのは」
シャーリアは気付かなかった。
「どうせ、また、いつもみたいに偽善者ぶって、綺麗事を言って、貴方を盾にさせたんでしょ。だから言ったじゃない。あんな小さな街なんかさっさと捨てて、逃げ出してしまえば良かったのに。あの子は、偽りの光でしかないのよ。偽りの光は、真実の闇だわ」
声が、ふいごのように途切れる。
どこかで、悪魔が嗤っていた。
「わたくしなら、絶対にしない、わ」
身を
「貴方に、そんな傷を、負わせるようなこと、は、しない……貴方から……光を奪うような真似は」
チェシーは、なまぬるく笑った。
「その話なら何度も聞いた。偽りの闇は真実の光、いつの日か、必ず……真に、そんな日が」
いきなり舌打ちして、顔をそむける。毛布がはだけた。女のみだらな身体が晒される。悲鳴が上がった。
「急に何なの。どこへいくの。待ちなさい」
チェシーは起き上がった。置き放してあった上衣を掴み取る。
「帰る」
愕然とする公女を振り捨て、チェシーは天幕を出ていった。
▼
数日後。
チェシー率いる先遣隊は、シグリル村にて敵守護部隊と接触。戦闘状態に入った。
「敵守護部隊は、歩砲複合大隊一個。シグリル村正面、および左翼高台に陣地を構築し、防御態勢を敷いているとのこと」
伝令が、情勢を知らせた。
「彼は無事なの」
シャーリアが、あおざめた面持ちで問いただす。
伝令は呆気にとられた顔をした。
「どなたの?」
「馬鹿。何のための伝令なの。それじゃ何の役にもたたないじゃない」
シャーリアは机を叩いた。声を甲走らせる。
「ヴァンスリヒト。今すぐにサリスヴァールへ増援を出しなさい」
ヴァンスリヒト大尉は、即座に首を横に振った。
「准将の任務は、単なる威力偵察です。今回のシグリル村攻撃は、シグリルを攻め落とすことではなく、つられて出てくるであろう敵本隊の、位置や戦力を計ることが主目的です。増援は不要です」
「ならば、本隊をはやく進めなさいな。何をぐずぐずしているの」
シャーリアは、刺々しい声を、四方八方へと無駄に突き立てた。運悪く居合わせてしまった幕下の士官が、ばつの悪い様子で顔を伏せる。
「まだ、敵本隊の位置が分かっていません。必ず、この近くのどこかに潜んでいます。サリスヴァール准将が戻ってからでないと、
「要するに、おまえ一人では、何をどうすべきなのかも判断できないということね」
シャーリアは、赤い唇を捻じ曲げた。侮蔑の目線もあからさまに、手を腰に当てて吐き捨てる。
「あきれ果てて、ものも言えなくてよ、ヴァンスリヒト。おまえがそれほどまでに腑抜けた男だったなんて」
「殿下」
「こんなもの、何の役に立つっていうの。恥を知りなさい。ごちゃごちゃと小さい字で、言い訳ばかり書いて。わたくしは、勝利のために前へ進むの!」
シャーリアは、チェシーが完璧と褒めた命令書をひったくった。
真っ二つに引き裂いて、めちゃくちゃにつぶし、丸めて。
紙くずとなった命令書を、ヴァンスリヒト大尉の顔めがけて投げつける。
命令書の残骸が、目の上に当たって跳ねた。
地面に転がる。
男らしい誠実な顔が、侮辱を受けてわずかに紅潮した。
「もう、お下がりなさい、ヴァンスリヒト。今日限り、北方面軍第一師団参謀副官の任を解き、一軍人としてのみ従軍することを命じます」
感情的な全否定が、突風となって天幕内を震撼させる。
動揺のあまり、誰かが
サーベルを取り落とす。
空虚な鉄の音が、ひどく大きく響き渡った。
「臆病者の顔なぞ見たくもないわ」
シャーリアは、輝かしい真鍮色の髪を肩から払った。周囲を睥睨する。
「第一師団は、これより聖ティセニアの正統なる公女であるわたくしが、じきじきに指揮を執ります」
声にならない絶句が伝播してゆく。将校たちは目を伏せ、あるいは互いに顔を見合わせた。
「何よ」
シャーリアは、事の分からぬ子どものように声を高ぶらせた。
「わたくしの言うことが聞けないというの」
手にした乗馬鞭で机を叩くなり、一番近くにいた将校に突きつける。
「おまえ、返答なさい。わたくしに従うの。それとも逃げるの!」
即答できず、将校が口ごもる。
「殿下、お待ちください」
ヴァンスリヒト大尉は狼狽する将校をかばった。鞭との間に割り込む。
「これ以上、わたくしに意見するなと言っているでしょ!」
シャーリアは、鞭を振り下ろした。
高い音がつんざく。
ヴァンスリヒト大尉は、よろめきひとつせずに懲罰の鞭を受けた。頬が切れて、血が流れ出す。
居並んだ将官が、みな、息を呑んだ。
どよめきが伝わる。
ヴァンスリヒト大尉は、あきらめと決意の入り交じった視線を、シャーリアの足下へと落とした。
左腕に巻いた、将軍付の副官であるあかしの腕章をほどく。
「……拝命つかまつります」
机に腕章を置いた。一歩、下がる。
「参謀」
「殿下のご
詰め寄る部下をさえぎって、ヴァンスリヒト大尉は答えた。シャーリアがつけ上がった声で言い被せる。
「分かったら、さっさと出撃しなさい。準備ができ次第、シグリルに向かってちょうだい。あのひとを助けるの。いい?」
「……了解」
無念の敬礼を、シャーリアは背中で無視した。足音も荒く、参謀部の天幕を出て行く。
見送る者の顔は、どれも暗い。病を運ぶ風のような、重苦しい空気がわだかまった。
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