あの方は、誰よりも死の側にいる
ちっちゃなレイディは、よいしょ、よいしょ、と、ニコルの隣の椅子によじのぼった。ちょこんと並んで座る。
「失礼しました、可憐なレイディ」
ニコルは、相手が気を悪くしないよう、丁重に言い直す。
「しかたありませんわね。こんかいだけはとくべつにゆるしてさしあげてもよくってよ」
少女は鷹揚に微笑んだ。白いエナメル靴の足をぶらつかせ、両手はきちんとお膝の上。どうやらよい子でじっとしているの図らしい。
「……寝ていろと言ったはずだが、チュチュ。今、何時だと思っている」
エッシェンバッハが近づいてきた。腰に手を当て、彫像のように立ちはだかる。渋い顔だ。
ちっちゃなレイディは、指を一本、前に突き出した。胸を張って答える。
「とけいのはりがいちですわ。いちじ!」
「寝ろ」
「チュチュはととさまがいっしょのおふとんがいいのです」
「今日からはだめだ」
「だめはむりです。ととさまがよちよちしてくださらないと、チュチュはねんねができません」
「だめだ。何度言えば分かる。邪魔だ」
ちっちゃなレイディの眼に、いきなり涙が浮かんだ。真珠のように盛り上がったかと思うと、いくつもの粒となって、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
「じゃまはむりです」
「待て。泣くな」
「なくなもむりです。チュチュは、ととさまが、うあああん、だいすきなのです、うわああん」
「待て。本気で待て」
「うわああん、ととさまが、チュチュを、うわああん」
「あの、つかぬことをお伺いしますが」
耐えきれなくなって、ニコルは口を挟んだ。
「何か用か、アーテュラス。今はそれどころではない」
珍しく焦った顔のエッシェンバッハが、ぎろりと色眼鏡越しに見下ろす。
ニコルは、ぎごちない作り笑いを向けた。困惑の眼差しで見やる。
「こちらの、可憐でちっちゃなレイディは、その、どなたでしょうか」
少女は、エッシェンバッハの黒コートをくしゃくしゃに握りしめて泣きじゃくっている。
「チュチュは、うわああん、ととさまとねんねしたいのです、うわああん」
「見れば分かるだろう。娘だ」
エッシェンバッハは、苦り切った顔をした。
▼
その、同時刻。
夜半にまで続く軍議に、シャーリアの姿はなかった。
どうせいつものことだ。
逆鱗に触れるとわかっていてなお、湯浴み時間以降に公女を呼び出す蛮勇の者はいない。下らぬ我が儘につきあうを良しとする者もいない。
第一師団に配属された者であれば、誰しもが、たとえ戦の前夜であろうと、公女の通例が
かがり火が燃えている。
土埃に汚れた銃眼模様の部隊旗が、萎れた花のように掲げられていた。
並べて置いた銃や剣が触れあって立てる、金属の音。
革の装具や重砲を積んだ車輪の軋み。不穏な風の音。ひるがえる軍旗。ゆるみかけた幌のばたつき。短気な馬がたてる荒い鼻息。踏みならす馬蹄の音。
周辺を歩き回る哨戒兵の怒鳴り声や、下士官の叱責、隠れひそむ商売女の甘い客引き。
しょせん静寂など、望むべくもない。
本陣に設置された参謀部の天幕には、報告書を持って訪れる士官の姿が引きも切らずにあった。あまり芳しくない報告ばかりが積み上がってゆく。
尤も、一番苦々しいのは、シャーリア本人からの要求だった。
どうやら公女殿下は、自分専用の巨大な天幕には、宮廷さながらの豪華な調度をしつらえるべきと考えているふしがあった。運搬に掛かる手間や予算は、公女の関与するところではないらしい。
よって、軍属と名乗るもおこがましい宮仕えの女官が、今もちやほやと公女を取り巻いている。彼女たちの存在が、なおいっそう行軍を遅滞させ、物資を浪費する要因となるにもかかわらず。
「馬鹿なのか?」
サイン拒否の回議書にくっついて戻ってきたメモ――女官たちの午後のお茶と、お菓子と、砂糖を補充せぬかぎりサインはしない、との付記を。
チェシーは、平然と破って捨てた。天幕の隅のくずかごへと投げいれる。
さすがのヴァンスリヒト大尉も、抗言できなかった。かろうじて口元をゆがめる。
「失礼だぞ、サリスヴァール准将」
「言いたいことの半分も言ってないつもりだが」
他の将校の耳があろうがなかろうが、構い付ける様子もない。
「准将、口を慎めと言っている」
「事実以外の何を語れと言うんだ。甘言か。追従か。どちらも俺の性にはあわん」
チェシーは木の椅子を引っ張ってきて、どかりと腰を下ろした。足を尊大に組み、ブーツの先を揺らす。
「まあいい。上に行けば行くほど馬鹿になるのは、組織のお約束だ。敵状はどうなってる。アンドレーエとは連携しないのか」
「今は難しいな」
ヴァンスリヒトは、用心深く天幕の入り口を見やった。出入りする者は確かに頻繁だが、その中に、アンドレーエの配下らしき伝令の姿は見受けられない。
空の鳥かごが、台の上に置きっ放しにされていた。
「まだ連絡はないようだな」
チェシーの口元に、仄暗い笑みがにじむ。ヴァンスリヒトは首を横に振った。
「第二師団との連絡は、複数の経路を通って私の下へ入ってくる」
「信頼できない情報が混じってるということか」
「いつものことだ」
「大変だな、上があれだと」
チェシーは他人事のように慰めた。机の上にあった、ヴァンスリヒトの命令書を手にとり、ざっと一瞥する。
「驚いたな。この命令書。時間、距離、数、配置、地勢、どれをとっても、完璧にして精緻というほかはない。見事だ、大尉」
「卑しくも軍隊ならば、これが通常と思うが」
「ノーラスで見た命令書は、誤字とインクの染みだらけだったが」
「猊下には猊下のなさりようがある」
「役不足だと、思ったこともないのか。あのホーラダインが元帥にもなれず、未だ参謀副官に甘んじているのと同じように」
ヴァンスリヒトは、かつて敵として剣を交えたこともある男の横顔を見やった。
公女周辺の女官から洩れ伝わってくる不遜の噂。
師団内外へと蔓延してゆく、自堕落という名の病。どれも目に余るものだ。だが、公女に対して、副官の立場から醜聞をとがめることはできない。
ヴァンスリヒトにとって、その感情を自覚することは、自らの深淵をのぞき見るに等しかった。
苦渋とともにつぶやく。
「凡ては神の定めたもうた
「またいつもの思考停止か。俺には分からん。前もそう言ったら信心紊乱だ何だと注意されたよ。口を慎めとね」
「その程度の注意で済んだのなら幸いだったな。忠告通り、今後は口を慎んでもらおう。貴公のことは、くれぐれもよしなにとアーテュラス元帥から頼まれている」
「ノーラスのぬるま湯に浸かりながら言う言葉じゃない」
チェシーはさえぎった。
「……師団長と愉快な仲間たちによる軍隊ごっこは、もううんざりだ」
「心にもないことを」
ヴァンスリヒトは眼をそらした。
空の鳥かごを見て、薄く笑う。
「ノーラスの平和が見せ掛けでしかないことは、ティセニア軍人の誰もが知る事実かと思っていたが。貴公はまだ、真実を見せられてはいなかったのだな」
ヴァンスリヒトは、チェシーの手から命令書を取り返した。
近づいてきた参謀士官に手渡す。
「各部隊に写しを回せ。明朝六時、第一陣出立。目標、シグリル村の南。まずはサリスヴァール准将指揮下の
チェシーは、それを聞いて鼻で笑った。
「了解。我が身を銃火に
ヴァンスリヒトは、書棚がわりのトランクを開けた。
丸めてあった地図の紐をほどき、卓の上に広げる。
「准将なら、シグリルの位置も良くご存知だろう」
四隅に石を置き、ともすればぐるりと戻ろうとするのを平らにならす。
問われたチェシーは、あらためて地図を見直した。
ほとんど白地図の状態に近い地図を、無表情に眺める。
渡河地点であるブリスダルの街。
そこから北上したところに、黒いバツ印がひとつ。地図から消された町、ヘルムラッドだ。
「この辺りだな。ここに、こう、道が繋がる」
鉛筆を取り、不完全な地図を補完する形に描き足す。
「シグリル村は、兵站の集積地だ」
ヴァンスリヒトは同意を得てうなずいた。
「抵抗が予想される。というか、ここまで来て、まだ敵の主力が姿を見せない。周辺の状況を探って来てもらいたい」
「第二師団からの連絡を待てばどうだ。今の逼迫する補給状態で、長期の戦闘を維持できるとは思えない」
「シグリルを確保すれば、少しは兵に休息を与えられるだろう」
「兵の損耗を考えろ。俺なら戦略の練り直しを検討する。それとも、まさか」
「残念ながら、私の裁量権限からは撤退の二文字が消去されてしまった」
ヴァンスリヒトは、無用の愚痴を好まなかった。
地図を丸め、片付けにかかる。
「そうか。ならば致し方ない。説得ついでに、そろそろ行ってやるか」
チェシーは、わざとらしい切り上げの声を上げた。大儀そうに髪をかきあげる。
ヴァンスリヒトは、明かりに背を向け、書類トランクを閉じた。薄暗い影が手元で揺らぐ。
「アーテュラス元帥のお気持ちを、徒やおろそかにするな。あの方は、誰よりも死の側にいる」
用無しとなった鳥かごを、外の柱へと吊るしにゆく。
チェシーは自嘲気味に笑ったあと、恐ろしい無言で表情を覆い隠して立ち上がった。
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