第12話 チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、戦火に消ゆ──いざ、別れの時は来たれり

■第十二話 チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、戦火に消ゆ──いざ、別れの時は来たれり

 ゾディアック帝都、ベルゼアス。


 伝承となるほど遙かな昔から、かの帝国は常闇の黄昏に閉ざされていた。それゆえに光を求め、版図はんとをひたすら南へ広げるべく、南進を国策としたのである。

 帝都ベルゼアスの繁栄は、すなわち周辺の小国を、鯨波の如き鉄の刃にてことごとく切りこまざいた、暴虐の証でもあった。その色は断末魔の流す血、あるいはこの世の罪そのもの。

 壮麗なる闇の大伽藍だいがらんは、黒の真珠石と陰鬱な虹を放つ水晶、血の色の蓄光石ちくこうせきによって、どこまでも高く、するどく、驕傲きょうごうに築かれた。夜ともなれば、燃えあがる戦火のようにあかあかとかがやき、地を照らす氷と炎のしるべとなる。

 降り止むことのない永遠の雪を嫌悪し、地中深くうがたれることによって始まった暗渠あんきょ隧道すいどうは、やがて地表において屋根持つ漆黒の回廊、偏執へんしつの防壁となった。巨大な蜘蛛の巣のように、宮殿を幾重にも取り巻いて護る狂気の迷路と化して。

 地を這う烈火の色。

 尖塔に宿る深紅の光。

 唐突に噴き出す間欠泉の熱湯と蒸気。ゆらめく血水晶。

 凍れる夜の世界のただなかにあって、唯一、帝都ベルゼアスだけが、漆黒の岩盤を伝わる地熱により、雪と氷に埋もれることなく存在することを許されている。

 だが、地熱を帯びた岩に築かれたベルゼアスの城郭こそが、人の目には捕らえきれぬ闇の紫電を放って悪魔の紋章を描き出し、魔性を呼び寄せ、大地を重苦しく鳴動させ続けている、と信ずる者は少なくない。

 いつの頃からかささやかれるようになった、まことしやかな噂。

 この街は、悪魔との契約によって築かれたのだと。

 枯渇する才能に絶望し、悪魔に魂を売った建築家が、狂気に身をまかせて図面を引いたのだと。

 天へ突き刺さる比類なき大小無数の摩天楼はすべて、神へかざした大逆の刃なのだと。

 そんな根も葉もない風聞すら真実と混同されるほど、この世の栄華のすべてを一身に体現し、象徴する極北の玉座。

 その名を、ゾディアックの民は、戦慄を込めてこう呼びならわした。

 かの街は、闇の巣くう街にして、帝のおわす都にあらず。

 悪魔の街。果てなき星々の降りしきる流刑の地。

 魔都、ベルゼアス。



 音もなく雪が降る。

 この国に空はない。あるのは、鉛の雲と視界を埋め尽くす雪だけだ。

 ゾディアック帝国大法官ユハ・ガレイラは、従僕の開ける深紅の大扉を通り抜けた。たくわえた白い顎髭をしごき撫でて、まだ誰も来ていない払暁ふつぎょう枢密院すうみついん議場をおもむろに見渡す。

 暖炉に赤い炎がくねっている。

 なめらかに光る漆黒の石床に敷き詰められているのは、雪豹の敷き皮。一点の混じりけもない銀白の毛がつややかに光って、歩く者の足音を貪欲に吸い取ってゆく。

 議場の中央には黒の長い卓。巨大なシャンデリアが、黄金にゆらぐ光を降り注がせている。

 壁には古い肖像画。

 歴代ゾディアック皇帝の絵だ。ゆるやかに波打つ金の髪。世界で最も巨大にして邪悪な宝石をあしらった冠をいただき、奇妙にきらめく青い瞳で、絵の中からこちら側を睨んでいる。

 一様に刻まれた険しい皺は、鉄の時代の狂気に支配された亡霊が、現代に生きる施政者たちのふがいなさを呪ってでもいるかのようだった。

 隅の花台に、ベルゼアスの地では到底咲くはずもない、純白の薔薇を生けてあるのが目にとまる。

 老いた大法官は、玉座の右手一番目の椅子に腰を下ろした。

 嗅ぎなれた媚薬の香りが漂っている。

「思いのほか早い帰国であったな、レディ」

 大法官は、暗い色の眼を、肩越しに背後へと走らせた。香りの元たる微笑みを突き止める。

「お久しゅうございます、閣下」

「ツアゼルホーヘンは良い街であったか」

「ええ。とても美しい街でしたわ。白くて、まぶしくて。美しい姫君ともお会いできましたし」

 闇に潜んでいたレディ・ブランウェンは、黒いローブをさらさらと鳴らして進み出た。諜報工作を職掌しょくしょうとする、第八天蠍宮てんかつきゅう師団、通称、《死の娘たち》と呼ばれる部隊の統領である。

 膝を曲げて会釈する。

「いずれ、我が妹たちが、有益で物珍しい報せを閣下にお持ちいたしますでしょう」

 女王直属の《首切り役人》は、甘い毒の香りを素肌にまとって末席につく。

「だまれ、アルトゥーリ。貴様のような手ぬるい輩との共同戦線など誰が望むものか」

 場をかき乱す、尊大な声が響き渡った。扉の開閉が間に合わず、従僕が動転してつまづく。

 軍人は、足元の従僕を蹴り飛ばした。強引に踏み込んでくる。

「愚にも付かぬ鉄の怪物をのろのろ引きずること自体、そもそも無様で美しくない」

「あっそ。勝手にすれば。誰と組まされようとそんなの俺の知ったことじゃないし」

 うんざりしきった、まるで覇気の感じられぬ返答が聞こえてくる。

「何だと貴様」

「ごきげんよう、イェレミアス」

 さらに声を荒げようとした軍人は、レディ・ブランウェンの婀娜っぽい呼びかけに気付いて、口を引き結んだ。

 貴族めいたかたちに整えられた長い濃灰の髪。異様に切れ上がった緑の眼。まとうは光沢を帯びた漆黒の軍衣。襟と袖の折り返しはゾディアック帝国軍定色の深紅。月桂樹の金刺繍を一面に縫い取っている。

 特大の勲章をぶら下げた軍人は、じろりとレディ・ブランウェンを睨み付けた。

「生きて戻ったか。おめおめとしくじってなお」

 レディ・ブランウェンはないがしろに笑った。甘い笑みでいなす。

「彼のいない第四師団の居心地はいかがかしら、イェレミアス上級大将閣下?」

「黙れ。奴のことは二度と口に出すな」

 軍人の表情が、みるみる憤怒の色へと変わってゆく。レディ・ブランウェンは、あからさまに興味をなくした顔をして、軍人から目をそらした。

 穏やかな声で、傍らのもう一人に声を掛ける。

「ごきげんよう、アルトゥーリ。ごめんなさいね、忙しかったでしょう」

「別に。それより、このおっさん何なの。ウザいんだけど」

 いちおう軍衣を着てはいるものの、まるで軍人には見えない。ごつい革を当てたぶかぶかの作業着。焦げた耐熱手袋。皮の耳当て。遮光ゴーグルの付いた帽子。首に白いマフラー。まるで、今しがた鉄火場か整備工場から出て来たばかりのような装いの青年だ。

「サリスヴァールの後釜あとがまよ」

 レディ・ブランウェンはあざとい薄笑いで教える。軍人が表情を変えた。

「何だと。正当な昇進を愚弄するか」

「イェレミアス、控えおれ」

 大法官は重苦しくとがめた。取り出した金の懐中時計に目をやる。

「御前会議の時間だ」

 イェレミアスと呼ばれた軍人は、口の端を引きゆがめながらもかろうじて取りつくろった冷笑を取り戻した。他のすべてを軽んじた仕草で、肩をそびやかせる。

 もう一人の軍人アルトゥーリもまた、定められた席に着いた。

 さっそく腰の工具袋から黒く焼いた巨大な六角形のネジを引っ張り出す。油で黒く汚れた布でネジを磨き、息を吹きかけ、規格を合わせるためか、ネジ山の幅を細かく測っている。イェレミアスが舌打ちした。

 時計塔の鐘の音が鳴っている。

 顧問官らが、次々に議場へ入ってきた。黒や緑に光る天鵞絨ビロードのガウンをまとい、金の鎖をきらびやかにつけ、杖、あるいは巨大な書類の束を手にして、長い卓の周囲にしつらえられた椅子に着く。

「陛下が御成おなりあそばします」

 儀仗将校が、朗々とした声を張った。女帝アリアンロッドの到着である。

 全員が立ち上がる。

 国賓謁見室、第二謁見室、第三謁見室、王の間、控えの間、回廊、鏡の間、執務室、儀仗室、会議の間。それぞれ色の違うすべての大扉が、いっせいに開け放たれた。

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