それが、最後

「兄様はいずれ聖位のきざはしを登るべく定められた身。そのやんごとなき聖なる祝福を一身に受けるべきひとが、いやしい魔女の眷属にかかずらってハガラズの血をけがすなど。ああ、考えただけで気が遠くなりそう。そんな、忌まわしい、おぞましい無体を許すぐらいならば、いっそ」

 くすくす、くすくす、笑い続けている。

「来たるべきその日が一、二年早まったとて。お体の弱い御父様のこと、今朝のように、この冬の寒さで長らくご不例にわたらせられるおそれありとしても――不思議ではないと、そうお思いになりませんこと?」

「おまえ」

 我知らず高まった動揺の声が、ユーディットの凄涼たる微笑みに押しつぶされる。

 ユーディットは、総毛立つ柔和な微笑でいざなう。

「いかがなさいましたの。お加減でも悪うございまして?」

 シャーリアは黙り込んだ。目を伏せる。

「わたくしを脅す気……?」

「逆ですわ。わたくしは姫さまのお味方。そのようなこと、露ほどにも思っていませんわ」

 憂慮のためいきをついて、肩をすぼめる。

「ただ、わたくしも兄も、無益な逼塞ひっそくの時を刻む必要性を全く感じていないというだけのこと」

 シャーリアは、感情の薄れた眼でユーディットを見返した。

「……おまえの言うとおりにすれば、本当にサリスヴァールは巻き込まれずにすむの……?」

「降りかかる火の粉は、誰にだって払いのける権利がありますわ」

 ユーディットはそぞろに笑う。

 荒涼たる枯れ野に、魔女の含み笑いが忍び寄る。あるいは低く喉を鳴らす黒猫。その金色の瞳が。

「神を欺く異端の魔女は、眷属にいたるまで全員、死罪。愛する人を守りたいなら、決して、魔女の眷属に関わってはなりません」

「全員、死罪……あのひとも」

 ユーディットのいざないを聞くシャーリアの目は、どこかおぼつかなく、うつろにさまよっていた。

 甘くくゆる薔薇の香りが微醺びくんを誘う。

 荘重そうちょうなオルガンの音。時を告げる鐘が鳴る。

 人々のどよもす歓声が、遠くから聞こえてくる。

「分かったわ。わたくしにできることがあったら言ってちょうだい。何でもお前の言うとおりにするから」

 シャーリアは、熱に浮かされた詩人のように呟き続けている。薔薇色の瞳、その微笑みの奥に隠された血の色に、ついぞ気付くことなく。



 花誕祭の翌日。

 白銀の森を見晴るかす小路で、ニコルは立ち止まった。まばゆさに、何度も目をしばたたかせる。雪に反射した光が、思わぬ方向から目に飛び込むせいだ。

「それではごきげんようだ。もう無茶すんじゃないぞ、アーテュラス」

 アンドレーエが、背後に黒ずくめの神殿騎士を引き連れて挨拶にやってきた。相変わらず、くしゃくしゃの寝ぐせ頭をそのままにして、はしっこい笑みをたたえている。

「お気をつけて、アンドレーエさん。ヴァンスリヒト大尉に連絡をよろしく。またノーラスで会いましょう」

 ニコルは腕を三角巾で吊っていた。自由に動く方の手を振る。

 傍らの神殿騎士に目をやる。白い腕章をつけている。副官の標だ。

 銀縁の眼鏡をかけた理知的な眼差し。生真面目な顔立ち。どう見ても、野放図なアンドレーエと気が合うようには見えない。

 ニコルは、にこやかに小首をかしげた。紹介をうながす。

「こいつは俺の副官だ。頭のクソ固え神殿野郎でね、ユー」

 神殿騎士は、さっそくしゃべり始めたアンドレーエの無駄口をあっさりとさえぎった。うやうやしく胸に手をあて、神殿式の敬礼をする。

「お初にお目にかかります、アーテュラス元帥閣下。本官は第二師団諜報部所属、ユーゴ・ツザキ大尉であります。いつもうちのヨハンがご迷惑をおかけしております」

「何だテメエそれが上官に対する態度か、ああん?」

「上官面したいなら、せめてその見苦しいアホ毛を何とかしてから言ってください。では、これにて。失礼いたします。行きますよ師団長」

「何だとおいコラ待て。まだ別れの挨拶が済んでねえんだよ」

 アンドレーエは、副官のユーゴに引きずられてゆきながら、大きく手を振った。

「さらばだ、アーテュラス、我らの友よ。次に会ったら今度こそ酒だ。友に会えばまずは酒。上官に会えばまずは酒。同期に会えばまずは酒、何はともあれまずは酒だ!」

「言っておきますけど、来年の夏でもまだお酒飲めませんからね、僕は」

 去り行く友の背後を、噴水のように雪を蹴立てる馬そりが駆け抜けた。速度が落ち、窓が開く。赤い色眼鏡姿のエッシェンバッハが、客車から顔を覗かせた。

「先に行くぞ。ノーラスで待っている」

「よろしくお願いします、エッシェンバッハさん。うちの糧食班長は腕利きですよ。贔屓にしてやってくださいね」

 ニコルは小さく敬礼した。返礼が返る。

「それは楽しみだ。では、またな」

「おっさんも元気でなーー」

 遠くからアンドレーエの声がする。だが、声はすれども姿は見えない。つい今しがたまでそこにいたのに。あの眼鏡の副官も含め、まったく見当たらなかった。

「ああ、さらばだ」

 エッシェンバッハは馬車の窓を閉めた。

 いくつもの別れの挨拶が交錯する。馬そりの列は北へ、西へと雪煙を蹴立てて去ってゆく。

 見送りの儀仗兵を率いるザフエルの姿が、遠くに見えている。積もる雪に陽が反射し、きらきらとまぶしい。


「ここにいたのか、ニコル」

 馬上から投げ掛けられた影が、足元に伸びる。誰の声かは、振り返らなくても分かっていた。

 ニコルは目を閉じた。一瞬だけ、顔をくしゃくしゃにする。

 すぐにいつもの表情を取り戻して、からりと振り返る。その先には見慣れた笑顔があった。見慣れているはずの笑顔が。

「チェシーさんも、もう出発ですか。って、まぶしいな」

 丈の長い、純白の乗馬コートがひるがえる。

 雪のせいで光が乱反射しているのか。まともに目を開けていられない。しくしくとやたら目に染みる。痛いほどだった。手でひさしを作って、照り返しの反射をさえぎる。

 そうすれば眼をあわさずにすむ。なぜか、ほっとした。

「君は残るそうだな」

 手のひさしの向こうから、チェシーが言った。

「ええ。せっかくだから、ゆっくりしていけってザフエルさんも言ってくれましたし」

「なるほど。しばしの別れというわけだ」

 チェシーの馬は、ぶるぶると白い鼻息を吐き散らした。前掻きして雪を飛ばす。妙にうろうろとして、落ち着かない。

「聞いた話では、私は、冬が終わるまでノーラスに帰れないらしい」

「フラーブルイ、君ともしばらくのお別れか」

 ニコルは、チェシーの愛馬の引き綱を取った。馬は利口な生き物だ。乗り手の手綱の扱いや、しぐさ、声などから、さまざまな感情の揺れを感じ取る。

 扱いの悪さに、馬がいらだっている。

 ニコルは、筋の浮いた馬の首をかるく叩いてやった。馬は何度か首をゆすったあと、おとなしくなった。

「そんなに長くですか」

 チェシーは肩をすくめた。

「らしいな。なんともはや、面倒なことになった。そんなにも長く君の愉快な顔を見られないとなると、さすがの私も、ちと寂しいな」

「僕も寂しいです」

「だが、そのほうが君らには都合が良いんだろ」

 ニコルは何も言えず、うつむいた。顔も上げられなかった。

 チェシーは、朗らかに笑った。

「冗談だ。気にするな。私が来る前の、最初の状態に戻るだけだと思えばいい。ホーラダインがいるなら大丈夫だ。だが、間違いなく春には戦況が変わる。決してルーンを過信しすぎるな。自分の目と耳だけを信じろ。君は常に正しい」

「はい」

「それと」

 皮肉な、いつもの声。ニコルは思わず顔を上げた。

「階段は転げ落ちるためにあるんじゃない。これからは、必ず一歩ずつ普通に下りるんだ。いいな」

 その表情は逆光にさえぎられ、よく見えない。

 なのに、見えないはずの表情が、なぜかまざまざと見えるように思えた。胸が押しつぶされたように息苦しい。

「チェシーさん」

「怪我をしたならしたと、ちゃんと言え」

 珍しく、また、静かに怒っている。ニコルは首をちぢこめた。動かした肩が、ずきりと痛んだ。

「……ごめんなさい」

 喉の奥に、熱いのか、苦しいのか分からない空気のかたまりがせり上がる。

「どうしてずっと黙ってた。怪我したのは一昨日だというじゃないか」

「すみません。心配かけたくなかったから」

「黙ってるほうがよほど心配されるとか思わないのか、君は」

「うん。分かってます。すみません。でも、ごめんなさい、ほんとに心配させたくなかったから」

「またか。前にも言っただろ」

 チェシーは、苛立たしげに髪をかきあげる。

「どうして君らは、何かあるたびにいつもそう、おどおどと謝ってばかりいるんだ。これで何度目だ。まったく一緒じゃないか。何度、同じ事を言わせれば気が」

 突然、声が途切れる。


「サリスヴァール。どこなの」

 チェシーを探すシャーリアの声が聞こえた。

「時間だ」

 チェシーは、名残のすべてをふりすてるかのように手綱を引き絞った。馬をいななかせ、馬首を返す。

 別れの挨拶を告げもしなかった。シャーリアのいる方向めがけて、一直線に雪を蹴散らし、駆けてゆく。

「こんなところにいたの、あなた。探したのよ。馬そりを先導してくれる約束よ」

 シャーリアのものとはとても思えない、甘ったるい声がしなだれかかる。

 ニコルは、雪をかぶった彫像の裏に隠れた。見てはいけないものを盗み見ているような気がした。腹の底に悪寒が渦巻く。

 チェシーが何やら応じている。ひどくつれない態度だった。突き放したような声の響きが、何を言っているのか分からないのに胸に突き刺さる。

 去ってゆく。

 ニコルは、南へと遠ざかってゆくチェシーの後ろ姿を、声もなく見送った。喉の奥に何かがつっかえている。

 皆、去ってゆく。

 雪を踏む蹄音すら、もう聞こえない。かまびすしいそりの音も遠くなってゆく。

 ただ白く、ひたすらにまぶしく。

 すぐに、何も、見えなくなる。


 それが、最後だった。




【第十一話 終】

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