恋敵《こいがたき》

 シャーリアは、かたくなにこわばった表情をユーディットへと向けた。無言で見すえる。眼の奥に、黄色い熾火がゆらめいた。

「嫌ですわ。そんな怖いお顔をなさらないでくださいましな、姫さま」

 ユーディットは、向けられた視線の熱を扇ぎ返すしぐさをしてみせた。含み笑いして肩を揺らし、遠目にザフエルを見つめる。雪色の肌が、かすかに上気した。

「兄はね、こう申しましたのよ。わたくしに、アーテュラスさまの夜伽よとぎをつとめよ、と。ルーンのたねを、けよ、と」

 ルーン、という言葉そのものに共鳴したのか。薔薇色の瞳が、熟れたようにまたたく。

 シャーリアは顔色を変えた。あわただしい目線を祭壇のザフエルへと向ける。

「当然、断ったのでしょうね?」

 声色に、嫌悪とも忌避ともつかぬ響きがよぎる。

 ユーディットは、直接の問いかけには答えなかった。ただ、目をそらして微笑む。

「そんな無慈悲なことを、平然と申しつけるひとに、男と女の何が分かると仰せですの? 道化を演じるのも、忠誠を誓うのも、すべてはルーンのため。ホーラダイン家の寵栄ちょうえいのため。ハガラズの血統を伝えるという、一族の血命を果たさんがため。兄にとって、人との絆などその程度のこと。手中に帰しては玩ぶだけの、愚かしい茶番でしかないのですわ」

 シャーリアは息をつめた。固唾を呑んで続ける。

「つまり、ユーディット、おまえは」

「男色を好まれる殿方が多くいらっしゃることは、わたくしもよく存じております。でも、清廉にして高潔であるべき聖騎士の身でありながら、道ならぬ男同士の淫蕩いんとうふけり、乱脈らんみゃくを極めるは、まさしく許しがたき大罪のひとつ。それこそが、異端の魔女の血を引く不浄のあかしとなりましょう」

 声を低め、ひそやかに、残酷に言い放つ。

「ですから、わたくし、決めましたの。明日にでも聖ワルデ・カラアへ赴き、ルーンの純潔と信仰を踏みにじった魔女の罪で、あの方を告発いたしますわ。兄の名において、あの方をただちに捕らえ、裁判にかけるように、と」

「だめ。それだけは絶対に許さなくてよ」

 シャーリアは、ユーディットの扇子を払いのけた。

 ユーディットは動じない。

「なぜですの、姫さま。あれは、魔女の血を引く異端の眷属。ルーンの守護騎士でありながら、偽りの光でその血脈を貶めるなど、薔薇の福音に対する許しがたい破戒。いては神への冒涜以外の何ものでもありませんわ」

 シャーリアは言葉に詰まった。目を泳がせる。

「なぜって、そんな、当たり前じゃない。アーテュラスがノーラスでどんな役目を果たしているか、おまえだって知っているはずよ。あのひとも言っていたわ。もしアーテュラスがいなければ、我が国はもう、とっくに滅びていてもおかしくない、って」

「同じ罪に問われることを恐れていらっしゃいますのね。サリスヴァールさままでもが」

 憐憫と嘲弄いりまじる声で、ユーディットはささめき笑った。

「でも、こればかりは致し方ありませんわね。事実は事実としてつまびらかにしなければなりませんもの。善良なる信徒の義務として」

「だめだと言っているでしょ」

 シャーリアは、ユーディットの腕をつかんだ。指先が二の腕の肌にきつく食い入る。戦慄と否定の入り混じる青ざめた目が、釈明の言葉を探し求めて揺れ動いた。

「わたくしは、アーテュラスの罪を隠蔽させようとして言っているんじゃなくてよ。もし、アーテュラスの《エフワズ》が持つ奇襲探知の加護を失えば、ノーラス落城すらあり得るかも知れない。そんなことになれば、ホーラダインだって生きてはいないわ。そうよ。いくら、わたくしが恋の欲に目のくらんだ愚かな女であっても、我が国の敗退につながる利敵行為だけは絶対に許さない」

 敗軍の将めいた気骨の残滓を、歯軋りのうめきに混じらせる。

「そんなことになるぐらいなら、誇り高き聖ティセニア公女として、今、この場で、おまえを売国奴として討ち果たすわ」

「あら、まあ、険呑ですこと」

 ユーディットはローブをひるがえして身を引いた。しらじらしく薔薇色の眼を見開いて、口を濁す。

 聖歌の合唱が消えつつある。

 ユーディットは、ちいさなためいきをついた。余韻だけでは謀議の声を完全に消し去ることはできない。

「人に聞かれますわ。場所を変えましょ」

 目配せを交わし、シャーリアをいざなって、人気ひとけのない礼拝堂へと移動する。

「防衛の手はずを整える猶予さえあればよろしいのでしょ」

「だから、駄目だと言っているでしょう」

「姫さま」

 ユーディットは、シャーリアの手に己の手をかさねた。そっと握りしめ、木の長椅子へと座らせた。隣に腰を下ろす。

「御自分のお気持ちを、よくお確かめになってくださいませ。姫さまは、本当は、サリスヴァールさまに被害が及ぶのを怖れていらっしゃるのでしょ」

「おまえ、わたくしの話を聞いていなかったの。わたくしは、ティセニアのために」

「そうではなくて」

 ユーディットは、シャーリアにひたと寄り添った。肌と肌が、今にも触れあわんばかりの距離にまで身を寄せる。

「本当は、何かと邪魔なアーテュラスさまを、サリスヴァールさまから引き離したいのでしょ」

 さらに声を低くし、ほとんど聞き取れぬ魔性のささやきに変えた吐息を、耳元へと吹き入れる。

 シャーリアはからみつく視線を振り払おうとした。

「違うわ。そうじゃなくて、わたくしは、ただ」

 ユーディットは、空恐ろしい微笑みでシャーリアの眼をとらえた。両方の掌で頬を手挟たばさみ、自分へと向かわせる。蜘蛛の足を思わせる細い指が、折れ曲がって顔を掴んだ。

「姫さま、正直なお気持ちをおっしゃって下さいませ。誰にも心を偽る必要などありませんわ。だって、わたくしも同じ気持ちなのですもの」

 頬を、愛おしく撫でさする。

「おまえが」

「そう、同じ」

 ユーディットの声は、ほとんど消えかけていた。時の黄昏に音もなく呑み込まれてゆく遠い日の栄華のように。

「わたくしと、同じ」

「同じ……」

 シャーリアは、茫然と繰り返す。

「そう。アーテュラスさまは、わたくしたち共通の」

 ユーディットはシャーリアの耳元にくちびるを寄せた。

 他に聞いている者など誰もいないのに、さらにひそやかに、手で隠し立てしながら、ひそひそと、秘密めいた耳打ちをささやく。


恋敵こいがたき


 シャーリアは、背中をぶるりと震わせる。

「そこまでは言ってないわ」

「サリスヴァールさまを失いたくないのでしょ」

「それは、そうだけれど、でも」

 ユーディットは清楚に微笑んだ。

「大丈夫ですわ。決して、乱暴なことをするわけじゃありませんもの。要は、アーテュラスさまお一人で、ノーラスを守っていただくようにすればいいのでしょ」

 シャーリアは疑り深いまなざしで上目を使った。眉間に剣呑な皺が寄る。

「上手くいくはずがないわ」

「存外に臆病でいらっしゃるのね」

 ユーディットは、シャーリアの手を取った。

「わたくしの存じ上げている姫さまは、もっと勇気があって、決断力があって、お美しくて、それでいて誰よりもお強くて。皆の憧れでしたのに」

「わたくしは、そんな強い女ではないわ……」

「みんな、そうですわ。だからこそ、こうやって手をつなぐのです」

 暗い微笑みが射す。シャーリアの首筋に、黒い手袋の指が這った。かすかなため息がもれる。吹きかけた吐息に沿って、鳥肌が浮かんだ。

「どうか、わたくしにお任せくださいませ。急ぐ必要はありませんわ。すこしずつ、前に進んでゆけばよいだけのこと」

「でも、もし――そんな嫉妬みたいなはかりごとを、わたくしがめぐらせている、などということを、もし、あのひとに知られたら」

「姫さま」

 ユーディットは、冷ややかに身体をもぎ放した。

「もし、姫さまが今のままでも構わぬ、誰がどのような運命に翻弄されようが、もはやあきらめるほかに選ぶ道はないとお考えあそばしますのなら、もう、差し出がましいことを言うのはやめにいたします。何も言わず、口をつぐみ、貝になって、無駄に時が過ぐるのを見送るだけにいたしますわ。でも、これだけは御留意くださいませね。人の口に、決して戸は立てられませんわ。いつか、必ず、誰かが本当のことを――聞くも恐ろしい醜聞が、魔女狩りの嵐となってティセニアを襲うでしょう。そうなれば」

 火煙のようにローブを揺らして立ち上がり、一歩、後ろへと下がる。光の加減か、血の色に見える瞳がほの暗く細められた。

「当然、渦中のサリスヴァールさまとて、ご無事では済みませんわね」

「待って、ユーディット。そういう意味で言っているのではないの」

 シャーリアは、離れてゆく手を掴んだ。引き止める。

 ユーディットは、シャーリアの取りすがる声を、にべもなく振り払った。畳みかけて言い放つ。

「ではなぜ、前もって手を打とうと思し召しませんの。いずれ来る災厄の芽を摘み取ることの、何を怖れ、危ぶもうとなさいますの」

「それは、そうだけれど、でも」

「怖がりでいらっしゃいますのね。まるで地図をなくした小さなこどもみたい」

 ユーディットはふと、笑い出した。

「わたくしはね、姫さま」

 うっとりと誇らしげに、胸の前で手を掻き合わせ。

「兄様のためなら、何でもできますのよ」


 ひたすらに無垢な、だが、それゆえに狂い果てた微笑みをたたえて。

 くすくす、くすくす、と。

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