何もかも盗んで、奪って、壊した
喉をくびる力に、なおいっそうの憎しみがこもってゆく。尖った爪の先が、頚動脈を探して食い込んだ。
「わたくしはぜんぜん悪くないのよ。ねえ? だって、取り戻しているだけなんですもの。貴女がわたくしから盗んだものを。悪いのは、わたくしから何もかもを盗んで、奪って、壊した貴女。ねえ? ソロール・レイリカ」
目が眩む。漆黒の海底から泡が立ちのぼるのを見上げるかのような息苦しさ。手を伸ばす。届かない。ごほ、と最後の空気が吐き出される。
この殺意から逃れる方法はひとつしかない。
《
《カード》さえ使えれば、どんな状況でも打破できる。それは分かりきっている。だが、もし不用意に《カード》の闇を開放すれば、この塔のみならず城そのものが不可触の《死》に汚染されてしまう。
「だから」
ぞっとするほど甘ったるい、毒の滴る笑いをほのめかせて、貴婦人はうっとりとささやいた。
「返して。ねえ、早く返してちょうだい。貴女が盗んだハガラズの血を。ルーンの福音を。聖女の誉れを。わたくしの眼を。ほら。返して。返しなさいな。返せと言っているでしょ。聞いてるのレイリカ? なぜ答えないの? 答えられないの? それとも返せないとでも仰有るのかしら」
白く濁った眼の奥で、油のように煮えたぎる黄色い火が燃えていた。喉にからみついていた手が、なぜか憐憫の吐息のように離れてゆく。
呼吸できる。空気が肺への気道を一気に流れくだった。むさぼるように息を吸う。破れたふいごの音が何度も喉を行き来した。
どんよりと曇っていた思考がようやく晴れてゆく。逃げなければ。
頭では理解できても、だが、身体はいたずらに新しい空気を求めるばかりで、まるで動こうとしなかった。
視界の隅に、白い切っ先が光った。
「でしたら、こうするしかありませんわね」
くすくす、くすくすと。
無邪気に笑う女の手が、ニコルの髪をつかんで床に押し付けた。喉元に膝をかけ、肩の傷に全体重を乗せる。
ニコルは悲鳴をあげた。ガラスにやすりをこすりつけたみたいな激痛が、意識を曇らせる。はねのける力もなかった。
黒髪の貴婦人は、持ち手の柄ではなく刃の部分を直接握っていた。もはや正常なナイフの持ち方すら分かっていないのか。指の腹がいく筋も切れて、血が滴っている。
そのしずくが、ぼたぼたと苦く、ニコルの顔に降りかかった。
赤黒い手のひらが、顔を掴んだ。
「薔薇の瞳を、返して」
視界が赤く染まる。銀の殺意が振り下ろされた。
「母上」
ふいに。
雪まじりの疾風とともに、靴音も荒く駆け込んできた影が貴婦人の腕をひねり上げた。
銀のナイフが弾かれて床に飛んだ。甲高い音を立てて跳ねる。
「何をなさっておいでなのです」
「触るでないわ、化け物め。穢らわしい黒眼の分際で」
貴婦人は癇に障る奇声を突き上げ、新たな手を払いのけようとした。
「埒もない!」
もみ合っている隙に、ニコルは身体を跳ね上げた。どうにか貴婦人の手から逃れると、床に倒れ込んだまま身を折って、咳き込んだ。
そのたびに、痛みが肩を突き刺した。動けない。起きあがれもしない。腕に力が全く入らない。
「閣下。なぜ、閣下がここに」
助けにかがみこんで来た声が、隠し切れない驚きで耳を打つ。ザフエルの声だった。
「す、すみません」
むしろザフエルがなぜこの場に現れたのかが、ニコルには分からない。倒れ込んだ状態で揉みあったせいか。白の軍衣も、床も、テーブルまでが生々しい返り血の赤に濡れている。
「お立ちになれますか、閣下」
「もちろん、です……」
肩の傷に気づいたザフエルが、腰に手を回した。助け起こされる。
ニコルは、その手からも逃れようとした。触れる手のすべてが怖かった。助けに来てくれたはずの人の顔さえ、ろくに正視できない。
よろめいて、貴婦人の部屋から逃げ出す。
「閣下」
追ってくる靴音が聞こえた。背後で、戦慄の笑い声が響き渡っている。足がもつれた。敷物につまづいて、前のめりにつんのめる。
花瓶が転げ落ちた。控えの部屋の棚に飾られていた額立ての肖像画が、床に根こそぎばら撒かれる。
そこに描かれていた家族のうち、黒髪の子供の顔だけがなぜか無残に削り取られていた。黒い穴の空いた顔。心臓の位置に差し込まれた無数の針。針。真っ二つに切り裂かれた絵。
「閣下!」
左腕をつかまれ、引き止められる。
激痛が走る。ニコルは身を折った。こらえきれない悲鳴が漏れた。
ザフエルは、手についた血の色に顔をこわばらせた。ニコルはその傍らをすり抜け、まろびつつさらに逃げる。またどこかに手ひどくぶつかる。鉄扉に叩きつけられたような音が散乱した。
「止まりなさい」
ザフエルのするどい命令が、ようやくニコルを正気に戻した。止まろうとして、ふらつく。
膝が力を失う。身体が沈んだ。
昏倒しかけたところを、すくい上げるように抱きすくめられる。
ニコルは、かぶりを振った。
「ごめんなさい、僕のせいで、こんなことに」
「言い訳はよろしい」
険しい声が耳に刺さる。
「話なら外に出てからうかがいます。無茶をなさらず、ここでじっとして。すぐに担架を呼びます」
「大丈夫です、一人で歩けます。これぐらい」
「少しは御自分の状態を冷静に判断なさい。そんな状態で」
否応なしに引き寄せられる。その振動が腕に伝わっただけで、全身を痛みがつらぬいた。
「っ……!」
ニコルは歯を食いしばった。わざと口元をゆがめて笑い、平気なそぶりをしてみせる。
「大丈夫ですってば。こんなのかすり傷です。どうってこと……」
「戯言を」
近づく顔が、初めて見る青白い怒りに染まっていた。
ザフエルはニコルを腕に抱き、疾風のように階段を駆け下りた。どこもぶつけぬようにと細心の注意を払いながら、広間を抜け、嘲笑う聖女像の傍らをかすめて、塔の外へと走り出る。
ザフエルは唐突に立ち止まった。足下の雪に、おびただしい数の朱色が散った。その血を、ブーツが踏みにじる。明らかに動揺し、みだれた白い息が吹きかかった。
「開けろ」
塔の前に馬そりが横付けされていた。ザフエルが声を荒げた。
すかさず御者が飛び降りて、客車の戸を大きく開け放つ。
「大丈夫ですって、ほ、ほ、ホントに。こんな大げさな」
自分を抱いたまま馬そりに乗り込もうと、昇降口の段板に片足をかけたザフエルに、ニコルはかろうじて訴えた。
黒い、感情のそげおちた眼が冷ややかに見下ろす。
「とにかく医者に診せねばなりません」
ザフエルは、そのまま客車へと乗り込んだ。間髪を入れず外から戸が閉められる。ニコルは音に怯えて首をすくませた。身を起こし、ザフエルの腕から離れようとする。
「だから、これぐらい、どうってことないです、ちょっと、血が、うわっすごい血だ……じゃなくてこれは目の錯覚……」
「失礼」
ザフエルは、ニコルの軍衣の襟に手を掛けた。
「傷口の確認のため、袖を切ります。よろしいか」
懐剣の鞘を振り捨て、刃を肩に添わせる。ニコルは息を呑んだ。
「だ、だめですよ、切っちゃダメ。何するんですか」
動く方の手で、胸元を、必死にかき合わせる。
「ほんとうに、だ、大丈夫ですから、あの」
「閣下」
抱かれたときについたのか。赤い血の色が、ザフエルの白い軍衣を罪の色に汚してゆく。
ニコルは、大きく喘いだ。ナイフで刺された左肩から先が、水を吸った棒切れのように重かった。急激な寒気に襲われる。
視界がぐらりと揺らぐ。
「ほんとうに」
間近にいるはずのザフエルの姿が、急に見えなくなる。
「閣下、お気を確かに」
息せき切った声が近づく。血のにおいがした。ニコルは声もない。
「一番近い離れへ向かえ」
「はっ」
返答とともに、いななきがあがった。ごとりと揺れる感覚が続く。ザフエルは懐剣をニコルの胸元へと添えた。
「失礼」
沈着な手が、血染めの軍衣を切り開く。
「今しばらくのご辛抱を、閣下」
すべてがはだけられてゆく。軍服が、胴着が。ブラウスが。切り取られる。
ザフエルの手が、血まみれの鎖骨に触れた。心臓に近い動脈を押さえている。肌に近く、息がかかった。ニコルは、我知らずの痛みに身をよじった。苦痛のうめきをもらす。
「大丈夫です。閣下。さいわい傷は浅うございます。これなら命に別状はございません。止血さえ施せばすぐに」
次第にもうろうとなってゆく意識の底で、ニコルは。
傷をまさぐるザフエルの手を――今まで、必死に秘め隠してきた秘密を暴いてゆく手の感触を。
肩の傷よりも強い痛みとして感じていた。
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