そんなことは誰にも聞けない
窓から日差しが斜めに黄色く差し込んでいる。夕方前、といったところか。思ったより長く気を失っていたらしい。
状況を確かめるため身体を起こそうとして、ニコルは顔をゆがめた。骨が割れたかのような痛みが、肩から腕へと伝う。
動けない。
仕方なしに、心もとなくも窓の外を見やる。
ガラス越しの薄赤い空に、白い雪をかぶる木々の形がぼんやりとした影になって見えた。その向こうに、ひとひら、ふたひら。
風に揉まれた雪が降ってくる。
薄れゆく意識の下、冬枯れの木立に囲まれた小さな城館に連れ込まれたところまでは覚えている。
眼を灼く強い光が見え、湯の沸く音、治療器具のたてる鉄の音や使用人たちの走り回る足音が騒然として、それから押し殺した誰かの声が聞こえ、口元に柔らかい布のようなものを押し当てられて――
それ以降、記憶がない。
手術のために眠り粉を処方されたのか。だとすれば、今のこのねぼけたような、もどかしすぎる鈍重な感覚にも納得が行く。
それにしても、やけに肩がひんやりする。なぜだろう、と、もやもやする頭で考えてから。
そのとき初めてニコルは自分の置かれた状況に気づいた。
ガーゼを当てた細い肩。包帯でぐるぐる巻きの腕。軍衣も、ブラウスも、胴着も身につけていない。
手つかずのまま残されていたのは、胸を隠すため下着の下に常に巻いていた堅い帯だけだった。
「う、うわっ、何、なんでこんな、は、はだ、はだっ、あああああ⁉︎」
「閣下」
声が廊下側から聞こえた。
ニコルは裏返った声を上げた。
「だだだだ誰!」
「おおおおお目覚めのようですな」
「いいいいいえそのまだ全然っ」
「きききき傷のお加減は」
と、そこでさすがに鼻白んだのか、相手はふっと嘆かわしいため息をついた。
「思ったより元気なご様子で安心しました」
「ザフエルさんなの?」
ニコルは見えない眼をしばたたかせた。おそるおそる、声のする方向へと首をねじる。
「さようにございます」
慇懃な返事が聞こえた。静かに歩み寄ってくる。
「あ、あの、ザフエルさん、ちょっちょっちょっと待ってあの僕まだ着替えてない」
ニコルは、自分が今、どのような姿でザフエルの眼に映っているのか想像するだに恐ろしくなって、ベッドの上でじたばたともがいた。
かくなる上は隠れるしかないと、ろくに動かせもしない手で、何とかして毛布を頭にまで引っ張り上げようと無益な試みを繰り返す。
「っつ、痛たた」
当然、無謀な行動にはしっぺ返しがつきものである。背中を丸めて痛みに悶絶していると、ザフエルが枕元に近づいてきた。すっとかがみ込んでくる。
「な、何」
「やはり、もう、ほとんど見えていらっしゃらないのですな」
「そんなことはないです。メガネがあれば何とかなります」
無駄に強く主張する。黒だか白だか、ぼやけてよく見えない誰かの顔が近づいた。
「闇属性の《カード》が、力と引き換えに身体へ悪影響を及ぼすことは最初からご存知だったはず」
声の主がどんな表情で喋っているのか、どこを見ているのか、ニコルにはまったく分からなかった。
「無闇にお使いにならなかったのは
「制御はしています」
ニコルは語気を強めた。視力はメガネでどうにでもなる。だが、失いつつある機能が果たして本当に視力だけなのか、自分でも自信がなかった。そんなことは誰にも聞けない。アンシュベルはまだ子供だ。
髪がはらりと耳元に触れた。頬に触るほど近い。
「失礼」
ザフエルの手が胸元に伸びた。
ニコルは直前まで気配に気づけず、首をちぢこめる。毛布が、肩の上まで引き上げられる感触があった。
「冷えるといけませんので」
羽衣のように軽い掛物が、ふわりと首筋をおおった。暖かい。
「は、はい。あの、その、ありがとうございます」
ニコルはまだどぎまぎとして震えそうになる声を押さえながら、真っ赤な顔で小さく言った。
ザフエルは穏やかにさえぎった。
「いいえ。滅相もございません、閣下」
いつもと変わらぬザフエルの様子に、逆に怖くなる。
「あ、あの」
「何か」
ニコルは怖気付いて、毛布に顔をうずめた。まだ無事に動く方の手で、覆いかぶさった毛布を、ぎゅ、と握り込む。
「ええと、その」
「何のことでしょうか」
ザフエルは、まるで気のない様子である。
そんな素っ気なさにまた何をどう言えばいいのか分からなくなって、たまらずに言葉を飲み込んでしまう。
そんなこと、聞けるはずがない。
「ご心配には及びません」
ザフエルは小脇に挟んでいた書類ばさみに視線を落とした。事務的な口調で、淡々と読み上げる。
「医者によれば、傷はさほど深くなく、命にも別状ないとのことでした。無論、しばらくの間は大事を取って安静にしていただかなければなりませんが。また、閣下の従卒を控えの部屋で待たせておりますので、これも程なく呼び入れます」
「その……他には」
知りたいのは、そんなことではない。ニコルは毛布を無意識に手繰り寄せた。握りしめる。
限りなくのろのろとした一瞬が過ぎ去る。魔女裁判の判決を待ち受ける心地がした。急に、何もかも投げ出したくなる。
「別に。何かご入用のものでも?」
ザフエルはニコルの行動を咎めなかった。何一つとして。
緊張に張りつめていた気持ちが、とりあえずゆるむ。アンシュベルが来てくれるのなら、とにかくその点だけは一安心だ。ためいきをつき、毛布に顔を埋める。
「いいえ。いろいろ、ご迷惑をお掛けして、すみませんでした……祝祭前でお忙しい身でしょうに」
「今はとにかく、安静にしていただくことが第一です」
ザフエルが口を閉ざす。それまで聞こえていた雑多な音が、すべて消えた。
しんとして、ほかに誰もいる様子がない。
「あ、あの」
あまりの静かさに、居心地が悪くなって、少しおろおろする。
そのとき。
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