あんな化け物が生まれることもなかった

「お懐かしいわ。何年ぶりかしらね、シスター。貴女とお逢いするなんて。ほら、遠慮なんてなさらないで。どうぞ椅子へお掛けになって。すぐにお茶を用意させるわね。これ、誰か。誰かある」

 美しい面影を残した黒髪の貴婦人は、手を叩いて侍女を呼ぶ。

 ニコルは喉に熱を持ったような、正視できないいたたまれなさを感じた。

 隣の控え室にも、どこにも、側近くに仕える者はいない。それどころか、前触れもなく貴婦人の部屋を訪れたにもかかわらず、見咎めるものすらいなかったのだ。誰も。


「嬉しいわ。また貴女に逢えるなんて」

 貴婦人は、呼んでも誰も来ないことを気にかけるふうもなかった。おそらくは、ずっとこの塔に庵を結んで──外から鍵をかけられて──出歩くことも叶わなかったはずだ。衰えた足取りで、命綱を渡り歩くようにして近づいて来る。

 テーブルの縁につかまった際、指先が皿の上のりんごに触れた。銀のナイフが、硬い磁器の音を立てる。

 長いローブの裾が、衣擦れの音を引いた。

「いえ、あ、あの、レディ、」

 ニコルは、身を硬くした。怖じて後ずさる。

「どなたかとお間違いになっていらっしゃるのでは。僕は、じゃなくて私は、北方面軍第五師団のアーテュラスと申し……」


「いいえ」

 黒髪の貴婦人は、ふいに微笑を濃くした。黒絹の手袋をはめた左手を優美に差し伸べる。

「間違ってなどいませんわ。信じられない。本当にお変わりないのね、貴女は。もっとよく、お顔を近くで見せてくださらないかしら」

 てのひらが、そろりとニコルの頬を這った。撫でさする。

 血の色にも似た紅のくちびるが、八つ切りにした赤いりんごの形に吊り上がる。執拗な指の感触に、なぜか、肩甲骨あたりがざわっとした。

「わたくしは、こんなにも醜く老いさらばえ、あの方の声すらも聞こえなくなってしまったというのに。貴女の瞳はずっときれいなまま。《薔薇の瞳》のままなのね」

 白く茹だった眼の元の色は、果たして何色だったのか。色を失ったその目は、現実を何一つとして見ようとはしていなかった。


 黒髪の貴婦人は、手袋をはずした。素の指先が直接、メガネのつるに触れる。レンズの位置が変わったせいで、視界がぐらりと揺れた。犬や猫をむやみに可愛がるときの、どこか強引な撫で方。

 ニコルはそれを払いのけることもできず、なすがままに身体を任せた。

「レディ、いったい貴女は誰のことを仰っているのですか」

 心臓が早鐘を打った。全身が、むっと汗ばむ。そのくせ、息をするたびにそれが冷や汗に変わって、肌の上を風が撫でるような、さむざむとした鳥肌に粟立たせる。


 黒髪の貴婦人は、うふふ、と声を立てて笑った。口の端がだらしなく垂れ下がっている。

「そのお顔。そのお声。その瞳の色。ああ、間違いないわ。やっと会えたわね、シスター・レイリカ。待っていたのよ」

 言葉の意味は分かっても、まるで会話にならない。総毛立つ笑いがしたたる。入り口にあった聖女の白亜像とまったく同じ、恍惚の笑み。


「返してちょうだい」

 直後。

 黒髪の貴婦人は、ニコルの目元に容赦なく爪を立てた。力任せに掻きむしる。

「痛……っ! な、何を」

 あまりに思いもよらず、避けそこねる。メガネが飛んだ。悲鳴を上げる間もない。けたたましい笑いが耳を打った。視界がぼやける。

 テーブルの上の皿を払いのけたのか。食器のぶつかり合う甲高い音が走った。

 銀色の光が振り下ろされる。

 直後。するどい痛みが左肩に突き刺さった。目の前が赤く染まる。

「……っ!」

 ニコルは、とっさに貴婦人の胸を突き飛ばして逃がれた。メガネを奪われ、まぶたを引っ掻かれたせいで視界がぼやけ、まともに前すら見えない。

 闇雲に逃げようとして、椅子に蹴つまずいた。つんのめる。

「返して」

 駆け寄ってくる貴婦人の、異様に甲走った声が耳を刺す。


 何もかもが、あり得なく。信じられなかった。

 ニコルは、愕然と振り返った。白銀のきらめきが残像となって弧を描き、空を裂く。逆手にかざした切っ先が溶ける鉄のように落ちてくる。

 かろうじて左に身をかわす。

 振り下ろしたナイフを空振りし、貴婦人はその場でたたらを踏んだ。

 まとめていた髪がうねり、ほどけて、肩の上に黒々と乱れる。

 先ほど見た部屋の光景が、脳裏によみがえった。テーブルの上にあった、剥きかけの真っ赤な林檎と、皿と、果物ナイフ。貴婦人が手にしているのは、あのナイフだ。


「どういうことです……レディ、どうして」

 息が荒くなる。にわかには信じ難かった。こんなことなどあるはずがない――こんな痛みなど、本当にあるはずが。

 ニコルは無意識に肩を押さえつけていた手を、呆然と離した。てのひらを見下ろす。

 とたんに、目のくらむような痛みが左腕全体へと広がった。みるみる指先がしびれて、凍えてゆく。

 白い手袋が、軍服の左肩から下が、深紅に染まっていた。


「返して」

 気がつけば、目の前に黒髪の貴婦人が迫っていた。山猫のようにむしゃぶりつかれる。避けられない。ニコルは足をもつらせた。たがいにもつれあって、仰向けに転倒する。

 刺された肩を強打する。あまりの痛みに、ニコルは一瞬、気を失いかけた。

「わたくしの《薔薇の瞳》を返して。おまえのせいで、わたくしは」

 反撃できないうちに、貴婦人が喉元に手をついて馬乗りになっていた。体重がのしかかってくる。

 女の影が、狂気のきらめきを振り上げた。


 ニコルは動く方の右手で、とっさに貴婦人の肘を掴んだ。逆に引きつけながら腰を浮かせ、相手の身体を跳ね上げる。

 貴婦人の身体が横に投げ出された。ナイフを取り落とす。

 ニコルは息を荒げ、起き上がろうとした。

 無理だった。左肩から下の腕がまったく動かない。上体を起こす姿勢にすら耐えられなかった。

 そのまま、肩を押さえ、喘ぎ、うめく。


「レイリカ、おまえがわたくしからすべてを奪いさえしなければ。あの方の寵愛を、神の福音を、ルーンのお導きを、正嫡たる薔薇の血統を、おまえが奪いさえしなければ」

 貴婦人は歯軋りした。憎悪に満ちた髪を振りみだし、四つん這いで這い寄ってくる。

 狂気に我を忘れた声が覆いかぶさる。

 ニコルの髪の毛を掴み、引きずり、首を絞める。殺意の指が、喉に食い込んだ。


「そうすれば、あんなが生まれることもなかった」


 ぎりぎりと、爪が喉に刺さる。力が込められてゆく。

 息もできなかった。

「《ウィルドの魔女》。《異端の聖女》。おまえこそが、薔薇の園を乱す淫婦だったのだわ。さも穢れを知らぬ乙女のような顔をして、聖女の振りをして。シスター・マイヤをかどわかし、そそのかし、魔女の契りを交わし。そしてわたくしから《薔薇の瞳》を盗んだ!」

 憎悪と狂気に倍加された力は、まるで女のものとは思えなかった。

 頭の中に、破鐘のような激痛が鳴り響いている。

 ニコルは苦悶に身をよじった。喉を掴む。

「誤解、です、レディ……!」

 腕も、肩も、もはや持ち上げることすらできなかった。馬乗りにのしかかる貴婦人の殺意を跳ね退けることもできない。

 貴婦人の、奇妙にゆがんだ笑みが近づいた。

「誤解……? いやだわ。何をおっしゃるのかしら、シスター・レイリカ」

 壊れた笑い声がころころと響き渡る。

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