恋なんて──知らない方がよかった
顔がこわばる。
「チェシーさん」
壁際に押し込まれたまま、押し返すことも振りほどくこともできない。
抑え込まれた体が、膝が、がくがくと震え出した。言い返す他は、声にもならない。
金の髪が覆いかぶさる。チェシーは石油のように昏く燃える隻眼でニコルを見すえた。手が、黒く押しつぶす悪夢の影となって伸びてくる。
動けない。
「そう怖がるなよ」
チェシーはかすかに口元をゆがめた。ふっと肩の力を抜いて笑う。
「こ、こ……怖くなんか……」
声が、途中で途切れる。チェシーの顔半分は、ひどくぼんやりとにじむ光の陰に隠れて、まるで見えない。
チェシーの指先が、鼻先から変な向きにずり落ちていたメガネの縁に触れた。
「これが、友としての最後の忠告だ」
耳元に寄せられた低い声が告げる。かすかに女の香水が臭う革手袋の指先が、ゆがんだメガネを直した。
「俺は、逃げも隠れもしない。疑うならとっとと疑え。いや、疑ってくれたほうがずっと気が楽だ。さしたる理由もなく純朴に信じ込まれ、友だと思い込まれる心の重荷よりは遥かにな。君の目の前にいる男は、そういう男だ。分かったか、ニコル・ディス・アーテュラス」
声が止み、静寂が訪れても、なお。
霹靂のごとき声が、脳裏に響き渡り続けている。
「じょ、冗談もやすみやすみ……」
声が無様にかすれる。
ニコルは詰めていた息をようやく吐き出した。チェシーを見上げる。
青い瞳が、黄色いランプの灯火を映し込んで残酷にきらめいている。
だが暗闇に隠れた一方の瞼には、今も醜悪に盛り上がった赤黒い傷が走っているのだった。わざと無造作にほつれ散らした長い前髪に隠された、二度と光を感じることのなくなった左目が。
ガラスの砕け散るような痛みが胸に突き刺さった。
身じろぎした瞬間、今まで感じたこともない思いが、堰を切ったようにあふれ出す。
さしたる理由もなく──
理由もなく信じていたわけじゃない。ずっと行動を共にしてきた、ずっと一緒に戦ってきた、互いに助け合って死線を乗り越えてきた。何度も。
仲間として。友として。
たとえ敵同士であったとしても、たとえ生まれた国が違ったとしても。
そんなことは関係ない、一度築いた信頼はそう容易く崩れるものではない、きっとチェシーも自分と同じように感じて、共感してくれているに違いないと。
そう思っていたから、だから、信じた。
表の自分が、上官として、戦友としての自分がそう主張する。
でも、違う、と。
もうひとりの自分が、首を横に振る。
そんなことは、たぶん、きっと、本当は何一つ関係ない。
あの目は、チェシーが、ニコルを守るために身代わりとなって失ったものだ。あの目を見るたびに突きつけられる──自分のせいで、生涯癒えることのない傷を負わせてしまったという疚しい負い目さえなければ。
とうに気付いていたに違いないのだ。
ゾディアックのスパイだと疑われても否定せず笑って。
ノーラスの武器庫前で、人知れず火薬の匂いをさせて歩き。
平然と、公女の情人となってでも庇護を受けると公言する。
その理由に。
最初から、敵だったのかもしれない。
誰にも知られぬよう、かつての仲間にさえ真実を気取られぬよう慎重に、だが大胆かつ冷酷な任務を帯びて、自分に近づいてきたのかもしれない。
まやかしの優しい仮面をつけてティセニアに入り込み、ニコラやシャーリアを手練手管で籠絡し、秩序をゆがめ、良識を犯し、真実を内部から食い荒らして滅びをもたらすために現れたのかもしれない、と。
それでも無心に信じていた。今まで何度となく感じてきたかすかな疑念――本当は別の顔を持っているのかもしれないと勘ぐりながらも、一方ではそんな疑惑をかたくなに押しつぶして。
チェシーとの友情を信じようとした。
心の奥底に生まれた切ない迷いを認めたくないばかりに。
敵かもしれない。いつか擾乱を起こし裏切るかもしれない。そんな男に、何もかもをまやかしの微笑みで塗り固めた虚像に、心を――
知りたくなかった。
気付きたくなかった。
でも、もう、遅い。
たとえ何があっても決して口にすることを許されない想いを。
チェシーを失いたくない。道を違えたくない。そう願うことすら国を滅ぼしかねないあやまちだと分かっているこの想いを。
もし、誰かに知られたら。
自分こそがチェシーの言うニコラだと、恩義あるアーテュラス家に守られてきた存在だと暴露されることを何よりも怖れている、と知られたら。
何もかもが壊れてしまう。
優しくて意地悪な今までのチェシーも。呑気なお調子者でいられた自分も。ザフエルが誓ってくれた忠誠も。楽しかった思い出も、辛かった記憶も、第五師団の仲間もノーラスもつかの間の平和も、何もかもが。
すべて、泡沫のように消え失せてしまう。
それだけはできない。絶対に、許されない。
目の前にいるのは、ゾディアックの悪魔だ。
ティセニアの敵として、何千何万もの兵を容赦なく嬲り殺してきた悪魔の紋章の使い手だ。
その敵が。掌を返すように味方になるなどあり得ない。
分かっていた。そんな当たり前のこと、最初から何もかも分かっていたはずだったのに。
それでも愚直に信じたかった。愚かな仮面を被り続けていたかった。いつまでもこの平穏が続くと信じ続けていたかった。でも、もう、遅い。気づいてしまった。愚かにも、今の今になってはもう取り返しのつかない、その気持ちに。
こんな気持ちなら、知らないほうがよかった。
こんな苦しい思いをすると分かっていたなら、気付かないほうがよかった。
恋なんて――知らない方がよかった。
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