ゆるされるはずもないのに
チェシーの口許がわずかにゆるんだ。聞き分けのない子供をないがしろに見る目をして、わざとらしく大仰なためいきをつく。
「女じゃあるまいし、いちいち泣くんじゃない。まるで私が泣かしたみたいじゃないか」
「泣いてなんか……!」
「泣くな。男だろう、君は」
チェシーは、指の背でニコルの頬を伝う涙をぬぐった。濡れた跡の乾ききるまでが冷たかった。
「これが可愛い女の涙ならともかく、相手が男の君とあってはね。残念ながら猊下と違って、私にそちらの趣味はない」
「だったら、子供扱いしないでください」
チェシーの手を突き退ける。
「君は子供だ。大人の男にまったくなりきれてない。その証拠に……まあいい。あれは、いつのことだったかな」
チェシーはあざとい笑みに悲愴な嘲りを入り交じらせてつぶやいた。憎んでいるのか、笑っているのか、馬鹿にしているのか、哀れんでいるのか、そもそもそれが誰に対する表情なのかさえ、まったく見通せなかった。全てかもしれなかった。
「査問会の帰り、君とノーラスへ帰還する途中のことだったか。レイディに再会を断られ、情けなくも自棄酒をあおって、自分でも何をどう言い訳したのか覚えていないが、それでも君が――やたら妙に力づけてくれるようなことを言ってくれたのを覚えている。そのとき、何となく思ったんだ。君たちの信頼に応えたい。応えられる日が……その時はまだ無理でも、いつかそんな日が来ればいい、とね」
遠いまなざしだった。
「本気だった。たった一夜、それもほんの行きずりにも等しい出逢いだったにも関わらず、彼女のことをまるでずっと前から知っていた知己のようにも感じていた。君との友情にも似て、付かず離れず、ずっと傍にいられるかのように勘違いしていた。もし私の助けが必要なら、すべてを擲ってでも参じようと思った。馬鹿げた白昼夢を見せられたものだ。……ゆるされるはずもないのに」
チェシーはふと姿勢を正し、ポケットをまさぐった。
アーテュラス家の紋章が入った白い封書を、何気ない仕草で取り出す。
「君が書いたんだろ、この手紙」
ぱちりと高い音を弾かせて目の前に突きつける。
ニコルは肩を震わせた。目の前に突きつけられたものを食い入るように見つめる。その白さが毒の刃のように見えた。
ニコラの署名が入った手紙。
チェシーはニコルの表情を確かめたあと、ニヤリと笑った。
「やはりな」
手紙を手の中でぐしゃりと握りつぶし、何の心残りもなく投げ捨てる。
「どこから見ても下手くそな君の字だ。こんなことをしてバレないとでも思ったのか」
宙を舞う間もない。花首から切り落とされた薔薇のように、手紙はぼとりと床へ落ち、乾いた音を立てて転がる。
「きちんと処分しておけよ。誰にも見られないうちに。もちろん私からの手紙もだ」
ニコルは無意識にポケットへと手を走らせた。上から触れようとして、気づいた。ない。声に出せないまま、息を詰める。
肌身離さず持ち歩いていたはずの手紙がない。
一瞬、混乱した。なぜ手紙がそのポケットに入っていないのか。理由が思い当たらない。忘れた? どこに? それとも、どこかに――
「て、手紙……」
一度にいろんな思いが漏れ出てきて、ニコルは目を泳がせた。せっかく汲んだ水の袋になぜか穴が空いていて、そこから水芸みたいに中身が吹き出しているような心地がした。あっちを押さえればこっちから漏れ、こっちを塞げば向こうから吹き出す。押さえた手の下からもちょろちょろとぶざまにこぼれて、止まらない。
「そ、それは、僕のじゃない」
チェシーの視線を払いのけるかのようにようやくそれだけを言う。
「案外、君も往生際が悪いな」
チェシーは顔をゆがめて笑っている。
「どうせあの手紙も君の手に渡っているんだろう。毛糸のぱんつなどという、改めてまともに調べるのもはばかられるような奇天烈な代物を高貴な女性が平然と送ってくる時点で真意に気付くべきだった。レディ・アーテュラスもお人が悪い――いや」
チェシーはふとニコルの表情を見やり、一歩下がった。ざっくりと髪をかき上げる。
「誤解するなよ。君たちを脅しているわけじゃない」
躊躇しつつも、言葉を選ぶかのように、短く言う。
「むしろあれが君の手によるものと知って、かえって安心していたんだ」
どういう意味か分からない。ニコルは言われたことをおうむのようにそのまま聞き返す。
「安心……? 何が」
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