僕は、貴方を信じたいんだ
チェシーとシャーリア。
敵国からの亡命者と公女では、どう考えても身分が違いすぎる。違いすぎるからこそ野心家のチェシーには最もふさわしい相手のように思えた。
異端である自分よりも、ずっと。
敵国からの亡命者であり、且つ悪魔を使う異教の《紋章使い》を、政治的に庇護しようなどと思う者はいない。
だが、シャーリアの心を捕らえることさえできれば。シャーリアがあえて愚かな女の仮面をつけて歩くならば。名実共に、有力な後ろ盾になることができるだろう。公女という、いわば政教において中立的な立場を利用すれば、聖ローゼンクロイツからも国内の反対派からもチェシーを守れる。無能な公女の無能な情人として、公然と後ろ指を指されつつ宮廷に飼われるを良しとするならば、だ。
明瞭かつ冷徹な選択。
そう思うよりほかはなかった。違うというなら他にどう思えばいいというのだろう。この、ぐらぐらと揺れてばかりの、みじめにちぢこまる思いを、どう押しとどめれば。
「……怖いんだ」
ニコルは、ようやくそれだけを口にした。
「今度こそ誰かに足元をすくわれやしないかと思って」
「今さらそんな下手を撃つわけがないさ」
チェシーはソファにもたれたまま、おざなりに手を振った。嘲弄の響きがよぎる。
ニコルは目を伏せた。言葉の一つ一つが、ちいさな棘となって鼓膜を刺す。
何も考えず、単なる言葉の綾として聞き逃したことにすればいい。そうすることもできた。だが、できなかった。
下手を撃つ――
いったい、誰に、何に対して?
声が喉に詰まって、言葉にならない。聞いてしまったが最後、今まで築き上げてきた人間像そのものが揺らいでしまいそうだった。
じりじりと音を立てて、ランプの炎が燃え揺らいでいる。焦げた匂いがした。灯油が切れかけているのかもしれなかった。
暖炉の薪が崩れ、生まれては一瞬で消える火の粉を儚く赤く散らした。火勢が弱まり、わずかに室内が暗くなる。木灰が白く舞った。
壁際に立てかけられた師団旗と聖ローゼンクロイツの両旗が、部屋の隅に水墨を垂らしたような陰をにじませる。花壺に生けられた冬色のバラが、花びらを一枚、音もなく落として。
チェシーの背負った光と影もまた、あからさまに揺れている。金髪が炎の色を吸い込んで、錆びたような赤みを帯びて見えた。表情が薄暗くなってゆく。
苦い煙がくすぶる。
長い沈黙に、どうやら気付かれたと思ったらしい。チェシーは、ゆらりと笑った。顔に深い陰影が落ちる。
「疑うなら素直に疑った方がいいんじゃないか」
「いやだ」
ニコルはかぶりを振った。
「疑いたくない」
「これ以上、私の何を信じるというんだ」
「分かりません。分からないけど、でも」
声がぶざまにうわずる。
「君は君自身を信じるべきだ」
「いやです」
ニコルはいっそう強く首を振った。
「僕は、貴方を信じたいんだ」
チェシーは物憂げに視線をめぐらせた。日報の散らかった執務机を見やり、その横の塵箱を眺めやる。小馬鹿にした笑みが浮かんだ。
そうしてから、拍子抜けした様子で肩を落とし、息を吐いた。だらしなくふん反り返って膝を組んでいたのをやめ、テーブルから身を乗り出すようにして、両手をつく。
「さてと」
唐突に話を切り上げるそぶりを見せた。立ち上がる。
「その判断が賢明かどうかはさておき、そろそろ失礼するとしようか。もう夜も遅い」
つられてニコルは椅子を蹴った。
「待って。話はまだ終わってない」
チェシーは白々しく頭を掻いた。うんざりしたためいきを洩らし、じろりと横目にニコルを見やる。
「やれやれ、どっちなんだ? 早く帰れと言ったり、まだ話は終わってないと言ったり」
話を聞こうともせず立ち去ろうとするチェシーの背中に向かって、ニコルは詰め寄った。
「はっきり言ってくれないからです。貴方はいつもそうだ。そうやって結局はぐらかしてばかりで」
チェシーは止まろうともしなかった。ニコルの声を無視して、ドアへと向かって歩き出す。
ニコルは、その後を追いかけた。
「何を言いに来たのかも分からない。何でそんなこと、わざわざ僕に言いにくるのかも分からない。言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれればいいじゃないですか。今までと同じでいいって。これからもずっと仲間だって。信じていればいいって。そうしたら、僕だって、もう……貴方が敵か味方かを疑わずにすむんだ!」
立ち去ろうとするチェシーの背中に向かって、わざと、
それでもチェシーはニコルの手をすり抜けて行く。止まらない。
「そいつは難しいな」
「どうして!」
「私が、君の思った通りの男だからだよ。もういいだろ? この話にもそろそろ飽きた。私はもう寝る。寝ると言っても女と寝るわけじゃないぞ……」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
ニコルは、扉を開けようとするチェシーの行く手に割り込んで、強引に阻んだ。取っ手をつかむ手を上から押さえ、立ちはだかる。
「逃げないでください」
チェシーは、ようやく立ち止まった。深い息をつき、首を振り。赤いゆらめきをひそませた目で傲然とニコルを見下ろす。
「どうして逃げる必要がある」
ふいに、ニコルの両肩を壁へと粗暴に押さえつける。背中からぶつかった衝撃が全身を走り抜けた。鈍い音が響く。
花壺が硬い音を立てて傾いた。ぐらりと揺れる。はねのけられたバラの花びらが、手折られたかのように散った。
「この俺が、貴様ごとき」
雪のように。
白く。
花びらが舞う。
その狭間から見上げたチェシーの顔には、もう、慣れ親しんだ皮肉の笑みなどどこにもなかった。今まで保っていた余裕の仮面を剥ぎ取り、ぎらつく黄色い光を、凍てつく殺気を、隻眼に宿らせて。
今まで一度も見せたことのない酷薄な本性のおもてを、あらわにしてゆく。
ゾディアックの悪魔──
出し抜けに、そんな二つ名が脳裏をかすめた。
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