もし、その名を人前で口にしたら

「そう来ると思ってたよ」


 チェシーは獰猛な、しかし翳りをかすかに含んだ笑みを口の端に寄せて答えた。

 ニコルはため息をついた。

 白く、ぴかりと平坦に光るメガネの奥に表情を隠して、チェシーを斜眼に見すえる。


「もし、その名を人前で口にしたら」

「ほう、君もそういういっぱしの表情ができるようになったんだな」

 チェシーは冷ややかに嘲った。

「頼もしいことだ。で、どうする。正直に言ってくれて構わない」


 気をそがれ、口をつぐむ。

 いかづちを吐くかのようだった激情が、急激に冷めてゆく。


 ニコルはゆっくり息を吐いた。椅子に身を沈め、机に肘をついて祈りの形に手を結び合わせる。

 机の上の一点を凝視し、つぶやく。

「貴方を殺す」

「敵国の間諜としてか」

「アーテュラス一門の敵としてだ」

「それも悪くはないな。今後は君からの差し入れにも気をつけるとしよう」

 チェシーは、ほろ苦い憫笑を放った。相変わらず腕をソファの背に回し、くつろいだ姿勢を崩さない。

「アーテュラスの門閥から受ける強大な庇護を無くせばもう、この国に於いて私を支持する者など皆無も同然だからな」


 ニコルは偽りの笑みを張り巡らせた。チェシーの論法は分かっている。自嘲の後に来るのは懐柔と説伏だ。そうと分かっている以上、回りくどい話し方はしたくなかった。

「僕だって、貴方を見捨てたくはない」

 チェシーは肩をすくめた。

「如何にも有難いお申し出、感じ入るね。ならば話は早い。シャーリアのことは黙過してもらおう」

「それとこれとは話が違います」

「さして変わらんさ。私は私で、君からあの女の軍閥へ鞍替えせずに済み、君は君で私を――そうだな、《悪魔の紋章》と言い換えてもいい、国内にも対外的にも脅しの利く軍事的な切り札を一枚、自己の完全な監理下に有し続けられる。よって、この点に於いて、双方ともに利害が一致していると考えるべきじゃないかな」


 ニコルは静かにチェシーを見やった。

「僕にどうしろと」

 チェシーは目を合わさなかった。

「お互い何もかも失いたくはないだろ、ということさ」

「要するに一蓮托生と仰有りたいわけですね」

 ニコルは微笑んだ。

「強迫と見なしますよ?」


「やれやれ、言質を取られたかな」

 チェシーがまた笑う。


 ニコルは、身をかがめ、手を伸ばして、床に落ちたチョコレートのカップを拾い上げた。茶色い滲みがじゅうたんを汚している。受け皿へと戻す。スプーンの震える音がした。

「そんな卑怯な真似はしません」

「まあ、どうとでも解釈してくれて構わないがね」

「白々しいことを」

 ためいきに苛立ちをよぎらせて遮る。

「そんな言い方、チェシーさんらしくないです」

「必死に見えるか」

「見えないから言ってるんです」


「そうだな。そうかもしれない。いや、本当のこと言わせてもらうと」

 足を組み直し、だらしなくソファにもたれて、チェシーは天井を仰いだ。

「むしろどうでもいい、というのが正解かもしれないな」

「だからって」

 言いかけた声を呑み込む。

 チェシーはふいに視線を戻し、するどくきらめく隻眼でニコルを見た。

 気圧されるのを耐えて言い返す。

「……こんな、当てつけがましい真似を」


「当てつけじゃない」

 チェシーは空虚な笑い声を響かせた。

「遊びだと言ったろ。悪いようにはしないさ。女を落とすのは騎士のたしなみ、据え膳食わぬは男の恥だ。今さらとぼける気もない。君が見たとおりの男だよ、私は。それに」


 髪をかき上げ、ためいきをつく。


「もし、まかり間違ってあの女が本気になったところで困りはしない。万が一、足下に火が点けば……そうだな、私ごとを消してくれればいい。表だった関係など誰も望んではいないし、なる必要もない。私にそういう野心がないことは、たぶん君がいちばんよく知っているだろう。強いて言えば、ほんの少しあの女の自尊心を満足させてやるだけの――はっきり言えば体だけの、ちょっとした欲求不満の捌け口。お互い納得ずくの火遊びだ」

「……最低です」

「ああ、最低で結構。私がどこの誰と楽しもうと、には全く関係のないことだからな」



 怒っているのだ、と思った。

 逢いたい。逢って、貴女の力になりたい。そう手紙に書いてきてくれたのに。

 ニコルは両手で顔を覆った。机に伏す。


 自分が、あんな返事を書いて突っ返したから。



 喉の奥から震えが上がった。もう二度と逢う気はない。そう書いたときから、こうなることは分かっていたはずなのに。

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