冷静になんかなれるはずない
ザフエルは眼を酷薄に細めた。
「聖女は奪回したか」
伝令は一瞬萎縮した様子で口ごもった。
「いえ、それが……連行しようとしたところ、賊に鉄橋に逃げ込まれ立てこもられて、近づけば飛び降りて死ぬと」
「……愚か者め」
さしものザフエルも吐き捨てる。
「アンドレーエが賊を取り逃がしただと?」
エッシェンバッハが、けわしい視線を山の中腹へと向けた。
「そんなはずがあるものか。奴らしくもない」
夜空を白く染めて群舞するぼた雪を睨みつける。オレンジ色の眼鏡が偏光して虹色に光った。
「何かあってからでは遅い」
ザフエルが伝令に命じた。
「万が一に備え、狙撃部隊を現場へ向かわせろ」
突風が吹き荒れはじめる。ニコルは声を呑み込んだ。腕に嵌めたルーンを見下ろす。
《先制のエフワズ》も《封殺のナウシズ》も、こんな事態だというのに、何の反応も示してはいない。それぞれがほのかにあわく、他人事のようにゆらめくばかりだ。
だが、もし、状況が想像したとおりだとすれば、賊の正体は。
「話は後です。僕も行きます」
その可能性に思い当たるや、矢も楯もたまらなくなって、ニコルは走り出した。雪を蹴って、闇へと飛び出す。
「ニコル、待て。先走るな。不用意に雪道を走ったら、あっという間に頭まで埋もれるぞ」
チェシーが怒鳴った。
「誰か犬ぞりを持ってこい。おい、ニコル。待てというのに」
ニコルは闇と雪の中をまろび走った。ともすれば深い雪に足を取られそうになる。
突風に揉まれ、流れ去る雪闇の奥に。
いくつもの松明やランプの火が揺れ動いているのが見えた。
ぶつかりあう装備の音。風の唸り。切羽詰まったあげく悪しざまに罵り交わす声までが伝わってくる。野太い犬の鳴き声。ライフル銃を持ち出す兵の姿。
頰を打つみぞれの塊が、かみそりのように痛い。
背後からけたたましい犬の吠え声が追ってくる。
「乗れ」
犬ぞりはニコルを追い抜きざまに猛烈な雪しぶきをかき立てた。
急激に速度を落とし、斜行しながら近づいてくる。
犬ぞりを操っていたのは、熊毛の襟巻きで顔のほとんどを覆ったチェシーだった。横軸一本に全体重をかけ、弓なりになった手すりから片手を離して、いっぱいに手を差し伸べる。
「ホーラダインも後から来る。とにかく乗れ」
ニコルは、チェシーの手を掴んだ。すぐに空中へと引きずり上げられる。
そのまま、舟のように斜めに迫り上がる三角形の前かごへと頭から放り込まれた。
「うわっ」
「先走るなと言っただろう。もっと冷静に行動しろ」
ニコルは奥歯を噛みしめた。こぶしを握りしめ、顔を背ける。
「冷静になんかなれるはずないでしょう」
「神殿騎士どもに笑われてもか」
「笑いたければ笑えって言っといて下さい」
ニコルは、凍えそうな突風に心の帳を激しくあおられながら、雪に濡れた頬をぬぐった。
「どうせチェシーさんも同じこと思ってるんでしょう」
「分かってるならこんな無茶はやめろ」
チェシーは、吹雪逆巻く前方の闇を睨み付けた。
「もっと軍人らしく振る舞え。君も一国の元帥ならわかってるだろう。自分がどうあるべきなのかを」
言い返せなかった。手すりを掴んで、歯をくいしばる。
道端に立つ兵のかざす明かりを頼りに、驚くほど統率のとれた走りで犬ぞりは進み続けた。
石造りの円柱が立ち並ぶ道の果てに城門があった。夜を焦がすかがり火があかあかと燃えている。開け放たれた門の下をくぐり、吹雪にのた打ち回る林を疾駆して、山腹に黒い口を開けたトンネルへと突っ込む。
犬ぞりの前かごが、石を噛んで大きく、高く跳ねた。
「わあっ!!」
ガリッと硬い音が床を突き上げる。
トンネルを抜け、断崖絶壁の道を下ってゆく。山腹に貼り付く黒い鉄橋を前に、チェシーはようやく犬ぞりを止めた。そりと犬たちを近くの兵へと預け、圧するほど深く積もった雪を踏みしめて、前方の橋を睨む。
「暗くて見えないな。見えるか」
「いいえ」
ニコルは氷のこびりついたメガネを手袋の指先でぬぐった。頑なにくちびるを噛みしめ、風鳴りのつんざく峡谷の気配に耳をすます。
強風に背中を押されるように、一歩前へと進む。ブーツの先が、くるぶしまであっさりと雪にのめり込んだ。
と、今の今まで地面だとばかり思っていた場所の雪が、音もなくスポンジのように割れて、そのまま漆黒の底へ落ちていくのが見えた。
血の気が引いた。首筋が硬くこわばる。
やみくもに数ばかりを投入して賊を狩ることはできない。もし足を滑らせて谷底に転落でもしたら、死体すら見つけられないだろう。
甲高く吹きすさぶ風の音に混じって、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
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