神の名の下に女を一人、見殺しにするのかと問うている

 眼を押し開く。

 橋の向こう側に、百を超えるであろう炎の群れが凝り集まっていた。夜光虫のように揺れ動いている。

 山狩りに出ていた神殿騎士の一団だろうか。炎の色に染まる穂先が、無数の針のように見えた。


「待て、アーテュラス」

 押し殺された声が、耳に届いた。


 ニコルはびくりと背筋をこわばらせた。周囲の誰も反応していないところを見ると、他の者にその声は全く聞こえていないらしい。

 ニコルは用心して唇だけを動かした。

「誰?」

「分かんねえかなあ。オレオレ、俺だよ」

 ふざけた口調にすぐピンとくる。

「あ、アンドレーエさんか」

「ご明察」

 ささやき声に飄々とした笑いが混じった。

「おっと、その角度のまま動くな。風を指向性に変えて、声だけをお前にむけて飛ばしてる」

「器用な真似を。それよりもどこにいるんです。状況が見えてるんですか?」

「揉みくちゃだよ」

 アンドレーエの声に苦々しいものが混じった。舌打ちの音とともに聞こえてくる。

「橋を渡った……貴公らの反対側にいる。神殿騎士どもに邪魔されて、こっちからは近づけない。実は、犯人の女の背後から忍び寄って赤子を奪おうと思ったんだが、感づかれてギャン泣きされちまってさ……っていうか、何で気配を消した俺に気づいて泣いて、誘拐したあの女には泣かないんだ……心外極まりない……」



「来ないで」

 かすれきった、女の悲鳴が聞こえた。両腕に、銀の布で包まれた小さなものを抱え、胸に押しつけるようにして抱きしめている。

 頭にかぶっていた土色のスカーフが、突風にあおられて吹き飛んだ。女は足をふらつかせた。

「お願いです。どうか、わたしの娘をどこにも連れて行かないで」


 その顔を見て、ニコルは愕然となった。やはり、思った通りだった。怖れていたことが現実となって――


「おとなしく《聖女》を渡せ」

 対岸から橋を渡って来た神殿騎士が、威圧の怒声をあげた。

 数十人がいっせいに橋へと踏み込もうとする。傍目からも見てわかるほどに橋が上下にたわんだ。不気味に軋り、揺れる。



 女は悲鳴をあげ、その場に座り込んだ。腕に抱いた赤子をなおいっそう抱きしめながら、ぼろぼろの髪を振り乱す。

「来ないで。この子は、レイリアは、わたしの子です。聖女さまなんかじゃない。下男下女の家に生まれた、貧乏人の子です、うすぎたないぼろぎれで昨日まで包まれてたやせっぽちの子です、なのに、どうしてこの子を連れて行くの。わたしの、たったひとりの、天からの授かりものを」


「……母親だと」

 チェシーが呻く。

「馬鹿な」


「ええい、女はどうなっても構わん」

 渡るに渡りかねた神殿騎士の声が、残酷に響き渡った。

「聖女にだけは、絶対に、傷一つ、つけさせるな!」



「なんてことを」

 ニコルは大きく喘いだ。身体の奥底から突沸してくる思いが、ぐつぐつと煮え立ち、口から吹きこぼれそうな気がした。拳が震える。


 思わず飛び出してゆこうとした、その行く手を。

 音もなく忍び寄ってきた影が冷徹に遮った。

「お待ちを、閣下」


 ニコルは弾かれたように怒気を白く吐き、相手を睨み付けた。見慣れた純白の軍衣に漆黒の髪。冴え冴えとかげる氷雪の表情。鉄のようなザフエルの面持ちに、歯を食いしばる。


「邪魔しないでください」

 かろうじて言い返す。


 ザフエルは、傍らであかあかと燃える松明に全身を赤く染め上がらせながらつぶやいた。

「聖なる戒律に、我々は従わねばなりません」


 いくつもの黒々とした影が雪の上に躍っていた。鉄橋を見やりつつ続ける。

「聖女は神に、人は聖ローゼンクロイツの教えに」

「だからこの状況を見過ごせと!」

「見過ごすわけではありません。聖女は、必ず、救い出します」


 母親の悲鳴が響く。迫る神殿騎士たちから逃れようとして、雪に足を滑らせたのか。大きく身体をのけぞらせ、よろめく。


「ホーラダイン、偉そうに演説をぶってる暇があったら、あの馬鹿どもを橋に近づかせるな」

 チェシーが青い隻眼を奔るようにぎらつかせ、怒鳴った。

「このままだと、赤子ごと谷底に落ちるぞ」


「ザフエルさん」

 ニコルは悲痛な声を上げた。

「お願い。あのひとを助けてあ……」

「それはできません」


 みぞれ混じりの雪風が、凍てつくようなザフエルの黒い瞳を白く覆い尽くす。


「ふざけるな。通るぞ」

 チェシーが強引に押し通ろうとする。

「お待ちなさい」

 ザフエルの冷酷な視線が鞭のようにうちすえられる。

「聖ローゼンクロイツの教えを挑発するおつもりですか」


「誰もそんなことは言っていない」

 チェシーは眼の奥に隠しきれぬ怒りをたぎらせながらも、どうにか踏みとどまった。

「そうやってまた、神の名の下に女を一人、見殺しにするのかと問うている」

 手にした太刀の鞘尻で、深々と雪を突く。

 装具の飾りが残響を響かせる。柄に嵌め込まれた《天空》のティワズが、青く、ぎらりと光った。

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