そうすれば教えてやる。俺の、本性を

「ここまで来ればいいだろう」

 嘲るかのような、男の低い声が、草を踏みしだく音にまぎれて聞こえてくる。

 レイディ・ユーディットは恐怖の面持ちで立ちすくんだ。

「今のお声は」

「お静かに、レイディ」

 レイディ・ユーディットの唇に指を押し当て、身を寄せて、静かにするよう頼む。

「気づかれるとまずい」


 騒然と近づいてくる不穏の気配。突風が木々の葉をひるがえらせる。

 ニコルはレイディ・ユーディットの手を引き、植え込みの陰へと隠れた。

 声を押し殺し、息をひそめ、身を伏せる。小枝がユーディットの肌を傷つけることのないよう、覆いかぶさるようにして守ってやりながら膝をつく。

 そうやっていると、地を這うように吹き込む風が、袖口や胸元から容赦なく入り込んで、服の内側まで悴ませるかのようだった。頭上の枝が風に激しく身をよじり、ざわめく。


「ここなら誰も来ない」

 チェシーの声だった。残酷な、笑いを含んだ声。


「いったいどういうつもりなの」

 シャーリアのかすれた声が聞こえた。力任せに手をふりほどき、よろめいて逃れようとする。

「こんな所に連れ込んだりして」

「こんな所と言われても、残念ながら俺にはここがどこかさえ分からんよ」

「ふざけるのもいい加減に」

 ニコルとユーディットが隠れている位置からは、チェシーの背中とシャーリアの顔しか見えない。

 そのシャーリアが、たちまち頰を紅潮させ、悲鳴とも怒りともつかぬうわずった声を放つのが聞こえた。

「放しなさい」

 右手を振り上げる。だがその腕は、あっさりと男の手に払いのけられた。


「相変わらずいちいち平手打ちしないと気が済まないんだな。学習しない女だ」

「この恥知らず……!」

「シャーリア」

 男の腕が、シャーリアの手首を捻り上げるようにしながら、背後へと回り込むのが見えた。強引に腰を引き寄せる。

 低い声が命じる。

「俺の眼を見ろ、シャーリア」

「その手には乗るものですか。それ以上、わたくしに近づくことは許しませ……っ」

 シャーリアの声が、ぶつりと途切れた。

 耐えがたい、湿った喘ぎ声が、断続的に聞こえる。


 陽の光の下では見たこともない女の肌の色が。虚勢で張り詰めたようだった軍衣の胸元からはじけて、白い下着とともに眼を突き刺す。


「これでも俺が嫌いか」

「嫌いに決まってるでしょう」

「なぜだ」

「当たり前だわ。お前のようなけだもののどこが、ぁ、あ……」


 チェシーの手が、シャーリアの顔をぐいと上向かせる。

 ニコルは全身に薄氷が張ってゆくかのように思った。

 必死に呻きを噛み殺し、うつむいて、目をつぶる。きっと染み入る寒気のせいだ。意識を殺す。ともすれば耳をふさぎたい気持ちを飲み込む。そうでもしないと、身体が今にも震え出しそうだった。


「けだものか。実に光栄だね」

「こんな真似をして。わたくしに近づいて。何が目的なの」

「さあな」

 チェシーは冷ややかに笑った。

「ちぎり取った後の傷が深ければ深いほど。焼け焦げた痛みに悶えれば悶えるほど。渡る道が危うければ危ういほど、失うものが大きければ大きいほど、餓えて、飢えて、無性に奪い取りたくなる。そういうやっかいな性分というだけのことさ」

「たったそれだけのことで、この、わたくしを」

「そんな女、お前のほかに誰がいる」

「サリスヴァール……お前には理性というものはないの……」

 今にも腰から砕けそうな声が、濡れた唇の端からこぼれおちる。

「わたくしはこの国の公女なのよ。わたくしがもし殺せと命じたら、お前などひとたまりも」


「肩書きか」

 チェシーは蔑みの笑いを掠めさせた。

「そんなものに何の意味がある」


 胸元をぐいとゆるめ、だらしなく軍衣をはだけさせ、熱を帯びたささやきを吹き入れる。

「地位も、誇りも、義務も。すべて不要だ。俺の前では、女であること以外のすべてをかなぐり捨てろ」

 ニコルは手で口元を必死に押さえた。顔すらあげられない。レイディ・ユーディットを抱きしめていたつもりが、いつのまにか、その胸に抱き寄せられていたことすら気づかなかった。

 身体が、熱病のように震えている。


 チェシーの眼が、ふいに凄惨な笑みをほとばしらせて、ぎろりと動いた。

「そうすれば教えてやる。俺の、本性を」

 冷たく青くきらめく隻眼が、茂みに隠れたニコルの眼を真っ向から捉えていた。



「何を……何を、教えるというの」

 ほつれた金の髪が、剥き出しの白い肩に乱れ散っている。

 答えはもう聞こえない。

 ただ悲痛な、生々しいまでに婀娜めく女のあえぎばかりが聞こえてくる。


 目の前が暗くなった。すべての音が吸い取られたように消える。

 何が起こっているのかも、なぜこんな事になってしまったのかも、いつどうやって、その場を逃れたのかも分からない。

 逃げるニコルのポケットから、くしゃくしゃになった紙きれが一枚、風に吹き飛ばされてこぼれ落ちる。


 気がついたときには――

 ニコルは小径の果ての廃園に立ちつくしていた。


 周りには誰もいない。


 かつて白く塗られていたであろう鉄の門扉は、めくれた塗料の下から赤さびを露出させ、風に揺れるたびにぞっとする金切り声をあげていた。泥と雪にまみれた花壇の薔薇は空しく枯れ、土色に変色して、地面に貼り付いている。

 庭園の隅にベンチが見えた。

 呆然と歩み寄り、腰を下ろす。

 足下の雪だまりに赤茶けた枯れ草が埋もれている。


 分からない。

 信じられない。

 何もかもが、理解できなかった。

 顔を手で覆い、膝に突っ伏して、ただただ呻く。


「どうして」


「アーテュラスさま」

 淡い影が落ちる。ニコルは顔も上げなかった。

「……アーテュラスさま」

 孤独の香りが近づいた。

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