雪花《シュネーハイデ》
唐突にニコルは立ち止まった。
後方から、衣擦れの音とともにとぎれとぎれになった苦しげな息継ぎの音が聞こえてくる。
レイディ・ユーディットだ。
「レイディ」
ニコルは、いささか怒ったていを装って振り返った。
「どうして。ついてきてはいけないと申し上げたでしょう」
レイディ・ユーディットは息を弾ませ、淑女らしからぬ急ぎようで駆け寄ってくる。
「ああ、苦しい」
レイディ・ユーディットは白く乱れる吐息のからむ黒髪を降りかからせるようにして、ニコルの腕の中へと倒れ込んだ。
ふわり、と。ローブの裾がふくらむ。
「ごめんなさい、息が」
くずおれる華奢な身体を、あわててニコルは抱き止めた。耳元で真珠のイヤリングが揺れて光る。
「……こんなに走ったのは初めてですわ、ああ、くるしい」
「無茶をなさって」
「ごめんなさい。でも」
レイディ・ユーディットは、蚊の泣くような声で答える。
「わたくし、アーテュラスさまのことが心配で」
「僕は、その、別に」
ニコルは一瞬、苛立った。兄弟じゃあるまいし、ちょっと席を外したからと言って帰り道を心配されるようなことは何もないはずだ。
が、そう憤慨すればするほど、おくびにも出すわけにはいかなかった。子ども扱いされたくないならなおさらだ。
こういうとき、チェシーならどんな顔をするだろう、と考える。
すぐに慣れ親しんだ表情が思い浮かんだ。何を言っても馬耳東風。尊大な自信に満ちあふれた微笑だ。
つられるように笑い、やや肩をそびやかせてみせてから。
ふと気づいてまわりを見回した。
なぜか、やはり見覚えのない場所だった。
「まあ、確かにその」
自分の置かれた状況を、ニコルはようやく理解した。今度こそ苦笑いする。
「間違いなく迷子にはなってるようですけどもね」
ざわざわと冷たく揺れる植栽の彼方に、白と黒の塔が見え隠れしている。
石煉瓦の壁、鉄の面格子、錆びた門扉。すべてがまるで黴びたように黒ずんで見えた。
ろくに手入れもなされていないのだろう。面格子に絡みついた蔓は、上へ上へと野放図に伸び、最上階のテラスに達した後、無様に垂れ下がってはびこるがままにされている。
一方、塔の周辺の小庭は不思議と華やかに咲き誇る
ここは、廃された庭だ。ニコルは直感した。
「あの塔は」
怖気づいた気持ちを塗り隠し、つぶやく。
レイディ・ユーディットもまた遠くに目をやり、かすかに微笑んだ。
「あら、母さまの庵がこんな近くに」
「御母堂の?」
「ええ」
レイディ・ユーディットは静かに尋ねた。
「兄からお聞きになりまして?」
するどいピアノの音が洩れ聞こえてくる。
ニコルは眉をひそめた。
「いえ」
《先制のエフワズ》がじりじりとゆらめいている。
「何も聞いていません」
「そう」
レイディ・ユーディットは何気なく首を振った。
「長らく床に伏せっておりますので、敢えて閣下には申し上げるまでもないと思ったのかも知れませんわね」
「ご不例でしたか」
ニコルは表情を曇らせた。
「それはさぞご心配でしょう。一時も早い平癒をお祈り申し上げます」
言いながら、ニコルは顔を上げてレイディ・ユーディットの薔薇色をした瞳を見つめた。
視線に気づいたのだろう。レイディ・ユーディットの口元にうっすらと、微笑みの翳りが浮かぶ。
「わたくしの顔に何か?」
瞳の奥にゆらめく薔薇色の蛍火。一瞬、ニコルはその視線を別の感情だと錯覚しかけた。背筋がぞくりとする。
だが、顔を上げて改めて見返せば、まるですべてが気のせいであったかのように、愛らしく小首をかしげるレイディ・ユーディットの笑顔があるばかりだ。
ニコルは確信した。言葉を選びつつ言いかける。
「もしや、ご母堂は……」
「手を放しなさい」
だが、ニコルの問いかけは、思いも寄らない方向からさえぎられた。
「やめなさいと言っているでしょう、サリスヴァール!」
怒りに満ちた女の声が響き渡った。
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