鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ

 レイディ・ユーディットはニコルの隣に腰を下ろした。うつむき加減の微笑みが陰に日向に移り変わる。

「アーテュラスさま」

 そっと、ニコルの頭を、やわらかな胸に抱き寄せる。


 くずおれてしまいそうなほど、やわらかな感触。淡いダマスクの香りが、すう、と意識の流れを明晰にする。


 ニコルは声もなかった。眼をみはって、ユーディットを見上げる。

「レイディ、いつの間に」

 なすがままにされても気づかなかった自分に、逆に驚く。


 呆然としていたことに気づいていたのだろう。ユーディットはまた微笑んだ。頭をもたせかけてくる。

「殿下と……わたくしとでは、比べようもないと分かってはいますけれど」

 真珠の耳飾りが肩に触れる。ニコルは息を飲み込んだ。


「アーテュラスさま」

 かぼそい声が、風に吸い込まれるかのようだった。


「……わたくしでは……いけませんの? せめて、今だけでも……アーテュラスさまをお慰めさせていただきたいと……望むことも許されませんの……?」



「レイディ」

 ニコルは眼をこすった。

「やっぱり、落ち込んで見えるんだ」

 ほろ苦く、笑う。

「泣き虫で、女々しくて、頼りなくて、いつもうじうじしててさ、誰の目にも情けなく見えるんだよ。殿下のおっしゃる通りだ。僕にもそれは分かってる」


「……お辛くていらっしゃるのね」

 レイディ・ユーディットは、蒼白な微笑みを浮かべてニコルの頬に手を触れた。

 そっと涙を拭う。ニコルはちいさく笑った。

「意外とよくあるんですよ、こういうことは」


「アーテュラスさま……本当にお優しい方ですのね。わたくし、そのお気持ち分かりますわ。本当に」

「……レイディ?」

 レイディ・ユーディットは、そっと背筋をのばしてニコルに寄り添った。

「目の下に花びらがくっついてますわ」

「えっ」

 ごしごしと拭おうとするニコルのしぐさをさえぎって、レイディ・ユーディットはぬれた頬を手袋の指先でぬぐった。


「だって、わたくしも……同じ気持ちなのですもの」

 唇が触れた。



 ざわり、と枯れ葉が鳴る。

 何者かが音もなく近づく。

 しわぶき一つ立てず、ひそやかに。


 踏みにじられた雪がどす黒く汚れている。

 どこから飛ばされてきたものか、植栽の根元に引っかかった手紙が半ば湿り、半ば破れて地に落ちている。

 純白の手袋をはめた手が、手紙を拾い上げた。

 軍衣の袖口からのぞく漆黒のルーンが、夜よりもつめたく、光る。


 ふいに寒風が吹き荒れた。

 粉雪が舞い散る。

 黒髪が乱れ、暗澹とはためいた。狂ったピアノの音が聞こえてくる。壊れた音色が雪を散らす。


 彼方の空は鉛色にたれ込め、ひどく暗い。




「同じ、気持ち」

 やるせない響き。ニコルは心が凍ったまま溶けもしないことに気づいた。

「同じって」


 突き放されたように思ったのか、レイディ・ユーディットはうつむいた。表情が見えなくなる。

 冷たい風が、レイディ・ユーディットの黒髪を孤独に揺らす。


「ねえ、レイディ。聞いてもいいかな」

 ニコルはレイディ・ユーディットに声を掛けた。

「はい」

 レイディ・ユーディットはうつむいたまま顔を上げようとしない。

「フランゼスの事、知ってる?」

 ニコルは旧友であるフランゼス公子のことを話に出した。

 姉のシャーリア公女とは似ても似つかない性格の、穏やかで学者然とした、少々ぽっちゃり系の少年だ。


「存じ上げております」

 レイディ・ユーディットは、こくりとうなずいた。

「ティセニアの公子殿下でいらっしゃいます」

「うん。僕とは幼稚園のころからの幼馴染なんだ。彼がさ、以前に」

 ニコルは、ぽつりとつぶやいた。


「……殿下もチェシーさんのこと好きかもしれない、って言ったんだ」

「はい」

「まさかって思ったんだ。だって会えばすぐ喧嘩ばかりしてたんだよ」

 乾いた笑いを上げて、首を振る。

「そう言ったらフランは僕のこと、鈍いって言うんだ。心外だよね、あれだけいつもいつも喧嘩してたら、普通は誰だってそう思うよね?」

「それは……お困りでしたわね」

「でもさ」


 ニコルは頭を掻いた。


「鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ」

 深い、居たたまれないため息をついてベンチの背にもたれる。わずかに鉄の軋む音がした。

「とんでもなく明後日な方向に心配してさ。チェシーさんもやたらいらいらしてるし、これ以上、ひどいことになったらどうしようって……それがさ、まさかこんなことになってるなんて」


「……姫さまは、本当にお綺麗ですものね」

「そうかな」

 ニコルは、ぼんやりと受け答えた。

「そうだね」


 レイディ・ユーディットが顔を上げる。ニコルは心をうつろに漂わせたまま、空を見上げた。

 空がひどく暗い。今にも重たい雪が降り出しそうだ。


「……あの二人なら、きっとお似合いだろうね」

「アーテュラスさま」

 レイディ・ユーディットの黒髪が、氷を含んだような風に強くかき乱されている。


 ニコルは、そっとレイディ・ユーディットの手を取り、ベンチから立ち上がった。

「ここは寒いでしょう。お部屋にお戻りになった方がよろしいですよ」

「いいえ」

 レイディ・ユーディットはかぶりを振った。

「どうか、お側に」


「レイディ」

 ニコルは蒼然と微笑んだ。

「ごめん」

 眼をそらし、虚空を凝視しつつつぶやく。

「やっぱり気分がすぐれなくて。少し、考える時間を僕にください」

「アーテュラスさま」

「夕食の時、次にお逢いする時までには」

 静かに微笑んで、気持ちをさえぎる。

「また、呑気で愚かな、いつもの僕に戻っています。いつものように、道化を演じます。その折りにはきっと、今以上の自制心が必要になるでしょう。ですから、今は」

「でも、それは」

 聞き分けのないレイディ・ユーディットの揺れる瞳の奥に、ニコルは怯えを見出した。

 ようやく事情を悟る。

 理由が分かれば、逆に安心できた。深呼吸して、笑顔を浮かべる。


「大丈夫。ザフエルさんの命令で、僕を追いかけてきてくれたんでしょ? 相変わらず心配性ですね、あのひとも。でも、ご心配なく、とお伝えしてください。あと五分もあれば、元どおりの僕に戻ります。決して、ノーラスから、と。だから、今だけは」



 それ以上、人の優しさに触れてしまうと、逃げ込んでしまいそうになるから。



「分かりました。おいとま致します」

 真実を突きつけたことにやや気分を害したのか。レイディ・ユーディットは眉をひそめ、優しげだった表情を消して、ニコルへと手を差し伸べた。

「アーテュラスさま、御機嫌よう。今宵、また、お目に掛かりとう存じます。そのときは、もう少し優しくしてくださいましね。さもないと、わたくしが兄に叱られますわ」

「お約束しますよ、レイディ」

 去り際に手の甲へとキスし、去ってゆくドレスの後姿を見送る。



 しんとして、静かになる。

 風の音だけがどこか遠くではためいていた。

 ちいさなためいきをつく。


「お似合い、か」

 言ってから、苦笑いした。

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