【完結】 exile 異端《ウィルド》の血を引く魔女であることを隠すため、性別を偽り男装して聖騎士となったのに付き従う部下は超女ったらし亡命者と無表情にグイグイ迫る黒髪黒瞳の鉄血参謀
鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ
鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ
レイディ・ユーディットはニコルの隣に腰を下ろした。うつむき加減の微笑みが陰に日向に移り変わる。
「アーテュラスさま」
そっと、ニコルの頭を、やわらかな胸に抱き寄せる。
くずおれてしまいそうなほど、やわらかな感触。淡いダマスクの香りが、すう、と意識の流れを明晰にする。
ニコルは声もなかった。眼をみはって、ユーディットを見上げる。
「レイディ、いつの間に」
なすがままにされても気づかなかった自分に、逆に驚く。
呆然としていたことに気づいていたのだろう。ユーディットはまた微笑んだ。頭をもたせかけてくる。
「殿下と……わたくしとでは、比べようもないと分かってはいますけれど」
真珠の耳飾りが肩に触れる。ニコルは息を飲み込んだ。
「アーテュラスさま」
かぼそい声が、風に吸い込まれるかのようだった。
「……わたくしでは……いけませんの? せめて、今だけでも……アーテュラスさまをお慰めさせていただきたいと……望むことも許されませんの……?」
「レイディ」
ニコルは眼をこすった。
「やっぱり、落ち込んで見えるんだ」
ほろ苦く、笑う。
「泣き虫で、女々しくて、頼りなくて、いつもうじうじしててさ、誰の目にも情けなく見えるんだよ。殿下のおっしゃる通りだ。僕にもそれは分かってる」
「……お辛くていらっしゃるのね」
レイディ・ユーディットは、蒼白な微笑みを浮かべてニコルの頬に手を触れた。
そっと涙を拭う。ニコルはちいさく笑った。
「意外とよくあるんですよ、こういうことは」
「アーテュラスさま……本当にお優しい方ですのね。わたくし、そのお気持ち分かりますわ。本当に」
「……レイディ?」
レイディ・ユーディットは、そっと背筋をのばしてニコルに寄り添った。
「目の下に花びらがくっついてますわ」
「えっ」
ごしごしと拭おうとするニコルのしぐさをさえぎって、レイディ・ユーディットはぬれた頬を手袋の指先でぬぐった。
「だって、わたくしも……同じ気持ちなのですもの」
唇が触れた。
▼
ざわり、と枯れ葉が鳴る。
何者かが音もなく近づく。
しわぶき一つ立てず、ひそやかに。
踏みにじられた雪がどす黒く汚れている。
どこから飛ばされてきたものか、植栽の根元に引っかかった手紙が半ば湿り、半ば破れて地に落ちている。
純白の手袋をはめた手が、手紙を拾い上げた。
軍衣の袖口からのぞく漆黒のルーンが、夜よりもつめたく、光る。
ふいに寒風が吹き荒れた。
粉雪が舞い散る。
黒髪が乱れ、暗澹とはためいた。狂ったピアノの音が聞こえてくる。壊れた音色が雪を散らす。
彼方の空は鉛色にたれ込め、ひどく暗い。
▼
「同じ、気持ち」
やるせない響き。ニコルは心が凍ったまま溶けもしないことに気づいた。
「同じって」
突き放されたように思ったのか、レイディ・ユーディットはうつむいた。表情が見えなくなる。
冷たい風が、レイディ・ユーディットの黒髪を孤独に揺らす。
「ねえ、レイディ。聞いてもいいかな」
ニコルはレイディ・ユーディットに声を掛けた。
「はい」
レイディ・ユーディットはうつむいたまま顔を上げようとしない。
「フランゼスの事、知ってる?」
ニコルは旧友であるフランゼス公子のことを話に出した。
姉のシャーリア公女とは似ても似つかない性格の、穏やかで学者然とした、少々ぽっちゃり系の少年だ。
「存じ上げております」
レイディ・ユーディットは、こくりとうなずいた。
「ティセニアの公子殿下でいらっしゃいます」
「うん。僕とは幼稚園のころからの幼馴染なんだ。彼がさ、以前に」
ニコルは、ぽつりとつぶやいた。
「……殿下もチェシーさんのこと好きかもしれない、って言ったんだ」
「はい」
「まさかって思ったんだ。だって会えばすぐ喧嘩ばかりしてたんだよ」
乾いた笑いを上げて、首を振る。
「そう言ったらフランは僕のこと、鈍いって言うんだ。心外だよね、あれだけいつもいつも喧嘩してたら、普通は誰だってそう思うよね?」
「それは……お困りでしたわね」
「でもさ」
ニコルは頭を掻いた。
「鈍かったのは、どうやら僕のほうだったみたいだ」
深い、居たたまれないため息をついてベンチの背にもたれる。わずかに鉄の軋む音がした。
「とんでもなく明後日な方向に心配してさ。チェシーさんもやたらいらいらしてるし、これ以上、ひどいことになったらどうしようって……それがさ、まさかこんなことになってるなんて」
「……姫さまは、本当にお綺麗ですものね」
「そうかな」
ニコルは、ぼんやりと受け答えた。
「そうだね」
レイディ・ユーディットが顔を上げる。ニコルは心をうつろに漂わせたまま、空を見上げた。
空がひどく暗い。今にも重たい雪が降り出しそうだ。
「……あの二人なら、きっとお似合いだろうね」
「アーテュラスさま」
レイディ・ユーディットの黒髪が、氷を含んだような風に強くかき乱されている。
ニコルは、そっとレイディ・ユーディットの手を取り、ベンチから立ち上がった。
「ここは寒いでしょう。お部屋にお戻りになった方がよろしいですよ」
「いいえ」
レイディ・ユーディットはかぶりを振った。
「どうか、お側に」
「レイディ」
ニコルは蒼然と微笑んだ。
「ごめん」
眼をそらし、虚空を凝視しつつつぶやく。
「やっぱり気分がすぐれなくて。少し、考える時間を僕にください」
「アーテュラスさま」
「夕食の時、次にお逢いする時までには」
静かに微笑んで、気持ちをさえぎる。
「また、呑気で愚かな、いつもの僕に戻っています。いつものように、道化を演じます。その折りにはきっと、今以上の自制心が必要になるでしょう。ですから、今は」
「でも、それは」
聞き分けのないレイディ・ユーディットの揺れる瞳の奥に、ニコルは怯えを見出した。
ようやく事情を悟る。
理由が分かれば、逆に安心できた。深呼吸して、笑顔を浮かべる。
「大丈夫。ザフエルさんの命令で、僕を追いかけてきてくれたんでしょ? 相変わらず心配性ですね、あのひとも。でも、ご心配なく、とお伝えしてください。あと五分もあれば、元どおりの僕に戻ります。決して、ノーラスから逃げたりはしない、と。だから、今だけは」
それ以上、人の優しさに触れてしまうと、逃げ込んでしまいそうになるから。
「分かりました。おいとま致します」
真実を突きつけたことにやや気分を害したのか。レイディ・ユーディットは眉をひそめ、優しげだった表情を消して、ニコルへと手を差し伸べた。
「アーテュラスさま、御機嫌よう。今宵、また、お目に掛かりとう存じます。そのときは、もう少し優しくしてくださいましね。さもないと、わたくしが兄に叱られますわ」
「お約束しますよ、レイディ」
去り際に手の甲へとキスし、去ってゆくドレスの後姿を見送る。
しんとして、静かになる。
風の音だけがどこか遠くではためいていた。
ちいさなためいきをつく。
「お似合い、か」
言ってから、苦笑いした。
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