《庇護》のアルギス
とたん、アンドレーエは相好を崩した。毛先のはねた明るい茶髪、愛くるしい子犬にも似た人なつこい笑顔を全開にして、ニコルの頭をぽんぽんと叩く。
「貴公、何で昨日の酒席に顔を出さなかった?」
首にかけた何連装ものレンズをそなえた革ゴーグルが、遠慮会釈なくニコルの頭にぶつかって揺れる。
アンドレーエは、薄緑に光る《静寂のイーサ》のルーンをはめ込んだ手首をひらひら泳がせたかと思うと、いきなりぐいと顔を寄せた。馴れ馴れしくニコルの肩に腕を回す。
「え、何? 何?」
「来い」
何をするかと思えば。
「ちょいとツラを貸せ、アーテュラス」
強引にニコルを引きずって、あずまやへと突き進んでゆく。
ニコルはずるずる引きずられながら、腕を振って抗議した。
「あいたたた、ななな何するんですかちょっと!」
「いいか、今からこの俺が世界のことわりを教えてやる。友に会えばまずは酒。上官に会えばまずは酒。同期に会えばまずは酒だ」
「そんなめちゃくちゃな」
「おっと俺としたことが。とにもかくにもまずは酒! を抜かしてしまった」
アンドレーエはじたばたするニコルのささやかな抵抗などけんもほろろに切って捨て、高らかに指を鳴らす。
「では改めて我ら四天王の再会を祝して乾杯と行こうではないか。
「たわけるな、アンドレーエ。貴様ではあるまいし、昼間から酒など呑めるか」
そのすぐ後ろから、足首まである黒い革のコートに身を包んだ武人がうんざりした声をかけた。
第三師団、《庇護》のアルギスの守護騎士。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ元帥である。
雪の反射を遮るためか、目元を隠す赤い色眼鏡をかけているが、怜悧な刃にも似た鋭い表情だけは隠すべくもない。
エッシェンバッハは冷ややかな視線をニコルとアンドレーエの双方にくれ、唇をゆがめてから、あからさまな軽侮の仕草で肩をそびやかせた。
「事あるごとに酒をくらうとは、それでも聖騎士の端くれか」
色眼鏡を乱暴にむしり取り、するどい灰色の眼を周辺に配りながら険しく吐き捨てる。
「今は、お茶とトルテの時間だ」
「あうっ」
がたがたとニコルは腰砕けにひっくり返った。
「エッシェンバッハさんの甘い物好きも変わってないですね……うちのアンシュと気が合いそうだ……」
「まったくティセニアの将官登用制度はいったいどうなってるんだ」
苦々しくチェシーがぼやく。
「是非とも御教示願いたいものだ。元帥どもが揃いも揃って開口一番、酒にメガネにケーキとは」
「僕は別にメガネの話なんてしてませんけど!」
「とてもじゃないが一般平民の私には入り込めそうにないね」
「ほほう、そいつは聞き捨てならないな、准将?」
アンドレーエが眉を片方だけひょいと持ちあげた。ゴーグルのレンズ部分を、カチリ、カチリ、小気味良い音をさせながら革手袋の指先で器用に回転させる。
「貴公の華麗なる女性遍歴の噂は、敵ながら天晴れなほど華々しいものだったぞ。俺が耳にしたところでは――母親ほども年の離れたゾディアック女帝アリアンロッドの愛人だった、とか、な?」
子供っぽい寝ぐせの形にカールした前髪の下に、飄々とうそぶく笑いをまぶした鷹の目が光っている。
ニコルは薄雲の広がる灰色の空を振り仰いだ。
山の稜線を超えた、はるか北方の空の高みに。
冷たい風を羽にうけ帆翔する、尖った翼の猛禽が見えた。
第二師団の諜報網をもってすれば、敵国の帝都であるベルゼアスの闇を暴くことも、水面下の叛意を煽る流言飛語をまことしやかに流布させる事すらも容易い、と。明に暗に告げている。
「立つ鳥跡を濁さず。根も葉もない風説を、と言いたいところだが」
同じ空を見上げてなお、チェシーはぬけぬけと受け流す。
「蝶と戯れるは騎士のたしなみ。手折る花が美しければ美しいほど、送る喜びもいや勝るというものさ」
「静粛に。そこの五月蠅いの、いい加減になさい」
ザフエルがぴしゃりと一同を制した。厳格な面持ちをしてアンドレーエを見やる。
「未成年は飲酒禁止と言ったはずです」
「否定するのそっちかよ」
アンドレーエは寓意の眼光を消した。けろりとして笑う。
「まあいいや。ところで」
アンドレーエは、くるりと手のひらを返してレイディ・ユーディットを見つめた。
「さっきから気になってたんだけどさ、こっちの閨秀誉れ高きレイディは、どこのどなたのどういったご関係でいらっしゃいますか?」
おもちゃを前にした子供みたいな興味しんしんの態度で、レイディ・ユーディットの頭の先からヒールのつま先までをしげしげと検分がてらに眺め回す。
ぶしつけな視線にレイディ・ユーディットは立ちすくんだ。怯えた仕草で後ずさり、ニコルの背後に逃げ込む。
「あの、わたくしは、別に……」
「お? さてはアーテュラスと見合いの途中だったのかな?」
「いえ、あの、そういうわけでは」
レイディ・ユーディットは、なおいっそう声を縮こまらせた。可哀想なほど萎縮しきって、ニコルの肩に顔をうずめる。
「え、なになに? それは一体どういうことかな? んん?」
アンドレーエはさっそく食いついてきた。冷やかしと詮索の入り交じった盗掘者の目をして、小鼻をうごめかせる。
「アンドレーエさん、いくらなんでもその言い草はちょっと失礼じゃないですか」
ニコルは無粋な物言いのアンドレーエに釘をさしながら、レイディ・ユーディットを肩越しに振り返った。やや大きめの襟ぐりからのぞく胸元の肌色が、はっとする白さで眼に飛び込む。
「っていうか何で僕と? 僕が?」
さすがに戸惑う。ニコルとレイディ・ユーディットなら身長も、それこそ年齢もほぼ同じ。自分で言うのも何だが、他の元帥たちと比べるに、一番頼りなく、かつ貧弱に見えるであろうことには絶対の自信があった。
こういうとき頼りにすべき背中は、それこそ兄であるザフエルであったり、いかにも堅物の騎士然としたエッシェンバッハのほうではなかろうか。
にもかかわらず。
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