罪の意識も、良心の呵責も、涙も全部、要らない


 ニコルは身を乗り出そうとした。しゃべるたびに、白い息が氷となって、後方へ流されてゆく。


「チェシーさん、大丈夫?」

「またそれか。毎回、同じことを、いちいち聞いてくるんじゃない」

 チェシーは猛々しく笑った。

「言っただろう。私は極北の生まれだ。吹雪には慣れている。氷を見ただけで滑って転んで脳震とうを起こすような、南国育ちのひ弱な君らとは違ってね」

「他のみんなは」

「どうということはない。馬も、護衛も、北国の連中ばかりを選抜しておいたからな。それより君らの体調はどうだ」

「僕らはぜんぜん……前が見えないです」

 ニコルは、たちまちべったりと雪まみれになって用を成さなくなったメガネをはずし、苦笑いした。


「それは何よりだ。ほら、もういい。冷えるだろう。頭を引っ込めろ」

「明日には着けるんですよね」

「そうだ。だからこそ、君に、鼻水だらだらの状態になられては困るんだよ」

 チェシーは分厚い毛皮の手袋をはめた手を伸ばして、ニコルの頭を無理やり客車の中へと押し込んだ。

 手袋についていた雪の塊が、ニコルの髪の毛に白く貼り付く。


「きっちりと窓を閉めておけよ。じゃあな」


 チェシーは、にやりと笑って手を上げた。指をそろえてひゅっと振り、馬の速度を落としつつ後方へと離れてゆく。落伍した輜重車がないかどうかを見に行くのだろう。

 しばらくの間、ニコルはチェシーの姿ばかりを追って、曇るガラス窓に身を寄せていた。だが、この吹雪にさえぎられてはもう、ほとんど何も見えそうにない。


 仕方なくためいきをつく。

 手近なクッションを抱きかかえ、力なく背もたれに身を預け、天井を見上げて。

 また、白いためいき。

 苦笑いがこぼれる。


 何だかやたらと情けないような気がする気持ちを振り払い、今度こそ誰にも邪魔されないうちにと、ポケットから先ほどの手紙を取り出す。


 急いで押し込んだせいか、手紙はなおいっそう、しわしわのくしゃくしゃになっていた。

 クッションを脇へ押しやり、アンシュベルから見えないよう、手紙を身体の脇に寄せて、膝で伸して、広げ直す。


 ルーンの仄暗い蒼光が、差出人の名を照らし出した。

 影が揺れ動く。


 聖ティセニア公国軍、第五師団、騎兵大隊長サリス――


 チェシーからの手紙。



 ニコルは、思わず手紙を裏返し、ぴしゃりと膝に伏せた。あたふたと左右を見回してアンシュベルの様子を窺う。


 アンシュベルはライフルを抱えたまま、すうすうと眠っていた。悪魔のぬいぐるみにも反応はない。


 気付かれていないことを何度も何度も確認し、ごくりと喉の音をさせ、何度か手紙を開こうとして、手を止め、また息をつめる。

 折りたたまれていた紙の立てる乾いた音さえもが、轟音のように思えた。

 おそるおそる、手紙を開いて。

 書面に目を落とす。



 読み終わる。



 二度、読む気にはなれなかった。ニコルは、手紙を元通り折りたたみ、封筒に入れ、ポケットに戻した。ふいに指先が震えだす。

 声もなく、両手を握り締めた。ぎゅっと目を閉じ、深呼吸して。

 うめくように手で顔を覆う。


 きっとまたいつもの病気だ。博愛主義にも程がある。そう思いたくてかぶりを振り、苦笑いを浮かべる。


 どうして、こんな――

 指の隙間から見えるクッションの色が、水の染み込んだレンズのようにゆがんだ。


 を名乗ってチェシーと逢った夜。

 さんざんな目に遭わされたあげく、結局は何の話をしたのかも分からなくなるぐらい喧嘩して別れた。思い出したくもないぐらい、馬鹿げた笑い話だ。


 でも、忘れられない出来事がひとつだけあった。


 ダンスのステップを間違えた自分をバルコニーへと連れ出してくれたときの、あの、笑顔。

 見上げた月の光、青い噴水のせせらぎ、夜風、甘い花の香り。垣間見えた憂いがちな表情、触れ合った指先、ざわざわする人の声、誰かがつま弾く切ない楽器の音色。

 そういった情景の全部が、チェシーの笑顔の記憶に溶けて、かすんでゆく。

 思い出すだけでなぜか、はらはらとして、どきどきして、可笑しくて。

 なのに、痛い。

 胸が、締め付けられてでもいるかのように苦しい。


「うそつき」


 こらえきれず、涙声で。

 ぽつりと、ちいさくつぶやく。


 受け入れるにはあまりにも重すぎるその優しさが、例えようもなく、怖い。

 チェシーの本意が分からなかった。囚われの運命への憐れみか、発覚を怖れての根回しか。それとも。


 チェシーは優しい。たぶん誰にでも、きっと。


 ただでさえ、レディ・アーテュラスに、あんな作り話を聞かされた後だ。

 たとえ見知らぬ相手であっても、チェシーなら優しく、騎士らしく振る舞うに違いない。でも、それは言うなれば羽の折れた珍しい小鳥を保護するようなもので、水を与え、治療をしてやり、慈しんだその後は――何もない。さよならだ。

 でも、もう。そんなことは、もうどうでもいい。


 水鳥の仲間の中には、巣と雛を護るためにわざと羽が折れた振りをして狐の注意を引き、難を逃れさせようとする母鳥がいるという。


 それと同じだ。

 嘘つきなのは、自分だ。

 友の信義を疑いながら偽りの物語で同情を引き、優しさにかこつけて惑わし、防壁を巡らせているのは。裏切っているのは。

 自分だ。


「チェシーさん」

 いっそ、気付かれてしまえば。


「チェシーさん」

 全部が嘘だと、見抜かれてしまえば。


「チェシー……」

 《先制のエフワズ》が赤く、ゆらめいている。


 女と思っていた相手が、いつも隣にいる男だと知れば。

 騙されたと知れば。

 いくら寛容なチェシーでも、激昂するだろう。

 もしかしたら、怒りにまかせてすべてを暴露しろと迫るかもしれない。そんなことになれば、自分などあっけなく――


 ニコルは、かぶりを振った。

 力なく笑う。


 違う。

 あやうく道を踏み外すところだった。

 真実を隠し通せないのなら、優しさなど感じなければいい。当然のように忠誠を受け入れるだけでいい。

 好きとか、嫌いとか。そんな女の子みたいな感情を持つ必要もない。罪の意識も、良心の呵責も、涙も。

 全部、要らない。

 重要なのは、敵か味方か。我が身を利するか、害するか。

 ただそれだけだ。

 


 一路、東へ。

 吹雪は、さらに激しさを増してゆく。

 そりの車窓から見える森は、凍てついた拒絶の憎しみに満ち、後方を顧みれば、そこにはふりすててきた過去にも似た白い闇が渦巻いている。


 ツアゼルホーヘンはまだ、遙かに遠い。


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