2 もう、逢えない
2ー1 もう、逢えない
激しい揺れが続いた。馬そりが傾くたび、車体のあちこちが甲高い軋めきを鳴り響かせる。
そりでノーラスを出発してから一週間が過ぎようとしていた。
長い旅程の間ずっと座っていられるよう山のように積み上げたクッションに埋もれていたにもかかわらず、凍える寒さが足下にまで忍び込む。
ニコルはしっかりとまといつけていた厚手の毛布を払いのけ、ぎごちなく手足を押し伸ばしながら、体勢を整えた。
木戸でふさがれた二重窓を開ける。霜の張りつめたガラス越しに外の光景が見えた。
叩きつけるような白と黒と灰色の世界。
地吹雪が吹きつのっている。
聞こえてくるのは、今にも壊れそうにぎしぎしとたわむそりの音、空に走るするどい鞭の響き、馭者の掛け声。吐き散らされる真っ白ないななきに混じって遠くから甲高く切なく伝わるのは鹿の鳴き声か。
しばし、ぼんやりと異境の思いを馳せる。雪闇色に染まるツアゼルの黒い森は、見慣れたノーラスの森とはどこか違う気がした。よそよそしい、今にも襲いかかってきそうな、張りつめきった孤独の空気。
「えへへへアンシュはですねえ」
隣の席から舌足らずな声が聞こえた。随伴の従卒兼メイドのアンシュベルである。
相変わらずくたっとした黒ウサギの不気味ぬいぐるみを抱っこし、むにゃむにゃと柔らかくもつれる寝言を口の中で転がしている。
「もちろん新作のトルテがいちばんの楽しみに決まってるです……」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ニコルはアンシュベルの可愛らしい寝顔をのぞき込んだ。アンシュベルは眠り込んだまま両手を握りしめ、ううん、とかぶりを振る。
「まだ寝てますぅ」
「確かに寝言としてはこの上もなく核心を突いてるけどね」
寝返りを打つアンシュベルに毛布を掛けてやろうとして、ニコルはふと、腕の内側にぎらりと黒光るものを見た。
銃。
窓から射し込む雪の色が、エプロンドレスのフリルにうずもれたくろがねの銃身をほのかに照らし出している。
フリントロックライフルだ。使い込んだあめ色の木の銃床に金のいちご模様の象嵌が嵌め込まれている。
無論、ブリキのおもちゃなどではない。
おそらくは身辺警護のために誰かが――おそらくはザフエルが持たせたものと思われた。メイド姿のまま、歩兵に混じって射撃練習をする姿も幾度となく見ている。仕方のないことだった。銃を持つなど止めろ、などとはとうてい言えない。ニコルの側近く仕える以上、いつなんどき、どのようなかたちで命を狙われるか分からない。ありとあらゆる覚悟が必要だった。その秘密を唯一、知るがゆえに、あたら若い命を自ら散らす覚悟さえ。
そのザフエルは、ニコルより一日早くノーラスを発っていた。おそらく今ごろはもうツアゼルホーヘンに到着し、夜を徹しての祝祭準備に取りかかっていることだろう。
一方のチェシーは、今まさに雪まみれになりながら隊を率い、車列の先頭に立っている。
だがこの雪と極寒にくわえ、連日の強行軍である。そりを牽く馬も輜重隊も、全員が体力の限界に達している。逢魔時も迫っていることだし、せめて早々に休憩所の設けられている里程標に着けばいいが、と。ニコルは、ただそれだけを願って、また窓の外を見た。
「あ、そうだ」
チェシーのことを考えた拍子に、ふとあることに思い当たる。
「ええと……持ってきてたっけかな……」
ポケットをごそごそとまさぐってみる。
くしゃくしゃの感触が指先に触れる。
あった。
ニコルは、ポケットから目当ての物を引っ張り出した。
ぴんと引っ張って皺を伸ばし、封書としての体裁を整えてから、改めて怪訝の目でまじまじと眺める。
それは、レディ・アーテュラスから転送されてきた、差出人不明の手紙だった。
出立間際のごたごたに紛れ、ポケットに突っ込むだけ突っ込んで、結局すっぽりと存在を失念していた代物である。
封を切り、かるく息を吹き込んで封筒をふくらませてから、中を覗く。
もう一通、さらに封筒が入っている。今度は差出人の名も記されてあるようだが、暗みを増してきた宵闇の下では、残念ながら今ひとつ読み取れない。
ニコルは、うつむいたまま、ちらりとアンシュベルを見やった。
灯りをつけたら、まぶしすぎて逆にアンシュベルを起こしてしまうかも知れない。
それだけは、なぜだかちょっと妙にはばかられた。
誰宛かもよく分からない秘密の手紙をもらったというだけで、何とは無しに気恥ずかしく、この手紙自体を、できたら内緒にしておきたいような、見ずにすませたいような、そんな気さえする。
仕方なく、かすかな雪灯りを頼りに、ためつすがめつして透かし見る。
ティセニア軍、という文字がかろうじて読めた。もうすこし目が慣れてくればきっと。
「えへへ……トルテ……おいしそうです」
アンシュベルは、まだ夢うつつにつぶやいている。
「なんていうか素敵な殿方に出会っちゃったらどうしようって感じ……」
アンシュベルは目をつむったまま、うっとりと口元に笑みを浮かべている。
「ちょっぴりほろ苦くって……大人の味……? 身も心もとろけちゃいそうって……ああんうっとりしちゃうかも……でもやっぱり師団長みたいにちょこんとクリームに乗っかったみたいなのも捨てがたいし……えへへそうですかやっぱり二ついっぺんにいただいちゃえと……そんなあ……無理ですう……ああん、師団長ったらん」
「えっ」
ニコルはぎくりとした。あわてて手紙をポケットに突っ込んで隠す。
「僕が、何?」
「甘いのがいいですぅ……甘くして……」
「は!? いや、あ、あのねアンシュ」
ニコルはびくびくしながら身を引いた。せっかくの乙女ドリームから目を覚まさせるのは忍びないが、こんなところでむぎゅうとすがりつかれても、それはそれで激しく困るのである。
「……ちゅ、しましょ?」
「え゛!」
どうやら本格的に寝ぼけているようだ。アンシュベルは、鼻に掛かった甘ったるい声でしなだれかかってくる。
「……しよ?」
「いいいやいやいやあああのあのあのあの!」
ニコルは、がたがたと木の座席から転げ落ちた。跳ね上がったクッションが、頭の上からぽふぽふと降ってくる。
「ぼぼぼ僕らは、ほら、その、何ていうかそのつまりさッ!」
「えへへへ」
アンシュベルは、ふいににんまりと笑った。逃げるニコルを的確に追って手を伸ばし、思い切り寝返りを打ちながらむぎゅううう、と、まんまるい胸に抱きしめる。
「ぶッ」
虚を突かれ、ニコルは、じたばたともがいた。
「あはぁん師団長ったらかわいい……」
ニコルは顔をそむけ、どうにかこうにかぷはあっと息を継いでから、悲鳴を上げた。
「なななな何をいいいい言い出すん」
「てへっそんなあ、食べちゃっていいんですかぁ……アンシュ恥ずかしいですぅ……」
アンシュベルは寝ぼけたまま、くねくねと身悶える。再び、凶悪な胸が肉弾のビンタとなって、顔にべしべしと当たった。
「あう、あう、あうっ!?」
「あはんおいしそう、師団長のいちごさん♪ ひとくちであーん……いただきまぁす……」
鼻の先を、ちゅっ、と吸われる。
「ぎゃああああぁあぁあ……!」
思い切り抱き枕状態である。いや抱かれ枕状態と言うべきか。とにかく抱え込まれ、のしかかられ、頬ずりされて、ごろごろふにゃぁあん。手を突っ張れば胸を掴んでしまう。抵抗のひとつもできない。
「だ、だ、ダメだよ! 良い子がそそそそんな、へへへ変な夢を見ちゃ!」
「えへへへへへへ……おいしい……」
「っぷ、くっ苦し……!」
もはやこれまでかと観念した、ちょうどそのとき。
「ふわあああ」
ようやく、アンシュベルは呑気な大あくびをもらした。
「あれ、師団長おはようございます、です?」
うんと片手で背伸びし、もう片方の手でほわほわと口元を押さえ、涙をぽつんとまつげにのせてぼんやりしている。
「今ね、師団長がいちごショートに乗ってる夢みてたです……」
「食べる気だっただろ!」
「ではでは再びおやすみなさいです」
愕然としたニコルを前に、アンシュベルはまた何事もなかったかのように、もぞもぞと居場所を確保し、背中を丸めた。悪魔のぬいぐるみとフリントロックライフルとをしっかり抱きかかえ、すやすやと赤ちゃんのような微笑をうかべて、ニコルの肩に頭をもたせかける。
すぐに、くー、くー、と寝息が聞こえてきた。
「な、何て恐ろしい夢を見てくれるんだか」
そのまま脱力のため息をつく。
ニコルはぶるぶると頭を振った。
「開けろ、おい」
今度は別の声が聞こえてきた。チェシーだ。外で何か怒鳴っている。
ニコルは、急いで客車の窓を押し開けた。
「チェシーさん」
雪まじりの風が、ごうっと耳元に吹き巻く。寒さのあまり、頬を張り飛ばされたような痛みが走る。
「もう少しで
チェシーは片手で器用に馬を御し、もう一方の手で前方を指し示した。
ひどい有り様だった。前髪も、防寒コートの縁の毛皮飾りも、吐く息すらすべて、雪と氷で真っ白に凍り付いている。
「夜までには、ツアゼルに」
耳をつんざくような馬そりの風で、チェシーの声さえ良く聞こえない。
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