止まない雨
「現存するすべての暗黒属性の《カード》の中で最も深い闇、《ラグナレク》」
レディ・アーテュラスは妖婉な仕草で口元を隠した。風に吹かれ、戸口に立ったまま入ってこようともせずに続ける。
「言い伝えでは、次のように言われているわ」
レディ・アーテュラスは、綺麗な指先で鈴の一つを弾いた。
ちりん。冷たい音が鳴る。
「仲間一人の命」
ちりん。
「あるいは自分の命を一年、そぎ落とすのと引き換えに敵を駆逐する――確実な死の《カード》だと、ね」
「さわるな」
ふいにチェシーは声を荒げて、ニコルの手首をつかんだ。
「それは君が使うべき《カード》じゃない」
「いいえ」
レディ・アーテュラスは首を振った。
「ニコルさんには、恐怖が必要なの」
「駄目だ」
チェシーはニコルの手にある《カード》を睨み、するどく吐き捨てた。
「いくら戦争だからって、そんなものを君が持たねばならない理由などどこにもない」
「チェシーさん」
ニコルはうつむき、やるせなく微笑んで、それから顔を上げた。チェシーを見上げて、そっと手を押し返す。
「これでいいんです。僕は、味方にすら疎まれるほどの闇にならなければならない」
チェシーは、押し返された手を愕然と見下ろした。
「理不尽だと思わないのか。私は思うぞ。なぜ、君が良くて彼女は駄目なんだ。異端を僭称しながら君だけが聖ローゼンの教えの只中にいられる理由は何だ。ホーラダインに真実を隠し、そうまでして虚構に虚構を紛らわせて、なぜ」
ニコルは顔をそむけた。
言えない。言えるはずが、なかった。
「分かった」
耐えがたい沈黙の後、チェシーは後ずさってニコルから離れた。
「レディ・アーテュラス」
「何かしら」
「一つだけ、お願いしたいことがある」
「承りますわ」
レディ・アーテュラスは悠然と片肘を組んで微笑んだ。
「何なりとおっしゃって」
「彼女に書状をしたためる無礼を許して頂けるだろうか」
「それは、どうかしら。たちまちにはお答えしかねるわね」
レディ・アーテュラスはしらじらしく笑って眼をそらし、薄暗い雲が重なり始めた空を見上げた。
「空模様があやしくなってきたわ。そろそろ失礼しなくっちゃ」
「マダム」
チェシーは、去ろうとするレディ・アーテュラスの後ろ姿に追いすがった。
「もし不快に思ったならば破り棄ててもかまわない。返事も要らない。ただ、読んでくれさえすればそれでいい。そのように彼女に、レイディに、どうか」
ニコルは顔を伏せた。
▼
「それではお二人ともごきげんよう。悪魔さんもお元気でね。お風邪召さないようにくれぐれも気をつけるのよ。何なら毛糸のぱんつを送って差し上げてもよくってよ。赤いのとしましまがいいかしら? それとお外に出るときは必ず手袋とお帽子とマフラーをなさってね。レディ・バラルデスに聞いたところでは青汁とヨーグルトとキャベツのピクルスが健康に良いらしいわ。兵隊さんたちにも是非オススメして差し上げてね。それからショウガのお茶と」
際限なく扇子を振って別れを惜しみ続けるレディ・アーテュラスを乗せた馬車が、ごとごとと悪路を跳ね上がって角を曲がるその時まで、ニコルはチェシーと肩を並べ、所在なく見送っていた。
ニコルは、ためいきをついた。
「相変わらずだ、義母さまったら」
「あのひとには永遠に敵いそうにないな」
チェシーは、ひょいと親指を挙げた。ニコルを促す。
「近くに馬をとめてある。まだ盗まれていなければだが。君はどうする」
「僕は歩いて帰りま」
言いかけた途端、雨がぱらつき出した。たちまち大粒の雨に変わる。
「うわっ」
「しようがないな。ほら、来い」
チェシーは呆れたふうに笑って、悪魔の尻尾を引っ掴んだ。構わず雨の中を突っ走ってゆく。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
ニコルはあわててチェシーの後を追った。
「ああっ雨がメガネが前が」
叩きつけるような雨の中では、風流に濡れてゆくこともできない。
ぼうっとしていてはびしょぬれになる。ニコルは頭を抱え、右往左往する。
「うわあチェシーさんちょっと待って」
雨に打たれっぱなしのメガネが、みるみる水滴に覆われて視界を奪う。
けぶる雨の向こう、遙か前方を行くチェシーの背中に必死で声を掛けてみるものの、ついにはその姿さえ見えなくなる。
「ど、どこ?」
「こっちだ」
思いもよらない横道から、チェシーの声が飛び出してきた。
「雨宿りできるぞ」
あわてて袖でメガネを拭い、周りを見渡す。
ツタや雑草が蒼然と這い回る朽ちたアーチ橋の下から、手を振るチェシーの姿が見えた。
「早く来い」
ニコルは、転がり込むようにしてアーチの下へと飛び込んだ。
足下の石畳を水が伝い流れてゆく。
吹き降りの雨の音がふいに高くなった。
ニコルは情けない濡れ鼠状態でぐすっと鼻を鳴らす。
「もう、何で急にこんなに降るかなあ」
身体中が芯まで濡れて、ただでさえ白い軍衣が肌に貼り付いて透けるような気さえする。それがやたら気恥ずかしくてたまらず、ニコルはおろおろとハンカチを引っ張り出した。
濡れたメガネや髪を急いで拭き始める。
「びしょびしょですよまったくもうどうしてくれるんだか」
照れ隠しにわざと怒ったふうに言ってみせながら、ハンカチをぎゅうと絞る。水が滴り落ちた。
「このまま走るか」
何処吹く風でチェシーが言う。ニコルは拭いたメガネをかけ直しながら、あわててかぶりを振った。
「風邪引きますよ」
「何言ってる。雨ぐらい何だ。我慢しろ。ほら行くぞ」
「で、でも」
ニコルはどうしようもなく降り続ける雨を見上げて、たじたじとした。
「夕立ならもう少しでやむかもしれないし、髪濡らしちゃったら火がないと乾かすの大変だし、それにほら、ここって海沿いだから、雨に濡れちゃったら潮で髪がごわごわに……」
途端、チェシーはむっとした顔でニコルを睨んだ。
「な、何」
ニコルはびくびくと首をちぢこめる。
「まあ、いいか」
チェシーは濡れ髪を掻き上げながら嘆息した。こちらは濡れようがどうしようがまるで気にも留めていない。
「少々、聞きたいこともあるしな」
「や、やっぱり、帰ろうかな」
ニコルは少しどぎまぎしながら言った。
「早く帰ったほうが絶対いいような気がしてきました。また遅くなってザフエルさんに怒られるのはイヤだし」
困惑の表情をごまかしながら早口で言いつのる。
チェシーの視線が、ふと濡れた足下の水たまりに落ちる。
「寒くないか」
ぶっきらぼうに問う。
「い、いえ、別に」
「寒かったら言えよ」
「は、はい……じゃなくてその、いや、大丈夫です」
ニコルは何を言えばいいのか分からなくなって口ごもった。
何だか息苦しい。
寒いのに、なぜか、頬が熱くなって。
チェシーは眼をそらした。
「私は《紋章》使いだ」
降りしきる雨を見つめる。
「《ナウシズ》使いの君が傍にいてくれるとはいえ、本物の悪魔を自ら召喚し使役することを生業とする。なのに、戦略的に有効であるというただそれだけの理由で、異端審問には掛けられずにすみ、拘束もされず、あまつさえ軍命に復することまで許されて」
「……」
「一方、君たちは、運命を自らの手で選び取ろうとした女性の血を引くというだけで異端呼ばわりされ、レイディに至っては表に出てくることすらできない。なぜだ」
「……」
話を聞いていたぬいぐるみの悪魔が、冷ややかに嘲った。
(それが、ローゼンクロイツのローゼンクロイツたる所以さ。足掻いても足掻いても所詮は無駄。無駄と分かっているならいっそのこと、さっさと魂を売り渡してしまえばいいのさ。真の闇にね)
「さすがにレディ・アーテュラスの前では言えなかったが」
チェシーは声に凄味をひそませた。
「君が信じる神の教えとやらは、君たちを拒絶しているんじゃないのか。今回のホーラダインの言動もあからさまにおかしいだろう。君たちを疑っているとしか思えない。もし、彼女の存在が明らかになったら、たとえばあの男に知れたらどうなる。殺されるのか。レディ・アーテュラスが仰っていたように」
ザフエルにだけは、決して、心を許すな、と。
レディ・アーテュラスに釘を刺された一言が脳裏に甦る。
胸が痛い。ひどく乾いて、それでいて淋しかった。
「そうかもしれないし、そうはならないかもしれない。ザフエルさんなら」
信じたい気持ち。信じると決めた思い。叶わぬ望み。ニコルは掌を胸に押し当てた。かぶりを振る。隠し通せるものなら、死ぬまで隠し続けるつもりだった。
身体の奥底に潜む、
「こうするしかないんです。どうしたらいいかわからないからこそ」
「もしそうだとしたら私は……男として最低の振る舞いをしたことになるな」
チェシーは遠い眼差しでつぶやいた。
「愚挙の極みだ」
「何が?」
「ああ、すまない。何でもない。ただの繰り言だ」
自嘲気味にチェシーは笑う。
「己のふがいなさに改めて恥じ入っていただけのことさ。気にしないでくれ」
チェシーはわざわざ雨に向かって手を伸ばし、見れば分かる降り具合を無意味に確かめながら言った。
「私のことはいい。話を戻すぞ。もう一度、今度はきちんと聞くが、この国、ティセニアに、信教の自由という思想はないのか。こんなこと言いたくはないが、君の人格まで否定するような宗旨を、なぜ君までが受け入れる必要がある? 彼女ばかりが忍従を強いられるような教えを」
「誰かに聞かれでもしたら異端審問ですよ」
耐えきれずニコルはさえぎった。
「信心紊乱の罪とか何とか……」
「ほう、体制批判は禁止か」
「そういうことじゃなくて!」
チェシーの言いたいことは痛いほど分かる。
だからこそ逆にひどくもどかしく、はがゆく、心苦しくて、何をどう言い逃れたらいいのか分からなかった。
「口を謹むべきだと言ってるんです」
嘘を嘘で塗り固め、友としての信義に背き、偽りの装いに身をやつしてきた。
その罪を知られたくない。その信頼を裏切りたくない。なのに心のどこかで庇護を求め、依存しようとしてもがく無恥な自分がいる。
「チェシーさんだって、何も好き好んで」
これ以上、チェシーを巻き込むことはやはりできない。
光と影の彼方にかすむ記憶は遠い陽のせつなくかげり落ちるに似て、もはや罪悪感に等しかった。
自分が何者なのかわきまえもせず、ほんのいっとき日の当たる場所を望んだばかりに。華やかなうたかたの光を、決して叶わぬ夢を願ってしまったばかりに。
くじけそうになる気持ちを奮い起こし、かろうじてニコルは笑った。
冗談めかして言う。
「……ゾディアックのスパイだなんて思われたくはないでしょ」
チェシーは憫笑した。
「そう来たか」
否定しない。
否定しない――
ニコルは一瞬、耳を疑った。
呆然とする。
チェシーはまだ笑っている。
何もおかしいことなどありはしないのに、眼をそらし、雨空を見上げて、素知らぬ体でまだ笑っている。
何を馬鹿なことを、私が今までに嘘をついたことがあるか? 心外だな、君との友情に誓ってもいい、あり得ない、何だまだ疑ってるのか、そんな顔するなよ、やれやれ、馬鹿だな、君は――
いつもみたいに。
私を、信じろと。
そう言って欲しかったのに。
「……雨、止まないな」
続く声は降りしきる雨に閉ざされて、もう、聞こえなかった。
【男装メガネっ子元帥、偽りの真実を告げる 終】
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