今、何だか、とっても肩の荷が下りた気分なの

「変な入れ知恵をするな」

 いつの間にやらというか、やはりというか。

 憤然として戻って来たチェシーは、ぬいぐるみの悪魔の耳を引っ掴んだ。


(放せ。失敬な。耳がちぎれる)

 きいきいと山猫のように暴れ回るぬいぐるみを、投げ縄のようにくるくると振り回し、そのままぽいと放り投げる。

「どっか行ってろ」

(ふんぎゃああ……)


 しかるのち、何事もなかったかのように胸に手を当て、礼を尽くしてレディ・アーテュラスをいざなった。

「どうぞ、お手を。悪魔の口車ごときに乗せられるのは癪以外の何物でもありませんでしょうが、どうかこの場は我らにお任せあって、今は避難して頂けると有難く存じます」


 レディ・アーテュラスは、そよそよと扇子を揺らした。

「うーん、そうねえ」

 白々しく首をかしげている。チェシーは重ねて言った。

「どうぞご心配なく」

「でもぉ」

「彼との友情に誓って」

 その一言で、ようやくレディ・アーテュラスは破顔した。

「何よりも心強いお申し出ですわ」

 微笑みながら、チェシーに手を差し伸べる。チェシーは椅子から立ち上がるレディ・アーテュラスの手を取った。

「ニコル、マダムを外へお連れしろ」

「はい」

「ニコルさん」

 まるで雲の上を歩くかのような足取りでレディ・アーテュラスは進んでゆく。

「ところでね」

「アフロはだめですよ」

「どうしてバレちゃうのかしら……ではなくって。あのね」

 扇子で口元を隠し、眼で微笑んで、ちらりと横目にニコルを流し見る。

「ママね、今、何だか、とっても肩の荷が下りた気分なの」

「ええ、そうですね」

 ニコルは無邪気に請け合って見せた。

「何だかんだ言ってもこういうときはやっぱりチェシーさんにお願いするのが一番ですよ。足下にお気を付けて」

 レディ・アーテュラスを外へ送り出しながら言う。

「チェシーさんの剣ときたら、まさしく神業ですから」

「女の子を口説く手管も、まさしく神業のようですけれどもね」

「はい?」

「いいえ、何でもなくってよ」


 レディ・アーテュラスはにっこりと笑ってローブの裾をさばき、軽くつまんで持ち上げると優雅に礼をした。

「では、お言葉に甘えてしばらくの間、外で待たせていただくわね。お二人とも無用の怪我をなさらぬよう、くれぐれもお気をつけになってね。ほら、悪魔さんもいつまでも潰れてないでこちらへいらっしゃいな」

(……別に好きで潰れているわけでは……)

「いいからいいから」

 花風の残り香を託して、レディ・アーテュラスは小屋を離れてゆく。


 その無事を窓際から油断無く見届けるとチェシーはわずかに嘆息し、肩をすくめた。

「藁にもすがるとはこのことだな。さてと」

 チェシーは、にやりともったいぶって笑った。

 剣を再びすらりと抜き放つ。


「要するに、君の手だけを残して、他をすべて吹き飛ばせと」

「お願いします」

「ならば、椅子を片づけておいたほうがいいんじゃないか」

「そうですね」

 ニコルはうなずいた。《封殺のナウシズ》を嵌めた左腕を眼前に持ち上げ、手のひらをかざす。

 開いた掌に、小さな青い光が灯った。息を吹きかける。光はゆらゆら回りながら宙を飛び、椅子に触れた。

 途端、椅子はしゃぼん玉のように割れて消えた。


「これでいいんでしょ」

「ああ」

 ニコルは、平然と壁に歩み寄った。壁に手を添える。

「すっぱりとお願いします」

 だがチェシーは動かなかった。


「チェシーさん?」

 チェシーは、どこかいぶかしげに眼を遠く細めた。横目にニコルを見やる。

「一つだけ納得のゆかない点がある」

「はい?」

「いや」

 ためいきが聞こえた。

「やはりいい。やめておくよ」

「ええっそんな。らしくないですよ」

 ニコルは、ぷうと頬を膨らませた。声を尖らせる。

「言いたいことがあるならはっきりと最後まで言ってくれなくっちゃ」

「いいや、いいんだ。これでも小心者を僭称する身なのでね」

 チェシーは吹き飛ばすように笑った。

「聞いて後悔する前に、さっさと世捨て人よろしくノーラスへ引きこもるとしよう。帰る頃にはきっとひどい吹雪だぞ」

「チェシーさん?」

「黙ってろ。爆風で舌を噛んでも知らないからな」

 チェシーは陽気に声を張り上げるや、剣を振りかぶった。


 切っ先が壁に食い込んだ。ためらわずに一気に断ち割り、薙ぎ払う。


 十文字の閃光が眼に焼き付いた。思わず眼を閉じ、首をちぢこめる。

 残光がまぶたを突き抜けてゆく。

 がらり、と。

 羽目板の崩れ落ちる音が聞こえた。湿り気を帯びた土の臭いが漂い出す。


 ニコルは、おそるおそる目を開けた。

 足下に木片がいくつも転がっていた。

 ごわごわとちぢれた《カード》のなれの果てが、かつて壁板であった木片と、外壁の石煉瓦との間に、まさしく紙一重で塗り込まれている。


 と、見えたとき。

 《カード》の表面がみるみる黒ずんだ。空気に触れたせいか、それとも別の理由あってのことか、古い《カード》は一瞬黒い波動をたなびかせたかと思うと、あっけなく存在を失って崩れはてた。

 灰燼が舞い上がる。


 消えゆく《カード》を呆然と見送りながら、ニコルは絶句した。

 ただ一箇所、ニコルが手を置いた部分の壁板だけが変わらずに残っている。

 チェシーは眉をひそめた。

「どうする」

「どうするって」

 ニコルはためらった。


 この板を剥がし、奥にある《カード》を露出させるのは簡単だ。だが、もし、《カード》が過ぎ去った年月に耐えきれなかったら。先ほどと同じく取り出した途端に朽ち果ててしまったら。

 決めるに決められず、思いあまってチェシーを見上げる。

 チェシーは何も言わなかった。ひたとニコルを見返す。


「……ううん」

 ニコルはきっぱりとかぶりを振った。

「他にどうしようもないですよね。駄目なら駄目で、腹をくくるしかないです」

「よく言った」

 チェシーは不敵に笑ってうなずいた。

「手をどけろ。壁を剥がしてやる」

「いや、僕が自分でやります」

「失敗してアフロにならないよう気をつけろよ」

「そうしたら、これからは第五師団アフロ部隊を編成しますよ」


 ニコルは強がり笑って、最後の一片を取り外した。

 鮮烈な白い光が奔った。

 火花のはじける、するどい音が飛び散る。ニコルはあまりのまぶしさに思わず壁板を取り落としそうになった。


 思わず声を呑む。


 もしこれを床へ落としてしまったら。とっさに壁板ごと何もかもを胸に押し当て、抱き込むようにして身を伏せる。せめてチェシーや退避したレディ・アーテュラスにだけは――

 恐怖に眼をぎゅっとつむり、歯を食いしばって、永遠にも近い瞬間が過ぎてゆくのを待ち受ける。


「何をやってる」

 頭上でチェシーの声がした。

「え?」

 ニコルは目を開けた。

 はらり、と。

 胸元に抱きかかえた《カード》が、時を経た白い灰となって消えてゆくのが見えた。

「あっ」

 その霞を手で掴もうとして空振りし、ニコルは悲痛な声を上げた。

「消えちゃう……」


「よく見ろ」

 苦笑いを含んだチェシーの声が軽い拳とともに降ってくる。

 こつ、と頭のてっぺんを小突かれる。ニコルは思わず頭をかかえた。

「あいたた何するんですか」


「よく見ろと言ったんだ」

 チェシーは、白い灰に埋もれた壁板の裏を指し示した。

 ニコルは、ぎごちない手つきで白い灰を払う。


「あ」

 闇の濡れ羽色に光る《カード》の縁が目に入った。

 漆黒に金泥のアラベスク模様で裏一面を装飾した、荘厳でありながらどこか連綿と終わることのない悔恨を思わせる呪符。


 《封殺のナウシズ》が青白くゆらめく。


 ニコルはカードを手に取った。

 ゆっくりと裏返す。


「それは《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》と称される呪よ」

 レディ・アーテュラスの涼しげな声がひびいた。

 外の壁の鈴が鳴っている。

 顔を上げて、振り返る。

「《死の黄昏クレプスクルム・モルティス》……?」

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