禁忌の壁

「誰も触れることのできない《禁忌の壁》」

 レディ・アーテュラスは、ほっそりとした肩を皮肉にすくめた。

「その効力のほどを確かめてみたかっただけよ」

「だから、なぜ」


 ニコルの訴えに、レディ・アーテュラスはふと現世に立ち返ったような表情を浮かべ、焼けただれた手のひらに視線を落とした。ほのかに翳り笑って、痛みを握り潰す。

「ずいぶんと酷い呪いゲッシュですこと」


 試すようなまなざしで、チェシーをちらりと見やる。

「准将はこの呪詩ゲッシュが読めるかしら」


 チェシーは、ひどくこわばった顔で字面を目で追った。かぶりを振る。

「あいにく寡聞にして判読できぬようだ」

「そう」


 おそらくは、痛みのあまり血の気が引いてしまったのだろう。レディ・アーテュラスはふいに息をつめ、言い終えぬうちにニコルへと倒れかかった。

 あわてて、その華奢な身体を抱き止める。


 ニコルはほぞを噛んだ。無理をさせすぎたに違いない。痛々しく火ぶくれした手を見つめ、とにかく火傷の痕を見せないようにと、ポケットからハンカチを引き抜いて巻きつけ、結ぶ。

「義母さま、話は後で。お屋敷までお送りします」

「あらイヤだ。まだお話は済んでいなくてよ、ニコルさん」


 レディ・アーテュラスは青ざめた表情を気丈な微笑に変えた。いたずらにニコルの頬をちょこんとつついて、唇をとがらせる。

「ママのおしゃべり好きはようく御存知でしょ? それに異国の貴公子とお話しできる機会なんてシュゼルム殿下じゃあるまいし、今を逃してはもう二度と来ないに決まってるわ」

「別に、話なんていつでもできるでしょう」

「ノーラスは遠いわ。わたくしには。遠すぎるの。だから、もう少し、お話をさせてちょうだい」

 レディ・アーテュラスは甘ったるい微笑みでわがままをねだる。

「是非とも、准将に聞いていただきたいの」

「ダメです。こんなお怪我をなさった状態でお帰りになったら、僕が義父上に怒鳴られます」

「ニコル」

 チェシーが口を差し挟む。ニコルは顔を上げた。

「チェシーさんは黙っていてください」

 はるか高い位置にあるチェシーの顔を、けわしく睨み据える。


「差し出がましいのは重々承知している」

 チェシーは苦々しい吐息をついた。憂悶の表情で額に手を押し当てる。

「レディのお怪我のこともある」

 しかしすぐに手を振り払った。

 決意の眼差しでニコルを見下ろす。


「だが、今しか聞く機会がないのも事実だ。私如きが知ったところでどうなるというものでもないだろうが、もし微力とはいえ、君たち兄妹の力に少しでもなれるのであれば、今は、その思し召しに心から殉じたいと思っている」


「さすがね。騎士たる者、やはりそう仰有ってくださらなくては。ニコルさんも、准将の男意気を少しは見習いなさいな」

 レディ・アーテュラスは両の手をぽんと打ち合わせた。

「准将ってば本当に素敵。うっとりしちゃう。ああ、このせつなくももどかしい気持ちはどうしたらいいのかしら。もしパパと結婚してなかったらママ本気で准将といけない恋のアバンチュールを」

「ぽんって。いまぽんってしましたよね?」

 レディ・アーチュラスは、握り締めた手を見下ろし、あら? といった顔をしたあと、両手を揉み合わせて、コホコホと咳をした。

「あいたた。たいへん。いいえ、何のこれしき。ママは素敵な殿方とおしゃべりするためなら、こんな火傷のひとつやふたつ、どうということもなくってよ」


 虚勢をさっと取りつくろい、ふわふわのショールを肩へ投げかけ直すついでに手の甲を口元へ添え、おーっほっほっほと高笑う。

「ということでニコルさんも一緒に聞いててくださる?」


「僕は結構です」

 ニコルは気後れし、後ずさった。

「今さらそんな、聞いても仕方ないことを」

 怖じ気づいた眼で、壁に描かれた呪詩ゲッシュをうかがい見る。


「大丈夫よ」

 レディ・アーテュラスは、おっとりと微笑んで打ち消した。

「怖れることはありませんわ。だってこの呪は」

 そこで、顔をしかめる。ニコルは、レディ・アーテュラスの身体を支えた。


「どうかご無理なさらず。そうだ、ええと、椅子……」

 レディ・アーチュラスはまぶたを閉じた。細い吐息をもらす。痛みをこらえてでもいるかのような表情に変わる。顔色が悪い。

 こんな小屋に椅子などあるわけがない。せめて椅子の代わりになるような木箱でもないかと、おろおろ見回す。


「おい、ル・フェ。来い」

 すかさず、チェシーが反応した。尊大に指を鳴らして悪魔を呼びつける。

「マダムに椅子を」

(断る)

 悪魔は高慢に吐き捨てた。

(僕を誰だと思ってるんだ。魂の冒涜者だぞ? 高位の召喚魔たるこの僕がなぜ使い魔同然の雑用を言いつけられなければ――)

「ほう」

 チェシーは口の端を吊り上げるや否や、次の瞬間、神速の手を伸ばして、ぬいぐるみの耳を鷲掴んだ。


 一見紳士的に「失礼」とにっこり言い置いてから、小脇に引きずり込む。

 と思うとくるりと背を向け、何やらボカスカと無言の拳を閃かせた。


(うぎゃあ止べでぐべごわぶッ……!)

「見苦しいところをお目に掛けた」


 ずたぼろになったぬいぐるみを、さあらぬ体でぽいっと闇の奥へ放り込み、にっこりさわやかに微笑む。

「直ちに用意させますので今しばらくお待ちを、マダム」

「お心遣いうれしく思いますわ、准将」

 にこにこなら負けじとばかりに、レディ・アーテュラスも快く応じている。

 談笑入り交じる丁々発止の社交辞令に辟易していると、ふとレディ・アーテュラスがつつつ、と横歩きに忍び寄ってきた。

 唇を寄せ、秘密めかしてこっそりと耳打ちする。

「なかなか手強いわね、彼」

「はあっ!?」

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