悪戯好きの人妻はお好き?

「義母さま」

 ニコルは後ずさった。背筋を粟立たせ、レディ・アーテュラスとチェシーを見比べる。

「だめです」

 かぶりを振る。


 チェシーはニコルを見やり、天井に貼り付いた悪魔の放つ《紋章》の揺らぎに目を移し、荒れた小屋の内部をどこか悲痛な面持ちで見渡した後、おもむろにレイディ・アーテュラスへと視線を戻した。

「……そのように呼ばれた人のことならば話に聞いて知っている」

「よかった。でしたら話も早くなりますわ」

 そこでふと声色を変え、レディ・アーテュラスはきょろきょろと無邪気に周りを見回した。

「ところでニコルさん、立ち話も何ですし、ママお椅子が欲しいのですけれど。どこかに置いてないかしら」


「は?」

 ニコルは素っ頓狂な声を上げた。

「そんなこといきなり言われましても」

「仕方がないわね。ここは悪魔さんに魔法の絨毯でも出して頂こうかしら」

「は!?」

「冗談よ。冗・談」

 扇子をふりふり、素知らぬ顔でおほほほと笑う。

「ところで准将」

 そのままの微笑を今度はチェシーに投げかけ、つつ、と忍び寄って扇子越しにささやく。

「貴方、悪戯好きの人妻はお好き?」


「かかかかか義母さま!」

 頭からぴぃぃぃ! と甲高く蒸気が噴き上がる。ニコルは真っ赤っ赤になってレディ・アーテュラスとチェシーの間に割り込んだ。

「な、な、ななな何をいきなり!」

 必死に双方を押し分けながら、喉の奥に詰まる声を裏返らせ、レディ・アーテュラスにしがみついて、ぶるぶる頭を振る。

「だめったらだめったらだめホントにチェシーさんだけは絶対にダメーーーっ!」

「あらそうなの? 残念」

「……社交辞令はともかく、今のこの状況で了解を申し上げれば間違いなくどこぞの誰かに殺されかねないな」

「平然と人妻に手を出すなあああ!」

「ということでマダム」

 チェシーは皮肉な微笑を浮かべ、レディ・アーテュラスの手を取った。

「いずれまた。次の機会にでも」

「次も何もダメだって言ってるでしょうがああっ! チェシーさんの馬鹿あっ!」


「んもう、いやあね。少しは落ち着きなさいな、ニコルさん」

 レディ・アーテュラスはぱたぱたと扇子を揺らして、半泣きになりかけのニコルの鼻の頭をあおいだ。

「冗談に決まってるでしょ? でも」

 悪戯な羽が、ふわっと鼻先をくすぐる。ニコルはふがふがとよろめいた。

「ふがっ、ふわっ」

 ぶえっくしょん! と。さらに、もうもうと埃が舞い上がる。たまらずくしゃみを連発するニコルを、そそと扇子で押しのけ、レディ・アーテュラスはくすくすと小鳥のように笑う。

「ちょっぴり面白かったかも」

「あああ!」

 ニコルは我が身のあまりの不憫さと鼻のむずむず具合にめそめそと泣きながら、がっくりと両手をついて切歯扼腕、床に伏した。

「僕だけですか。馬鹿正直に話を聞いてるのはやはり僕だけですか義母さま」

 床をごつんごつん拳で叩く。


「ね、からかうと可愛いでしょ」

 レディ・アーテュラスは、軽いウインクをチェシーに投げ与えて言った。

「……こんなふうにともお話できればどんなにか」


 チェシーの表情がふいに変わった。

「まさか」

「あら、どうかなさいまして?」

 レディ・アーテュラスの微笑みは変わらない。

 チェシーは一息入れ、あえて冷静を装って、わずかに唇をつりあげた。けわしい眼で瓦礫の散乱した室内を見渡す。

「レイディがここにいるのか。あのひとが、まさか、こんな所に」


「まあ」

 レディ・アーテュラスの大きな瞳がきらりと光る。

「准将ったら、もしかしてのことを覚えていて下さいましたの?」


「え」

 ニコルはぎくりとした。嘆きの床に打ち付けようとしていた手を途中でこわばらせる。


「覚えているも何も」

 性急に言いつのりかけて、チェシーは口をつぐんだ。

 ニコルの怖じ気づいた視線に気付いたか。あるいは、女性との会話には似つかわしくない語気であるとでも思ったのか。

 表情をやわらげ、取りつくろったいつもの軽妙な物言いに、皮肉と微笑をまぶして続ける。

「失礼した、マダム。いや、さすがに、毎日彼と顔を突き合わせている身としては、忘れようにもなかなか、どうして」


「あらま。どうしましょ」

 レディ・アーテュラスは大袈裟に目を丸くした。扇子の羽をふわりとたなびかせて、口元へと引き寄せる。

「そう言われてみればそうよね。入れ替わり立ち替わりしてるうちに、ママにも見分けがつかなくなっちゃうほどですもの。本当にそっくり。あらやだ。ちょっとお待ちになって。貴方ニコルさんよね? まさかニコラさんじゃないわよね?」


「な……!」

 ニコルはみるみる顔色を失って硬直した。


 いいいいきなり何を言い出すかと思えば事もあろうにの名を引き合いに出すなどとあまりにも軽挙というか妄動というか前方の標的に対して斜角四五度とひん曲がりすぎの方向オンチにも程がある。もしこのまま言い散らかすに任せておけばどうなることやら、というか既に最悪の事態が目と鼻の先!


「入れ替わりか。なるほどね」

 チェシーの皮肉ながらどこか本気交じりの笑いが横面に突き刺さった。

「確かにやりかねないな、なら」

「ご冗談を」

 やはり来た。ニコルは顔だけを平静に装い、脂汗をだらだら流した。

「僕は僕ですよ。誤解なきよう」


 天井の梁にしっぽをからませ、逆さにぶら下がって話を聞いていた悪魔が、くつくつと邪悪に含み笑った。

(何度も見間違えられてるくせに)


「ふふっ、紛らわしいこと。さぞやお困りでしたでしょうね」

 レディ・アーテュラスは笑みをそらした。チェシーは気安く肩をすくめ、言葉を返す。

「いえ、滅相も」


「私からも、お詫び申し上げますわ」

 高貴な水色の瞳が、壁に書き殴られた狂気の残滓をひたと見つめる。

 笑みが削げ落ちた。

「何の関係もない貴方をこんなことに巻き込んでしまって」


 チェシーが眉をひそめる。

 静寂が落ちる。しんとして、何の物音もない。

 いや――

 風に吹かれた鈴が鳴っている。

 乾ききった、かすかな、空虚な音が。


 レディ・アーテュラスは、穏やかな眼差しを慈しみの色へと代えて、ちらりとニコルを見やった。


 残り香をふわりとたなびかせ、呪いを書き記した壁へと近づいてゆく。

「姉は、愚かな女でした」

 たおやかな手を伸ばし、何の躊躇もなく押し当てる。


 途端、泥のような煙が立ちのぼった。

 鼻を突く異臭が充満する。


 繊細な白いレースの指先が、見る間にどす黒く、赤くただれて腐り落ちてゆく。それでも、レディ・アーテュラスは手を放さない。


「何をなさって……!」

 ニコルは甲高い声をあげて跳ね起きた。ばね仕掛けのようにレディ・アーテュラスの傍らへ駆け寄る。

「この呪いに触っちゃいけないって仰有ったのは義母さまでしょう」

 手首を乱暴に掴んで、呪の滲み出る壁から引き剥がす。レディ・アーテュラスはよろめいた。

「どうしてこんな真似を」


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