我が誓いだけは常しなえに変わることなく

 やはり、思い出せない。


 その先、当然知っているはずのさまざまな出来事が記憶の底に沈んだまま、どんなにもどかしく思っても何かが邪魔をしてどうしても取り戻せない。

 寂寥の闇を帯びたまなざしが見つめている。

「え、ええと」

 ニコルは訳が分からなくなって手を額に押し当てた。

「確か、ええと、何だっけ、あの」


 そのひとが誰なのか、もう喉元にまで言葉が出かかっているのに。


 誰かに、何かに似ている。

 そう気付いた途端、一瞬つかみかけた記憶のよすがが激しく乱れた。はかなく消え失せてゆく。ニコルは頭を抱えた。

「だめ、思い出せない」

「おい、本当に何も覚えてないのか」

 隻眼の将校は遠慮会釈ない大胆な足取りでいきなり寝室へと踏み込んできた。いらいらと吐き捨てるように言う。

「何か一つぐらいは思い出せるはずだ。いったい何があった」

「え」

 ニコルはぎくりとして毛布を掴んだ。

「今はまだそのようなことを問える状態ではないでしょう」

 黒髪の軍人が遮る。

 ニコルは口ごもった。どうやらすべての記憶を無くしたわけではないらしい。かろうじて心に自我の片鱗が残っている。

「確か、本が降ってきて」


「そ、そうだよ、思い出したんだね」

 ぽっちゃり顔が飛び起きた。息せき切って身を乗り出し、頬をいちごのように染めて何度もうなずく。

「ぼくが、君に、その、本の山を」


 ニコルは口をつぐんだ。恐縮の笑みを、見知らぬぽっちゃりへと向ける。

「……それで今、眼が覚めました」


「何だそのご都合主義は」

 将校はうんざりした顔でためいきをつく。

「肝心の途中経過を全部吹っ飛ばしてどうする」

「途中?」

 ニコルはきょとんとした。

「何が?」

「覚えてないのか。君が記憶喪失で徘徊してる最中に当の君の偽物がうじゃうじゃ湧き出してだなあ!」

「何で?」

「それはこっちの台詞だ。とぼけてる場合じゃないだろう」

「だ、だから、怒って済む話じゃ、な、ないんですって」

 将校の表情が見る間に苛立たしげな様子へと変わってゆくのを見て、あわててぽっちゃり少年がなだめにかかる。将校はしぶしぶ口をつぐんだ。

「まったく人騒がせにもほどがある」

「場を弁えることも知らぬ無頼の輩こそ即座にこの場を立ち去るべきかと」

 黒髪の軍人は、出口を目線と態度であからさまに示す。

「どうぞ。お帰りはあちら」

「何だと。私だってそれなりに心配はしている」


「ま、まあ、その、こ、ここは」

 ぽっちゃり少年がまたまた慌てて間に割って入る。

「い、一応、病人がいるってことで、ここはその」

「先に咎め立てして来たのは私ではなくそっちの鉄仮面殿と存ずるが」

「……見苦しい」

「何?」

「だ、だからお二方とも、け、け、喧嘩なんてしてる場合じゃ」

「喧嘩ではない。単なる面当てだ」

「……負け犬の遠吠え……」

「何いっ」


 ニコルは言い争う二人の軍人をぼんやりと見つめた。

 心がひどく騒いで仕方がない。

 先ほどのかすかな予兆がよみがえった。

 残っているはずのない記憶がざわめく。黒髪の軍人の声がおそろしいほど耳に焼き付いている。


 似ている。


 ニコルは唇を噛んだ。腕にはめたほの朱いルーンの瞬きが、何かを告げている。


 記憶の底に澱む、暗い影。子供の泣き声。怒鳴り声。冷たい足音が響き渡る。火薬の臭い。慟哭と暗雲。行き違い、ぶつかりあう光と闇。


 悲鳴と雷鳴に照らし出され、現れては消え、消えてはまた現れる絶海の孤島のごとき薔薇の牢獄にただ一人閉じこめられて。

 その眼に、業火が映る。舞う。あかあかと散る。涙を焼き尽くすほどの灼熱が頬を炙る。


 心の奥底に潜んでいた残酷な記憶が過去の傷を生々しく炙り出してゆく。


「こないで」

 身体が震え出す。似ている。止まらない。似ている。似ている。に似ている。ずっと心の底に押し込めていた記憶の破片が、覆い隠す理性の仮面を失い、心に突き刺さる。


「いやだ。知りたくない」

 身をよじるようにしてかぶりを振る。ニコルは自分の髪を鷲掴んだ。ベッドに突っ伏す。腕に嵌めた二つのルーンが、燦爛と乱れ散る光を放って燃え上がった。


。マイヤがしんじゃう。マイヤは悪い魔女なんかじゃない。悪いのはかあさまをいじめたローゼン――」

「閣下」

 鞭のように鋭い声が誰かの名をかき消す。

 ルーンの見せる過去の幻影に囚われたニコルは、涙こぼれ落ちる悲愴の眼差しで黒髪の軍人を睨み付けた。


「だいきらいだ」

「閣下」

 黒髪の軍人が、初めてその顔を愕然とこわばらせる。メイド姿の少女が手のひらを口に押し当てて悲鳴を呑み込んだ。

「師団長、言っちゃだめ……!」


「おまえなんか、だいっきらいだ」

 子どもじみた泣き声を上げるなり、ニコルは手にした毛布を軍人めがけ叩きつけた。毛布の端が軍人の顔を打つ。黒髪が揺れた。唇が引き結ばれる。滑り落ちた毛布が足下で無力にわだかまった。

 それでも軍人は動かない。


「閣下」

 押し殺した声。背後の将校が不穏な皺を眉間に寄せて軍人を見やる。

「閣下」

 まるで、他に名を口にするすべを知らぬかのように軍人は何度も何度も同じ言葉を繰り返す。

「閣下」


 ルーンの朱い光がふいにふつりと途絶えた。幻視の呪縛から解放され、ニコルは大きく息をあえがせた。凍りついた眼で軍人を見返す。


 違う――これは、現実だ。幻じゃない。このひとは、マイヤを殺させたローゼンクランツじゃない。けど違う。このひとは。


「ぁ……」

 ニコルは息をすくませた。目の前に佇立する軍人の表情にようやく気付く。

「ご、ごめんなさい」

 声が震えた。かすかな記憶とともに自制の意識が戻ってくる。投げつけた毛布は未だ拾われぬまま振り棄てられていた。それを恐怖の眼で見やる。

「ぼ、僕、今、何てことを」

「いえ」


 軍人は、無表情の仮面を完璧なまでに保ち抜いたまま、深い吐息を漏らした。毛布を拾い、慎重にベッドへ歩み寄ってきて足下へと戻す。

 作り物の風が吹き抜けたかのようだった。

「どうぞお心置きなく」

 軍人は目を合わせることもなく身をかがめた。ニコルの前に片手片膝をつく。

「私の名など忘れられても構いません。たとえ憎まれようが、閣下のお心から私の存在が失せようが構いません」


 肩口から下がる金の参謀飾緒が鈴のように光った。横薙ぎに一本、黒い掻き傷の入った万年筆がポケットからはずれて落ち、飾緒にぶら下がって揺れ動く。


「ですが我が誓いだけは常しなえに変わることなく」

 顔を伏せ、声を落とし。

「我が命、我が剣、我が思いのすべてを永遠の忠誠に代えて、ただ御身にこそ祈り捧げたてまつる。我が主、ニコル・ディス・アーテュラス」

 深々と頭を垂れる。


 誰かがごくりと息を呑む。声もない。

 ただぱちぱちと柔らかく火の粉のはぜる音だけが聞こえていた。



 ぽつん、と。

 ニコルはふいに頬を濡らしてゆく何かの感触に気付いて声を呑んだ。

 眼をしばたたかせ、鼻をこすり上げる。メガネはなぜか真っ白に曇っていた。半ば驚き、半ば困惑してメガネを押しやり、曲げた指の背で濡れた頬を拭う。

「やだな、な、何で濡れ……お、おかしいな」

 うろたえた自分をごまかすかのようにおろおろ笑い、ベッドに座ったまま後ずさって、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを引っ張り出す。それを見て、ニコルはまた眼をみはった。


 ザ印のハンカチ。

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