本当は覚えている

「どうだ、あの馬鹿の具合は」

「ぐったり……じゃなくてぐっすりお休みになっておられますです」


 隣室のドアをぱたりと閉じて、手に白いタオルを提げたアンシュベルが戻ってくる。ソファにふんぞり返っていたチェシーは身を起こし、考え込む素振りをして見せながら苦々しいため息をついた。

「七か」

「七です」

「処しがたいな」



 暖炉の火があかあかと燃えている。

 白で統一された調度は照り返しに染まり、ほんのりと薄紅の色に色づいて見えた。

 薪が惜しげもなくくべられてゆく。むしろ暑すぎるほどだった。アンシュベルが火を掻くたび、ぱちぱちと火の粉が散る。

 隣の寝室でニコルはひとり、深い眠りに身をゆだねている。

 ――いや、正確には眠っているのではなく失神しているのだが。


 不可抗力であった。

 地下書庫を埋め尽くす偽ニコルの群れをどうにかしようにも、どれがどれやら見分けも付かぬ上に本物だろうが偽物だろうがとにかく全員が全員とも「自分が本物のニコルである」と力説して止まず。

 よって結局一人ずつチェシーがぶん殴り、その結果消滅しないのがホンモノであるという極めて乱暴かつ原始的な消去法により本人を確定。だが無事認証はされたものの、当の本人が殴られた衝撃によりまたまた気を失ってしまったので仕方なく当面の間失神させておくことと相成ったのであった。


 従ってたんこぶの数は合計七となる。



「記憶喪失というのは本当なのか」

 全身ぼこぼこのつぎはぎだらけにされた悪魔のぬいぐるみは、チェシーの凶悪な声にぷいとそっぽを向いた。哀れがましいことに、横っ腹からぴろりと白い綿の端切れが見えている。


(知らないね)

「どの面さげて戯言を抜かしやがるこの性悪悪魔め。全部貴様のせいだろうが」

 チェシーは悪魔のほっぺたをぐにゅうとつねり上げた。

(いたたたたた痛い痛い痛い)


「准将、あの」

 さすがに焦ったフランゼスが、おどおどと口を挟む。

「だから、その、ぼ、ぼくが、本をニコ、ニコルに。そ、それで」

「そうそうっ」

 アンシュベルがあわてて相づちを打つ。

「殿下が師団長が大変大変って連絡をくださってそれで急いで駆けつけたら悪魔サンも師団長もいなくなっちゃってたです。きっとその間にあの、ええと、師団長の偽物が大発生しちゃったんだと思うんですけど、その……かわいいのとか、へんなのとか」

「その話はしてくれるな」

 チェシーは苦虫を噛みつぶしたような顔のまま、ザフエルを振り返った。

「で、あんたもその経緯を知ってたわけだ」


 ザフエルは答えない。


「そう腐るな」

 チェシーは髪をくしゃくしゃに掻いた。

「というかさっきから何度も謝ってるだろ。あらぬ誤解をして悪うございましたって」

 ザフエルはむっつりと顔をそむける。どうやらこの程度の謝罪では返答する気にもなれないらしい。徹頭徹尾無視を決め込んでいる。


 チェシーはやれやれと肩をすくめた。アンシュベルに人数分の紅茶をいれて持ってくるよう頼む。

「あれば、ウォツカと木いちごのジャムも頼む」

「はいです。あ、よろしかったら一緒にミルクと軽いお夜食もお持ちしましょうか」

「すまない。気が利くね」


 ぱたぱたと軽い足音をたてながらお茶の用意を始めたアンシュベルの後ろ姿を見送り、チェシーはまたソファに身体をしずめた。

「とにかく詳しい話はあの馬鹿が眼を覚ましてからだ」


「で、でも准将」

 フランゼスが不安そうにつぶやいた。

「も、もしニコルの記憶が、もど、戻らなかったら」

「何とかなるさ。何とかな」

 チェシーは投げやりな仕草で背もたれに身体を預けた。両手を頭の後ろに組んで、天井の火影を眺める。

「何とかしてやるしかないだろ」




 眼が覚める。

 誰かの腕にも似た安堵感に包まれているような気がした。すぐにそれが暖かい毛布の肌触りであることに気付く。

 どうやら眠っていたらしい。夢でも見たのかしら、などと、うっとり思いながら、またとろとろとしたまどろみに落ちてゆく。


「何とかしてやるしかないだろ」

 唐突に男の人の声が聞こえた。


 びくっと息を吸いとめ、毛布を口元にまで引っぱり上げる。誰かが隣の部屋にいる。

 無意識に、ベッド横のテーブルへと手が伸びた。指先がメガネを探し当てる。それを掴むと、ニコルはベッドから上半身を起こした。

 毛布を枕のように抱き込んで、心許ない胸元を隠して辺りを窺う。


 お茶のカップやスプーンの鳴るかろやかな音と一緒に、ひそひそと話し合う声が聞こえた。数名が頭を付き合わせて密談でも交わしているのだろうか。だが、薄暗がりに沈む部屋の内部同様、頭の中全体にぼんやりと霞がかかって、なぜ一人だけ寝ているのか、そもそもここはどこなのかさえ、まったく思い出せない。


「うーむ」

 首をひねって考え込む。嫌な予感がする。どうやら記憶の時系列が混乱しているらしい。

 やはりよく分からない。

 とはいえ、とにもかくにもこういうときにはまず、精神衛生の万能薬たるメガネに頼るべきであろう。視界が澄み渡ればきっと記憶も晴れるはず。


 と思い、さっそくメガネを装着するべく試みたその矢先。


 持ち上げた手がごつんと、にわかには理解しがたい空間座標に位置するたんこぶに突き当たった。

「あ痛たあっ」


 つまり自分で自分をぶん殴ってしまったことになる。何でこんな頭頂部に大量のたんこぶが。

 予想外の痛みにニコルはごろごろと悶絶して突っ伏した。

「な、な、何か頭がいたたた!」


 途端、隣室が騒然となった。

「今の声」

「ニコルの声だ」

「もしかして眼が覚めたんじゃ」

 いくつもの声が重なり合った。数人が一斉に駆け寄ってくる足音が聞こえ、せわしないノックが後に続く。

「師団長っ」

「静かになさい。全員下がって」

 ぴしゃりと制する声。

 ニコルはどきりとして涙眼をみはった。今の声は。


「失礼」

 扉が開けられる。


 柔らかな光があふれた。暖炉の炎が目に入る。その明かりに、くっきりと端正な姿形が、闇色の逆光に切り取られ、浮かび上がった。


「閣下」

 まず入ってきたのは黒髪の軍人だった。続いていくつもの顔と声が一斉になだれ込んでくる。

「お具合のほどは」

「に、ニコル、大丈夫?」

「師団長っ」

(ふ、ふん、人の気も知らないでぐーすかといつまでも呑気に寝やがって)

「悪魔は黙ってろ」


 思いも寄らない事態に、ニコルはベッドの上で顔を引きつらせた。毛布を掴み、座ったままびくびくと身を退く。

「な、なに、誰、あなたたち」


 先頭の軍人はぴたりと立ち止まった。


「ええっ」

 直後にいたぽっちゃり顔の少年が、うわあとのけぞった。

 まさかその気難しい背へぶつかってゆくわけにもいかず、慣性の法則と運命の皮肉に逆らうべく両手を必死にばたばたさせ、どうにかこうにか踏みとどまった、と見えたところへ運悪くもう一人。今度は金色の髪をふわふわのくるくるに巻いた少女がきゃー! と両手で突っ張って突き飛ばす。あわや玉突き事故、と思いきや、先頭の軍人はまるで後ろに眼がついてでもいるかのように無言でするりと脇に退き、結局ぽっちゃり少年だけがべちゃと床につんのめる。


「も、戻ってないじゃないか」

 ぽっちゃり少年は、床に貼り付いたまま鼻を押さえ、悲痛なうめきをあげた。

 期待半分、不安半分だった一同の表情が、一転して落胆の色に塗り変わる。

「ぼ、ぼ、ぼくのせいだ。ああ、ど、どうしたら」


「そんなことないです、絶対何とかなるです」

 少年を突き飛ばした女の子は甲高い否定の声をあげてかぶりを振った。両手をぐぐうと握りしめ、気丈に力説しながらもみるみるその眼に涙の粒を盛り上がらせる。


「アンシュ、フルーツポンチ作ってくるです」


 少女はメイド服の裾をふわりとひるがえした。無我夢中で飛び出してゆこうとする。

「落ち着け、アンシュベル」

 その行く手を、恐ろしいほど背の高い将校が遮った。少女を腕に抱き止め、猛々しい隻眼を光らせて険しく注意する。

「近習のお前が主人の世話役を放棄してどうする」

「だって」

 少女は、半泣きで将校の手を振り払った。

「師団長、いつもアンシュが作るポンチを美味しい美味しいって熱いのをふうふう言って飲んでくれたですもん。だから、せめて」

「落ち着けと言っている」


「閣下」

 背後の喧騒をすべて聞き捨てて、黒髪の軍人はつぶやいた。その表情はなぜか底知れず、逆に何の変哲もないかのように見える。

「また、何も覚えていらっしゃらないのですか」


 ニコルはざわめく胸元を押さえた。一縷の記憶が、さざめく痛みとなって揺り起こされる。


 ゆらめく火。聞こえない声。

 遠い光景が見える。


 暗くて怖くて寒くて、その最中にたったひとりで取り残されたような気がして、こころぼそかった。でも、そうじゃない。本当は覚えている。誰かがずっと傍にいてくれた。決して甘い、優しい声ではなかったけれど、でも大丈夫だって言って力づけてくれた。なのにそれが逆に辛くて、胸が苦しくて――

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