それはいつもと同じ騒がしい一日の終わり
「な、何だこりゃ」
そぐわぬ珍妙さに思わず口ごもる。
足下にひざまずいていた黒髪の軍人が顔を上げた。
「それは」
口の端がわずかに引き窄む。
「……師団配給のハンカチーフですが何か」
言ってからさすがに気まずそうな様子で眼をそらす。どうやら激しく思い当たる節があるらしい。
「何かじゃない。何だそれは」
金髪の将校がたちまちひそひそと噛みついた。
「貴様いつの間にこのような無気味な代物を師団配給になど」
「今は」
軍人も負けてはいない。黙れとばかりにしっしっと背後に回した手で追求を払い退け、同じくひそひそと反駁し始める。
「ハンカチ如き瑣末な事案を論点にすべきではないはず」
「いいやそうは思わないね。よりによって何だこのザの字の山は。趣味悪すぎると思わないのかあんた師団を私物化するのも大概に」
「これは軍装現物支給の一環であって我々幕僚には何ら関係ありませんがもし准将が麾下にザ印ではなくチェの字での支給を所望されるのであれば実費で対応するに吝かではないと」
「だから今はそういうことを言ってるんじゃなくてだな」
「ですから私もその件に関しては同感と申し上げて」
「どこが同感なんだどこが」
「そこの二人静かにするですっ」
と、もはや水面下でひそひそどころか大っぴらに堂々と内輪もめを始めた二人を、小さなアンシュベルがぴしゃんと叱りつけた。
「分かんないですかオトナのくせに今のこの状況が!」
「むう……」
チェシーもザフエルも、大の男がそろってぐうの音も出ぬ有り様で沈黙する。
(やれやれだ)
《紋章の悪魔》ル・フェが、小馬鹿にした嗤いを浮かべた。
残るフランゼスは、クッションを抱きかかえたまま呆然と立ち尽くしている。
「あ……」
ニコルは部屋に集う各々を見渡した。
手にしたくしゃくしゃのハンカチへと視線を戻す。
何でこんなもの、それもまたいつの間に持たされていたのかまるで思い出せないけど、でも――
時間が逆回りを始めたかのようだった。さまざまな光景が後ろ向きに巻き戻されてゆく。眠りの毒。鉄格子。書庫。階段。あふれる光。悪魔の嗤い。そして落盤のごとく降ってきた大量の本がまるで吸い上げられでもしたかのように元の一点へと収斂してゆき、そして。
すべてが、ぴたりと元の位置に嵌め込まれる。
ニコルは、震えの止まらぬ手でメガネをかけ直した。
頭のたんこぶを撫で、潤む眼を瞬かせる。
それから一人一人の顔と名前が間違いなく一致するのを確かめるために、まじまじと全員の顔を見た。
いつも傍にいて、何くれとなく世話を焼いてくれるかわいいアンシュベル。
小さい頃からずっと知っている幼友達のフランゼス。
皮肉と嫌みを連射しつつも最後には必ず力を貸してくれる新しい友、チェシー。
そして。
慣れない軍務に手間取ってばかりの自分を影となり日向となってずっと見守り、支えていてくれた、兄以上に近しい存在、ザフエル。
見慣れた面々が。
みんなが。
目の前にいる。
ニコルは、メガネの下の眼をこすった。
心の中を埋め尽くしていた霧がみるみる退いて、左右に開けてゆく。そのかわり別の何かが唐突にこみ上げた。また眼がかすんで見えなくなりかける。
「あ、あれっ」
顔を真っ赤にし、ぐしゅぐしゅ言う鼻で何度もしゃくりあげながらニコルはあわててそっぽを向いた。
「ご、ごめん、メガネが」
そんな顔を見られたくなくて、さして曇ってもいないメガネを外して拭くそぶりをする。
「真っ白でぜんぜん見えてなかったかも。は、恥ずかしいな。そ、それに」
視線に背を向け、とにかくあたふたと取り繕う。
「やだな、今さら、そんな、改まって、い、言わないでくださいよ。びっくりして」
何とか表情やら声の調子やらを作り終え、足下にひざまずく黒髪の軍人の方へ振り返る。
「は、ハナミズ吹いちゃうじゃないですか」
もっと肝心なこと、胸に突き刺さるかのようなその思いに応えなければと思いつつも何をどう言えば全部が伝わるのかまるで分からず、手の中のハンカチばかりをいっそうくしゃくしゃに握りしめる。
こんな変なハンカチをくれる人は、この世で一人しかいない。
「さすがに……鼻水はいかがなものかと」
それでも黒髪の軍人――ザフエル・フォン・ホーラダインはなぜか頑なに顔を上げようとはしなかった。
「そ、そうですよねやっぱり」
ニコルは泣き笑った。
「ごめん。ホントに、ごめんなさい」
笑えないのを無理やり笑い出す。
「どうかしてた。勘違いなんかできるわけないのに。よりによって、ザフエルさんを――他の人と見間違えるだなんて」
「師団長」
アンシュベルが息を呑んだ。大きな眼を押し開き、手にしていたお菓子の缶を放り投げて駆け寄って来る。
「師団長師団長師団長しだんちょうううっ!」
「うわっ」
アンシュベルは飛びつきざまに頭をすり寄せた。子犬のように頬ずりし、ニコルに全身を預けて、思いきりほっぺたにキスの嵐を降らせる。
「アンシュは? アンシュのことももちろん思い出してくれたですよね!」
「もちろんだよ」
ニコルはこぼれんばかりに微笑むと、アンシュベルのいたいけな髪を優しく撫でてやった。目元にキスし返してやりながら、こくんとちいさくうなずく。
「アンシュベル。本当にごめんね。心配ばっかりかけて」
「師団長うううう」
「ニ、ニ、ニコル……」
「ちなみにフランは飛びついてこなくてもいいから」
ニコルはにやりと笑ってフランゼスを制した。がーんと落ち込むフランゼスの様子にあわてて付け加える。
「うわわ嘘嘘、冗談だってば。気にしないで」
「絶対に許しません」
俯いたまま黒髪に表情を隠すザフエルがほそっと口を挟む。一瞬にして部屋の温度が下がった。明らかに本気である。
「や、やっぱりその、え、遠慮しておくよ」
フランゼスは蛇に睨まれた蛙のごとく竦み上がった。真っ青な顔で脂汗を垂らし、びくびくと後ずさる。
そんな様子を、残る一人は一歩下がった場所からやや冷めた目つきで見ていた。
「まったく、人騒がせな」
苦笑いして首を振り、頭を掻きながらさも面倒くさそうにため息をついて肩をすくめる。
「最初からおとなしくしていれば何かと大事に至らずに済んだものを」
「人騒がせ……?」
ニコルは眼をしばたたかせた。
困惑まじりに、口元を手で覆う。
「でも、前にも確か、こんなことがあったような気が……」
将校は表情をけわしくした。眉をひそめて問いかける。
「完全に記憶を取り戻したわけじゃないのか」
ニコルは眉をへの字にしてかぶりを振った。
「ううん、そうじゃなくて、人騒がせ……」
小難しい顔で暫時考え込む。と、そこではっと腑に落ちて眼をぱちくりと大きく見開く。
「思い出しました!」
ニコルは表情を輝かせ、ぽんと手を打った。目をきらきらさせながらザフエルを振り返る。
「そうそう人騒がせと言えば、チェシーさん、この前もアルトゥシーで悪魔のお尻触ってたんですよそれはそれはもう凄く嬉しそうな顔でね、こうナデナデナデナデ……」
「一生記憶を無くしてろ、この馬鹿!」
ごいん、と。
いつものごとくものすごい音がして。
「ふんぎゃあっ」
と、これまたいつものごとく吹っ飛ばされたニコルは、がん、ごん、ぐしゃ、と壁から天井に跳ね返ってベッドへ墜落。
紫と黄色の星をこんぺいとうのごとくばらばらと撒き散らしながら、頭から逆さにでんぐり返った。
うあああああ、と目の幅涙で落涙する。
「何するんですかひどすぎます。もしまた記憶喪失になったらどうしてくれるんですか」
「案ずることはない」
チェシーは続いて巨大な刃を本気でぎらりと鞘走らせた。
口元が残忍な笑みに吊り上がってゆく。
「記憶ごと永遠にその口、封じてくれる」
「でっ殿中でござる……!」
「知るか」
チェシーの全身にまとわりついた暗黒の殺気がめらめらと立ちのぼってゆく。
「ぎゃああああ」
「うわああ」
大混乱に陥ったアンシュベルとフランゼスが右往左往して逃げまどうのを後目に、ザフエルはようやく立ち上がった。
凄艶に黒髪を揺らし、チェシーの前へ歩み出る。
「ざ、ザフエルさん、チェシーさんが壊れたっ」
「何言ってるです今のはぜんぜん師団長が悪いに決まってるですっ」
「そそそそそうだよあやや謝るべきだよここはににニコル、絶対に!」
「そ、そんなあっ」
さんざんに責め立てられ、行き場も立場も無くしたニコルは、残された最後の聖域、ザフエルの後ろへと飛び込んだ。
両手で背中にしがみつき、びくびくと怯えた顔でザフエルを見上げる。
「ぼ、僕、何か悪いこと言いました!?」
「何もかも悪いよ!」
「ご安心を」
ザフエルはわずかに首をねじり、物々しくつぶやいた。
「閣下の御身は、我が身命に代えましても必ず護り通してご覧に入れます」
「あ、甘やかしすぎですうっ!」
「あ、あり得ない……」
悲鳴と驚懼の交錯するなか。
「身柄の引き渡しを要求する」
チェシーは凶悪な眼差しをきらめかせ、真剣の切っ先をぴたりとザフエルへと差し向けた。
「これ以上余計なことを口走られては困る。そこを退いて貰おうか」
触れたが最後、真二つに断ち斬られるかのような気魄が立ちこめる。
「た、助けて、おねがい」
ニコルはうひゃあと首をちぢこめた。迫り来る恐怖にがたがたと震える。
ザフエルは冷然と立ちはだかった。動じる素振りすら見せない。
「そこまでお怒りになるとは。何ともはや准将らしからぬ」
冷ややかにつぶやく。
底知れぬ目がざらりと砂の色に光った。
「さては――触りましたな」
とたん、一瞬の動揺が震えとなって、鋭敏な切っ先へと伝い走る。
「あんたじゃあるまいし誰がそんな」
チェシーは絶句した。
「図星と見える」
ザフエルは一人、傲然と肩をそびやかせた。
ニコルの傍に身をかがめ、そっと耳打ちする。
「触ったそうですぞ」
「な、何の話ですかそれは」
ニコルは真っ赤になって後ずさった。無意識におしりをかばう。
「触ったって、ま、ま、まさか」
「おい!」
「痛ましすぎて私の口からは到底」
「誤解だ!」
今にも怒髪天を衝く勢いのチェシーを前に、ザフエルは悠然とニコルの肩を抱いた。
見せつけるかのごとく白い目でちらりと一瞥する。
「……貴方になど誰が」
そこでふいに表情をかき消し、無表情に宣告する。
「閣下は私のものですからな」
場の空気が、ぴきん、と凍り付く。
同時にチェシーのこめかみにも青筋がぴきん、と立った。
「誰がそんなもの」
「言質取りましたぞ閣下」
――はあっ?
頭上で取り交わされる手前勝手な密約を反故にさせる間もなく。
ザフエルはいつものマル秘メモを取り出した。久々にページを繰り、さらさらと書き込んでゆく。
「サリスヴァール准将、閣下との関係を重ねて否定、と」
どうやらかなりご満悦らしく、何やらぶつぶつ言いながら延々と書き連ね、ようやくぱたんとメモを閉じる。
「完全勝利ですな」
――はああ!?
「ええい何たわけたことを」
とそこでチェシーは獅子吼のごとく頭を振るった。ぎろりと凄まじい剣幕でニコルを睨み据える。
「そんなことはもうどうでもいい」
みなぎる怒りの炎が眼に宿っている。絶体絶命である。もはや手のつけようもない。
「そいつを引き渡せ。なます切りにしてくれる」
憤死せんばかりの勢いで迫る形相にニコルは真っ青になって飛び上がった。華麗なる転進いわゆる総退却を図ろうとしたところ、その襟首をザフエルがむんずと手を伸ばし、引っ掴む。
「ぐえっ」
「脱走なさる前におひとつよろしいですか」
「え、ええ、手短に」
仔猫のように襟首をつかまれ、中空で足をばたつかせ焦るニコルの背後に、一歩、また一歩と、チェシーが詰め寄ってくる。
「動くな。刀のさびにしてくれる」
「動くなと言われて従うお馬鹿がどこにいるっていうんですかあっ」
「馬鹿は君の専売特許だ」
狙う刃にぎらりとチェシーの殺気が伝い走る。
「そっそんなご無体な」
ニコルはふんぎゃあああと号泣しながらザフエルに取りすがった。
「ざ、ザフエルさん、手っ手っ手っ」
ザフエルはごほんと咳払いした。白皙をかすかにしかめる。
「ちなみに、記憶をなくされていた間のことは」
「え」
ニコルはどきりとして眼を丸くした。
「まだ他に僕、何か言いました?」
「いえ、別に」
ザフエルは、すっと眼をそらした。わずかにかぶりを振る。心なしか安堵のためいきが聞こえたようだった。
だがそれも一瞬にしてついえた。いつもの冷ややかな無表情に覆い尽くされる。
「ならば構いません」
「あ、あの」
ニコルは口ごもった。
「さ、先ほどのことでしたら、その」
「それは」
ザフエルはそっけなくさえぎった。
「もういいのです」
穏やかに付け加える。
「……終わったことですので」
「ええと、だったら、あのっ……また後ほどお詫びに伺いますのでホントに、あの、っていうかうわっ」
「おい」
がちゃり、がちゃり、と。
「そこのチビっこいの」
まるで神話に伝え聞く死の騎士よろしく、剣の装具を恐怖の響きに打ち震わせ、歩み寄ってくるチェシー。
ニコルは再び震え上がった。
「う、うわあ来たあっ、ザフエルさんったたたたた助けてっ」
半泣きでじたばたと必死にもがき暴れる。ザフエルはしらじらしいためいきをふう、とついた。
「私が申し上げたかったのは」
ちらと斜に視線をそらす。
「あの情熱的なひとときのこと」
「は?」
「初めてでしたのに」
「はぁっ?」
「すべて忘れておしまいになったとは」
「はああああ!?」
「何という酷いお仕打ちであることか」
「い、いや、そのっ、な、何のことだか記憶にございませんが!」
「……ふむ」
ザフエルはつめたくニコルを見やった。
襟首を掴んだ手を問答無用で持ち上げる。
「つれないですな」
ぷらーんと吊り下げられては、地に足がつくはずもない。絞まる喉を押さえ、うううぐるじいい、といたずらにぎゃあぎゃあ暴れるのをそのまま目前にまで引き寄せ、まるで捕らえた獲物を舐め回す老獪な狐のごとく、どこか陶然と眺めやる。
ザフエルはつと眉をひそめた。
ぼそりとつぶやく。
「……責任を取っていただくしかありませんな」
「な、何か立場が違あーーーう!」
「待てい逃げるなそこへ直れ! 成敗してくれる!」
「ふんぎゃああぁぁ……」
▼
それはいつもと同じ騒がしい一日の終わり。
昨日も今日も明日も明後日も、変化はあれど異変はない、そんな堂々巡りの日々が続いてゆくことを疑う者は、このときまだ誰一人として――
【ニコル、記憶喪失になる 終】
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